妹に夫を奪われた私は、静かにすべてを取り戻した
「もう限界だ。離婚して欲しい」
バジーリオ・シモネッティが言った。
シモネッティ伯爵邸で、今まさに修羅場が起ころうとしていた。
「いきなりなんです?」
昼食後、居間でくつろいでいたエルザは、侍女に耳打ちされて夫の部屋に呼ばれた。そこで、離婚を切り出された。
「いきなりじゃない。君とは政略結婚でいやいやながら結婚したんだ。一年経ってもう我慢できない。離婚して本当に好きな人と暮らしたいんだ」
「誰? 好きな人って」
エルザの顔が引きつった。
「私よ、お姉さん」
エルザの背後に妹のセレーネが立った。
「セレーネ、あなたまさか……」
「ごめんなさい。私、バジーリオお兄様のことが、以前から好きだったの。まさかお姉さんと結婚するなんて……運命を呪ったわ。でも毎日お兄様と会ってるうちにお互いの気持ちがわかったの。私たちは運命で結ばれているって」
「なんなのそれ、いい加減にしてよ! 冗談じゃすまさないわよ」
エルザの剣幕は凄かった。まさか妹が泥棒猫のような真似をするとは思わなかったのだ。
「冗談なんかじゃない。僕らは愛し合ってるんだ」
「よくも私の前でぬけぬけと言えるわね。妹に裏切られるなんてこんな屈辱はないわ」
エルザは奥歯を食いしばった。
──夫の浮気相手が妹。そのことだけでも発狂しそうになったのに、離婚まで宣言されてしまった。こんなのってあまりにもひどいじゃない。
「ごめんなさい。お姉さん」
半泣きのセレーネの肩にバジーリオが手を回して、抱きしめた。
「エルザ、これからどうする。実家に戻るか?」
まるで離婚が確定したような夫の言葉に、エルザは自分の立場がわかった。どんなに反発しても離婚から逃れられない。夫のバジーリオは、エルザではなく妹のセレーネを愛してる。エルザは棄てられたのだ。
エルザの心はあっという間に冷めてしまった。
身体の筋肉が硬くなったのがわかった。
早くこの場から立ち去りたかった。
一刻も早く湯あみをして冷えきった身体と心を回復したいと思った。
後日、離婚が成立した。
バジーリオ・シモネッティ伯爵とセレーネの結婚は日を置かずに行われた。エルザのとき以上の招待客を呼んだ盛大な披露宴も執り行われた。
ただし、エルザと父のメンディーニ男爵は出席しなかった。
◇
メンディーニ男爵邸の庭裏の東屋に男爵と娘のエルザがいた。侍女が紅茶を置くと、男爵が人払いをした。
「王都で商売をやるわ」
紅茶で喉を湿らせたエルザが言った。
「商売? まさに私の娘だな。男爵の肩書きが付いたといっても、私は元平民の商売人だ。その血がそっくりエルザに流れているようだな」
「セレーネには流れてないのかしら」
メンディーニ男爵は肩をすくめた。
「……この前、金の無心をされた。盛大な結婚式をやりたいと。これが最後だと念書を書かせたよ。これで絶縁するつもりだ。私は商売で財産を作った。あとは名誉とばかりに男爵位を金で買った。エルザにシモネッティ伯爵家の長男との縁談が来たときは舞い上がった。名門の一族になれるチャンスだとな。しかも結婚後、伯爵位をバジーリオに譲る条件で融資をしたけど、それも無駄になったな。エルザがいなくて領地経営ができるとは思わない」
「お父様、自分を責めないでください。私もお父様の夢を実現しようと思いました」
「でもバジーリオのことは気に入ってたんだろ?」
「最初は優しい人だと思いました。バジーリオは最初から仮面を被っていい人ぶってました。私よりお父様の顔色を伺っていたのでしょう。でもそのうち私をぞんざいに扱うようになりました。結婚半年後には、白い結婚だと宣言されました。もう一緒のベッドで寝ることは金輪際ないとまで言われました」
メンディーニ男爵は悲しそうに目を細めた。
「辛かったな、エルザ」
「多分その頃、セレーネと深い仲になったのでしょ。私が邪魔で仕方なかったのね」
「もうそれ以上言わないほうが……」
「はい。これからは前を向くわ。悪いことばかりが人生じゃないもの」
エルザの言葉は力強かった。
「うん、その通りだ。エルザは私に似ている。これからが楽しみだよ」
