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アルビレオ  作者: 阿波野治


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2/2

後編

 夕食の時間になり、階段を上る足音が聞こえてきた。父親が、夕食の準備ができたと映美に伝えるために、彼女の自室に向かってきているのだ。母親がテーブルに料理を並べているあいだに、父親が映美に伝えに行けば、手間がはぶける。電話やメッセージアプリでも代用できるが、「人間味がない」という理由から、呼ばれる側が外出中などの事情があるとき以外は禁止。映美の家ではそのようなルールになっていた。

 足音は映美の自室の扉の前で止まる。ノックが二回され、扉の向こうから声が送られてくる。

「映美、夕食ができたよ。今日は映美の大好きな卵豆腐もあるよ」

 食事に卵豆腐が出たとき、父親は決まってそう言う。

 映美は卵豆腐が好きでも嫌いでもない。それは父親も知っている。彼は冗談のつもりでそう言っているのだ。

 冗談だというのは映美も分かっている。だから、そう言われたときは決まって、笑いながらこう言い返す。

『わたし、卵豆腐は嫌いじゃないけど、好きでもないよ。お父さんってば、いつになったら覚えてくれるの?』

 けれども今日は、冗談につき合う心のゆとりはない。頭の中でずっと、源頼朝のことを考えているから。

 映美は「はーい」と返事し、電気を消して部屋を出た。


『エイミー、ふと気になったんだけど、エミネムって今なにしてるのかな? 最近ぜんぜん名前聞かないよね』

 夜の八時半過ぎ、映美のスマホにメッセージが届いた。送り主は美雪だ。

 美雪は映美のことを「エイミー」と外国人風に呼ぶ。

『今も音楽をやってるのかな? 死んではいないと思うけど』

 映美はエミネムが誰なのかを知らない。少なくとも過去に音楽をやっていたらしいが、仕事としてやっていたのか、趣味としてやっていたのか、それもはっきりしない。源頼朝は映美のことを友だちだと思っているのか、思っていないのか、それが分からないのと同じで。

 今さら「エミネムって誰?」と訊くのは、恥ずかしい。グーグルで検索したり、ウィキペディアで調べたり、ジェミニに質問したりするのは、面倒くさい。

『音楽をやってるかは分からないけど、生きてはいるんじゃない』

 そんな短い文章を美雪に返信した。


 休日の朝、映美は父親といっしょに、リビングのテレビでメジャーリーグの中継を見る。それが習慣になったのは、つい最近になってからの話だ。映美はこれまで、野球については、ボールを打ったバッターは一塁ベースに向かって走る決まりになっていて、ホームランを打ったら点が入る、くらいのことしか知らなかった。しかし今では、リリーフピッチャーの重要性や、ボール球を振ってしまうバッターの心理なども、おぼろげながらも理解している。

 左のバッターボックスで、日本人メジャーリーガーのハタノがバットを構えている。ピッチャーがボールを投げた。ストレート。ハタノはバットを振らない。判定はストライク。

「速いねぇ、アメリカのピッチャーの球は」

 ソファに寝そべった映美の父親が言う。

「日本人でもキジマとかワキモトとか、球が速い選手はいるけど、大リーグは出てくる投手、みんな速球派だからなぁ」

 映美の父親はメジャーリーグのことを「大リーグ」と言う。

 二球目もストレートが投じられた。ハタノはそれを打ち返す。打球は大きくバウンドしながらサードとショートのあいだを抜けた。レフトがボールを捕ったときには、ハタノは一塁ベースを駆け抜けている。

「うまい! さすがはハタノだ」

 父親の声はうれしそうだ。メジャーリーグでプレーしている日本人選手はあまりいないので、父親は日本人メジャーリーガー全員を応援している。

「今の打席、打ちそこないの打球がたまたま野手のあいだを抜けただけ、なんて素人は考えるかもしれないが、そうじゃない。ハタノは、あの方向に打球を弾き返せばヒットになると分かっていて、わざとああいう打ちかたをしたんだ。そういうテクニカルなことができる男なんだ、ハタノは。だからこそ、レベルの高い大リーグでもレギュラーでいられる」