王都の商業施設の通りをひとつ越えると文教地区だった。
貴族学校からほど近い場所にある、歴史を感じさせる建物。その玄関前に、エルザと貴族学校時代の同級生オネストが立っていた。
オネストは重厚なドアを開けて中に入った。一階は七部屋あった。中央のメインフロアから左右に三部屋ずつ分かれていた。大きすぎず小さすぎず、ちょうどいいあんばいだった。二階は居住部屋だ。
「いい物件だよなー。うん、気に入ったよ。懐かしの貴族学校は通りを挟んだ向こう側か……これは意図的に?」
「貴族学校の子女たちの口コミも利用したいと思いました。あそこのメンバーになるのがステータスになるようにしたいと思っています」
エルザが言った。
「ステータスか。サロンはいくつかあるけど、男の貴族の社交の場という感じだな。ここの売りは?」
「男女混合、素敵な殿方と淑女の社交の場です。堅苦しい社交パーティーではなくて、もっと気楽にリラックスできる空間を作りたいと思いました」
「うむ、面白い。これからも協力は惜しまないよ」
オネストはエルザの手を両手で握った。そしてエルザの目をじっと見つめた。貴族学校時代から彼はエルザ一筋だったのだ。
王都郊外。
貴族地区のジェラルディ子爵邸の応接間で、エルザとジェラルディ子爵の長女シルヴィアがテーブルを挟んで話をしていた。
シルヴィアは全身から漂うような色気があった。地味なエルザとは真逆だけど、そのおかげでウマが合った。
「なるほど、新しいサロンを経営するから私を共同経営者として誘うってわけね。何故かしら?」
シルヴィアが言った。
「貴族学校時代、あなたほど男子生徒にモテた女生徒はいなかったからよ。蜂が花に群がってるように見えたわ」
「いい思い出でもあるけど、実はうんざりだったの」
「わかるわ。シルヴィーは度が過ぎるほどモテたものね。あなたを取り合って“決闘事件”もあったわね」
「それも私の知らないところで、最悪だったわ」
シルヴィアは過去の思い出に苦味を感じて顔をしかめた。
「いいも悪いもあの貴族学校と似た雰囲気のサロンを作りたいのよ。パーティーの花からサロンの花はどうかしら?」
「いいわね。普通のパーティーには飽き飽きしてたから……そのサロンの名前は考えているの?」
シルヴィアは食いついた。
すかさずエルザは言った。
「シルヴィアサロン」
シルヴィアは一瞬口角が上がった。が、すぐに真顔に戻った。
「駄目よ。創立オーナーの名前がない。でもあなたの誠意はわかったわ」
「シルヴィア&エルザサロン」
エルザが言い直した。
「気に入ったわ。それに決定ね!」
一ヶ月後、《シルヴィア&エルザサロン》の内装工事が終わって、調度品がサロンに運ばれた。スタッフはオネストが用意してくれた。若い女の子たちだが、侯爵家の侍女だけあって、礼儀作法は完璧だった。コックは王都の一流レストランのオーナーシェフの跡継ぎの息子を、修行だと言って送り出してもらった。
《シルヴィア&エルザサロン》は、プレオープンの日が近づいていた。
シルヴィアがパーティーで殿方に声を掛けると、面白いように参加者が集まった。貴族学校を卒業して彼女は社交界の花として注目されていた。その彼女が共同経営するサロンは、誰もが興味津々だった。
「煉瓦の発注を考えている。どこか引き受けてくれる工房はあるか」
メインフロアのテーブルで話し合っている殿方の声がエルザに届いた。
甲高い声はボッケリーニ伯爵だ。大きなお腹を揺らしながら、向かいのテーブルの男と顔を合わせていた。
──煉瓦の発注? もしかして国土大臣案件の街道整備プロジェクトのGOサインが出たのかしら。
「一度試供品を見たけど低クオリティで駄目だった。家の煉瓦と街道では求められる強度が違う。輸入するしかないか」
するとエルザがやって来た。
箱を持って来て、テーブルの上で蓋を開けた。
中身は煉瓦だった。
煉瓦のクオリティのことをボヤいていたボッケリーニ伯爵が、ハッとした顔をして煉瓦を凝視した。
「この煉瓦はいかがですか?」
エルザが言った。
ボッケリーニ伯爵が煉瓦を手にした。
「この重さ厚み密度。おおー、クオリティが段違いだ!」
「焼きは高温、吸水性は1%。もちろん高耐久性は保証します。不純化粘土を使用していますのでご満足いただけると思います」
「これはどこで手に入れました?」
「私の経営する煉瓦工房で製造しています。父の煉瓦工房を引き継ぎました」
「なるほど、エルザさんのお父上はメンディーニ男爵であられましたね。噂ではかなりやり手だと聞きました。その血がエルザさんに脈々と流れているようですね」
「私は煉瓦工房を産業として発展させようと思っています。そのための協力者を探しています」
「協力者?」
ボッケリーニ伯爵の目が鋭くなった。
ここぞとばかりにエルザは、声を潜めて耳元でささやいた。
「代理人になりませんか? 大型案件ごとに手数料30%を支払います」
「それは……おいしいですね」
ボッケリーニ伯爵は満足気な表情でカイゼル髭の端を指で整えた。
「あら何のお話かしら? 外食でいいお店があるのなら、私も連れて行って欲しいわ」
シャンパングラスを持ったシルヴィアが二人に近づいた。
「シルヴィアさん、よろしければお供をします!」
ボッケリーニ伯爵の声が上ずった。
ある日の午後、王都商業地域にて。
御者に買い物の袋を持たせた夫人が、ふと足を止めた。
「ちょっと疲れたわね。どこかで休んでいきましょ」
「はい奥様。向こうの通りに新たな店ができたと聞きました」
「パンタレオーネ公爵夫人、お久しぶりです」
文教地区の集合住宅の玄関にエルザがいた。
「あら、久しぶりね。エルザじゃない。確かシモネッティ伯爵の長男と離婚したと聞いたけど」
「結婚生活は一年しか持ちませんでした。いろいろありまして」
「それは興味深いわね。あら嫌だ。人の不幸は蜜の味と言うけど、この歳になっても噂話に興奮するのよ」
「良かったらシルヴィア&エルザサロンにお寄りになりませんか? ゲストとして歓迎致しますわ」
パンタレオーネ公爵夫人は、玄関上の看板の金色に縁どられた文字を見上げた。
《シルヴィア&エルザサロン》
「このところよく耳にするわ。興味あったけど、ここだったのね」
後ほどエルザは馬車留まりの待機所に使いを出して、パンタレオーネ公爵夫人の御者に成功報酬の銀貨を手渡した。
サロンの居心地の良さにパンタレオーネ公爵夫人は感激した。エルザとシルヴィアは特別会員としてサロンのメンバーになってもらった。
パンタレオーネ公爵夫人の威光のおかげで、シルヴィア&エルザサロンは“格”が上がって、新会員の枠はすべて埋まってしまった。
エルザの事業は成功した。
シルヴィア&エルザサロンは、あっという間に社交界の話題になって殿方や淑女の交流の場となった。
サロンで飛び交う情報からシルヴィアは事業を拡大していった。
煉瓦工房は国の公共事業の大半を引き受けた。
煉瓦の品質が評判を呼んで他国からバイヤーがやって来るほどだ。
もちろんボッケリーニ伯爵の手が回ったからだ。
父メンディーニ男爵の商売の遺伝子を、エルザは確実に引き継いでいたのだ。
シモネッティ伯爵邸。
執務室でバジーリオが書類に目を通して、目が点になった。
「な、何だと肥料の値段が倍になっただと?」
書類をバジーリオに手渡したセレーネが首を振った。
「業者がいうには、『これまではエルザ様の付き合いで割引をしていましたが、これからは正規の値段に戻します』だって」
「あいつは外部の人間には愛想がいいからな。まんまと騙された口か」
「帳簿を見たけど、ちんぷんかんぷんよ。何やら難しい文字で書いてあって」
「速記だ。貴族学校で貴族院の書記を目指して速記を習ったって言ってたぞ。聞いてないのか?」
「姉のことよく知らない。いつも勉強ばっかりしていたし、あまり構ってくれなかったわ」
「自分のことにかまけて姉のことには興味なかったんだろ?」
「何よそれ、あなただって領地経営はエルザ姉さんに丸投げしたんでしょ。姉がいつも領地回ってたとき、何してたのよ」
セレーネの追求にバジーリオは怯んだ。
「エルザに全部まかせて、遊んでた……」
思わずほんとのことを言ってしまった。
「セレーネだって、あのメンディーニ男爵の娘だろ? 領地経営の手腕があると思っていたのに」