『よく知ってるね、お父さん』

 父親はそう言ってほしそうな顔をしていたが、映美は黙ってテレビ画面を見つづけた。目では試合を観戦していても、頭では源頼朝のことを考えている。

 メジャーリーグでレギュラーとして活躍しているハタノは、すごい選手だ。すごいから、きっと友だちもたくさんいるだろう。野球選手と武士という違いはあるが、征夷大将軍になって鎌倉幕府を開いた源頼朝も、ハタノに負けないくらいすごい。だから源頼朝も、ハタノに負けないくらいたくさんの友だちがいるはずだ。

 その「たくさんの友だち」の中に、映美の名前は入っているだろうか。

 入っていてほしい、と彼女は思う。強く、強く、そう思う。

「……かっとばせ、は・た・の」

 ハタノの打席はもう終わったのに、映美はそんなことを言った。小声だったので、父親には聞こえなかったらしく、ハタノの次の打順のバッターに声援を送っている。


 映美は、アルビレオという名前の星があることを知っている。

 でも、アルビレオの形も、色も、大きさも、知らない。

 アルビレオについて知っていることよりも、知らないことのほうが、ずっと、ずうっと多い。

 映美は、源頼朝と会ったことがある。話をしたこともある。

 でも、源頼朝の趣味も、特技も、好きな食べ物も、知らない。

 源頼朝について知っていることよりも、知らないことのほうが、ずっと、ずうっと多い。


「おめでとうメッセージ」を送る決心がつかないまま、一週間が過ぎた。

 一週間遅れで「おめでとうメッセージ」を送るのは、いくらなんでも遅すぎる。送り主が友だちだったとしても、もらった人はうれしいとは思わないだろう。

 映美は、メッセージは送らないことにした。

 そう決めたことで、源頼朝とは友だちではなくなってしまった気がした。映美はさびしかった。あれこれ考えたりしないで、ニュースを見た直後に「おめでとうメッセージ」を送っておけばよかった、と後悔した。

 わたしと頼朝さんは、もう友だちではない。

 でも、絶交したわけではない。知り合いであることに変わりはない。

 そう前向きに考えると、さびしい気持ちはいくらかましになった。

 もう少し時間が経って、頼朝さんの仕事が一段落したころにメッセージを送ろう。

『遅くなってしまったけど、征夷大将軍就任、おめでとうございます』

 そんな内容のメッセージを。それがきっかけで、また友だちに戻れるかもしれない。

 そのときが一日も早く来てほしい、と映美は思う。


 それから三日後、「そのとき」が訪れることは永遠になくなってしまったことを、映美は午後七時のNHKニュースで知った。

 源頼朝が訓練の最中に落馬し、帰らぬ人となった、という速報が流れたのだ。

 映美はそのとき、自宅のダイニングで家族と夕食を食べていた。ショックのあまり、手に持っていた箸を床に落としてしまった。

 けれども、悲しみは湧かなかった。涙も出なかった。

 その代わり、後悔した。深く、深く後悔した。あれこれ考えたりしないで、ニュースを見た直後に「おめでとうメッセージ」を送っておけばよかった、と。

 源頼朝は武士だ。命がけで敵と戦わなければいけないし、強くなるための練習だって命がけ。いつ、どこで、死んでしまうか分からない。

 それなのに映美は、「おめでとうメッセージ」をすぐには送らなかった。

 源頼朝は死んでしまった。源頼朝に思いを伝えることは、永遠にできなくなってしまった。


 それから一か月が過ぎた。

 カレンダーは七月に変わり、もうすぐ夏休みだ。

 夏休みになったら、頼朝さんがアンパンとオレンジジュースをおごってくれたあの駅まで、また一人で行ってみよう、と思う。

 映美は来年、中学生になる。

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