「エルザ姉さんはお父様似、私はお母さん似よ」
「頭の中身が母親似か。君の母親は子爵家の令嬢だったよね」
何やら険悪な雰囲気になった。
「喧嘩売ってるの? 私はエルザ姉さんみたいに頭は良くないわ。でも容姿はお母さんに似て最高レベルじゃない」
バジーリオはじっとセレーネの顔を見つめた。
「確かにそうだ。綺麗だし、色っぽい。鶏ガラみたいなエルザとえらい違いだ」
「やだ、お姉さんと比べて、やな人ね」
「ハハハハ」
「フフフフ」
二人の機嫌が直った。
しかし、領地経営の窮状は待ってはくれなかった。
「駄目だ、破綻してしまった。催促状が山ほど来ている」
バジーリオは頭を抱えた。
「あなたの放漫経営のせいよ」
「セレーネ、それはないぞ。借金まみれだと言ったのに、家具を新調したり、屋敷の改築工事をはじめたのは君じゃないか」
「だって名門の伯爵家にふさわしい家具や威風堂々とした屋敷のほうがいいじゃない」
「そのために新たな借金をしたのか……」
「忘れたの? あなたもOKしたのよ」
その言葉にぐうの音も出ない。
「こうなったら君の父上に助けてもらうしかないな」
「エルザ姉さんからあなたを奪ったから絶縁されたわ。最後の借金で念書も書かされた。父の怒りは半端なかった。娘じゃなかったら刺客で命を奪われたと思う」
「君の父上は怖い人か……」
「平民から男爵になるには、綺麗事だけでは済まされないのよ」
「だったら、どうしたらいいんだ」
「こうなったらエルザ姉さんに頼るしかないわね」
セレーネはきっぱりと言った。
「無理だ。あんな目に合わせたのに助けてくれるわけがない」
「エルザ姉さんは、昔から私には甘いのよ。お菓子とかおもちゃだって私がグズると譲ってくれたわ。ついには夫まで譲ってくれたじゃない」
「……セレーネ」
「心配しないで、大丈夫よ。何とかなるわよ」
シルヴィア&エルザサロンのドアを開けたエルザを見て、セレーネは安心した。
にこやかに迎えてくれて、絶縁する前の姉となんら変わらなかった。
ただセレーネの後ろのバジーリオはバツが悪そうな顔をしていた。
サロンの二階がエルザの部屋だった。
そこにのこのこやって来たバジーリオ・シモネッティ伯爵とセレーネ。
二人は応接間でかしこまっていた。
「いいわよ。借金を立て替えましょう」
「エルザ姉さん、ありがとう」
バジーリオとセレーネは破顔した。
「ただし条件があります」
「何だ、条件って」
バジーリオが訝しそうな目をした。
「伯爵の称号を譲渡することです。その条件ならば私が借金を引き受けます」
「何だって!」
バジーリオが叫んだ。
「エルザ姉さん、いくらなんでもそれは……」
「これは譲りません。それ以外に借金を返せるあてがあるのならどうぞそちらに行ってください」
「うぐぐー」
バジーリオの顔が真っ赤になった。怒りでこぶしを握りしめた。ブルブル震えた。
「伯爵の称号を譲ったら、私たちどうなるの?」
セレーネがバジーリオに聞いた。
「平民になる……」
(いや、爵位には屋敷も領地も付属する。そんなことセレーネには言えない……)
「えっ、嫌よ嫌、貴族から平民なんて死んでも嫌」
「お父様は元平民よ。人足問屋から街道の乗合馬車の運営で財を成して男爵位を手に入れたの。努力しだいで平民から貴族に戻ることも可能だわ」
エルザが諭すようにセレーネに言った。
「そんなの私たちにできるわけないじゃない! 薄情者。ハハーン。お姉さんは、寝盗られて私たちを恨んでいるのね」
「何を思うかは自由よ。一週間の猶予を与えるからよくよく考えなさい」
「フン。帰りましょ、あなた」
セレーネは席を蹴って立ち上がった。
シルヴィア&エルザサロンにパンタレオーネ公爵夫人がやって来た。
挨拶したエルザが席を離れようとしたら、その手首を夫人が掴んだ。
「聞いたわよ。あなた前夫から爵位を奪おうとしてるって。それって本当なの?」
「本当です。あの夫婦は借金で領地経営がままならないので助けてあげようと思いました」
「優しいね。私なら地獄に堕ちるところまで見届けるけど」
パンタレオーネ公爵夫人はいたずらっぽい目をエルザに向けた。
「まさか、私はあの二人には立ち直ってまっとうに生きて欲しいと思っています」
一週間後、妹夫婦は再びエルザの元にやって来た。
今度は大人しく爵位の権利書を持って来た。
エルザは裁判所の判事の立ち会いで譲渡の書類にサインをした。
その後すぐに貴族院の会議で爵位譲渡の承認を受けた。
貴族院の建物を出ると、バジーリオがエルザに質問した。
「ちょっと聞きたいけどいいか?」
バジーリオが言った。
「はい?」
「僕たちはあの屋敷にこれからも住めるのか?」
「そうよ。住めるわね? エルザ姉さん」
「伯爵の身分を剥奪されてもまだ貴族気分ですか? お二人は平民になったのです。爵位と領地、屋敷はすべて私の所有物になりました」
「そんなの嘘よ! 爵位だけだと……」
「平民に領地経営する権利はないのです。どうしても屋敷に居座るというのなら、刑法に基づき刑罰を受けますが、それでもよろしいかしら? その場合は受け取ったお金も没収されるのですよ」
「……何も文句はありません」
「バジーリオ!」
セレーネが声を荒らげた。
「いいから、この大金で人生を一からやり直したらいい。遊んで暮らせる大金だぞ」
遊んで暮らせる大金。
その言葉がセレーネの怒りを鎮めた。
「今日のところは帰ってあげるわ」
セレーネはバジーリオの手を引っ張った。
その後ろ姿をエルザは黙って見つめていた。
貴族地区の高級ホテルの三階。そこは、バジーリオ夫婦のためにフロアすべてが用意された部屋だった。その居間で二人は向かい合った。
「お金がない? どういうことよ」
「君がこんな庶民の住む小さなアパートは嫌だって、コンシェルジュのいる高級ホテルのワンフロアを丸ごと買ったからだよ。それで財産はほとんどなくなった」
「嘘よ、あなたがポーカーに嵌って大金を巻き上げられたからだわ。知ってるのよ、貴族の友達に無心したことも。借金あるんでしょ?」
「そうなんだ。悪い筋の金貸から借金した。返さないと殺される」
バジーリオは服を脱いで上半身裸になった。
背中には生々しいミミズ腫れの傷があった。
「何よそれ、酷い傷じゃない……」
「返済が一ヶ月遅れたら、痛めつけられた。殺されると思った」
「大変な目にあったわね」
「それで借金返済のため、このホテルの部屋を売ろうと思う。もっとこじんまりとした部屋に住もうよ」
「嫌よ、いやいや! 何で借金ごときで。惨めな暮らしをしないといけないの」
「僕らはもう貴族じゃないんだ。平民らしく庶民の町に住んで慎ましく生きるしかないんだ」
「でも、いつか貴族に戻れるわよね?」
「そうありたいと思う」
「何よ、人ごとみたいに言って、こうなったのはみんなあなたのせいよ!」
「セレーネ、僕が悪かった。甲斐性なしでごめん」
バジーリオはセレーネの視線に耐えられなくて目を逸らした。
「……ごめんなさい。バジーリオ、ちょっと言い過ぎたわ。私も浅はかだった」
「もう一度やり直そう。いずれ小さな店でも出して、食えるようになればいいさ」
「そうよね、何とかなるわ。神様は絶対私たちを見捨てたりしないわよ」
その後、バジーリオは共同事業に出資したが、その金を持ち逃げされて一文無しになってしまった。
◇
二人は王都の貧民街で暮らすことになった。服装もよれよれのその日暮らしの生活だった。
セレーネは売春婦。
バジーリオはそのヒモ男になっていた。
娼館への送り迎えが日課だった。
日が暮れて貧民街を出た二人は、娼館への通り道にあるシルヴィア&エルザサロンの前に来ていた。
ドアが開いて、エルザとパンタレオーネ公爵夫人が出てきた。
顔を伏せてコソコソ逃げるように行ってしまった二人の背中をパンタレオーネ公爵夫人が一瞥した。
「あら、今の人たち、どこかで見たことあるような気がしたけど……誰か分からなかった?」
「私の知り合いにあのようなみすぼらしい人はいないです」
エルザは迎えに来た馬車に乗ったパンタレオーネ公爵夫人に笑顔で手を振った。
馬車が通りを曲がるまで、エルザは見送った。
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