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その執着は、劇薬につき

作者: 水縒あわし
掲載日:2026/02/02



 病院特有の、あの冷たく乾いた空気を吸い込むと、僕はいつも子供の頃の夕暮れを思い出す。




 僕の世界は狭かった。




 みんなが校庭で走り回っている時間、僕はベッドの上で天井のシミを数えていた。



難病というわけではなかったけれど、子供の身体には少し荷が重い病気だった。




 そんなモノクロの日常に、色を持ち込んでくれたのが彼だ。




 近所に住んでいた二つ年上の幼なじみ、湊。




 彼は放課後になると、わざわざバスに乗って病室まで来てくれた。

 



「ほら、これ。読みたがってた漫画の続き」



「今日の給食、カレーだったぞ。お前はまた流動食か?」



 ぶっきらぼうだけど、そのカバンにはいつも僕が喜びそうなカードゲームや本が入っていた。




 茜色の西日が差し込む窓際で、二人でオセロを並べた時間だけが、僕にとっての「日常」だった。



彼が帰る時の背中が寂しくて、僕はいつも「またね」と強がって手を振った。




 けれど、その「またね」はある夜、突然断ち切られた。




 容態が急変し、県外の大学病院へ緊急搬送されることになったのだ。




 慌ただしい大人たちの声、サイレンの音。



引越しの準備どころか、湊に一言挨拶することも許されなかった。




 担架で運ばれながら、遠ざかる街の灯りを見て、僕は熱に浮かされた頭で彼の名前を呼んだ気がする。





 それから、十年以上の月日が流れた。




 転院先での大手術は成功し、長い時間をかけた治療の末、僕は奇跡的に完治した。




 今は都内の企業で働き、人並みに忙しい日々を送っている。




 ただ一つ、病気の影響で二ヶ月に一回、大学病院での定期検診が必要なことだけが、かつての自分との繋がりだった。




「――次の予約から、担当医が変わります」



 ある日の通院時、長年診てくれていた老医師の引退に伴い、新しい医師を紹介された。




「久我先生と言って、若手ですが優秀な方ですよ。少しクールな印象かもしれませんけど」



 診察室の扉を開けた時、最初に目に入ったのは、モニターの光に照らされた横顔だった。




 通った鼻筋、知性を感じさせる銀縁の眼鏡。



白衣を隙なく着こなし、キーボードを叩く指先は冷たいほど整っていた。




 久我先生。




 院内でも噂になるほどの美貌の持ち主だが、確かに人を寄せ付けない鋭いオーラを放っている。




「……体調に変化は?」



「いえ、特にありません」



「数値も安定している。薬は継続で。次は二ヶ月後」



 診察は事務的で、僕の顔すらまともに見ようとしない。




 冷たい人だ。僕はそう思った。




 それから数回、二ヶ月おきに彼の元へ通った。



聴診器を当てる時も、カルテを見る時も、彼は僕という人間ではなく「症例データ」を見ているようだった。




 空気が変わったのは、担当が変わってから三度目の検診の日だった。




 珍しく外来が空いていて、診察室には重い静寂が落ちていた。




 いつものように聴診を終え、シャツのボタンを留めていると、背後で深く息を吐く音が聞こえた。




「……いつまで、他人行儀な顔をしているつもりだ?」



 え、と振り返ると、久我先生が眼鏡を外し、デスクに置いたところだった。




 モニターから視線を外し、初めて真正面から僕を見据える。



その強い瞳に、強烈な既視感が走った。




「昔から鈍いとは思ってたけど。ここまでとはな」



「え……?」



「カルテの名前を見た時から、俺はずっと気づいてたぞ。……久しぶりだな、弱虫」



 その呼び名。



そして、呆れたように片方の口角を上げる、少し意地悪な笑い方。




 記憶の蓋が弾け飛び、目の前の冷徹な医師と、あの頃の少年の顔が完全に重なった。




 湊……? まさか。

 



「うそ……湊、くん?」



「やっとかよ。遅すぎ」



 彼は白衣のポケットからスマートフォンを取り出すと、呆然とする僕に突きつけた。




「連絡先。……あの時、何も言わずにいなくなった罰として、飯くらい奢れよ」



 新進気鋭の医師、久我先生の仮面が剥がれ落ち、そこには昔と変わらない、僕の幼なじみがいた。




 その夜から、僕のスマホは頻繁に震えるようになった。




 病院での彼は相変わらず「久我先生」として振る舞っていたが、画面の中の彼は完全に「湊」だった。




『今日の食堂の定食、味が薄すぎた』


『当直明け。眠い』


『お前、今の仕事楽しいか?』




 他愛のないやり取り。



空白だった十数年を埋めるように、僕たちは言葉を交わした。




 そして自然な流れで、プライベートで食事に行くようになった。




 最初は個室のある居酒屋で、次は隠れ家のようなバーで。




 昔の話、転院してからの孤独、彼が医学部でどれだけ苦労したか。




 話は尽きなかった。




 大人になった彼は、眩しかった。




 命を救う最前線に立ち、揺るぎない自信を持っている。




 一方の僕は、彼に生かされている側の人間で、再発の不安を抱えながら生きている。




 再会を喜ぶ一方で、心のどこかで引け目を感じ始めていた。僕たちはもう、対等な子供同士じゃない。




 数回目の食事は、少し背伸びをしたレストランの奥まった席だった。




 テーブルの上のキャンドルが、グラスのワインを揺らしている。




 酔いが回ってきた頃、僕はふと気になっていたことを口にした。




「ねえ、湊はどうして医者になったの? 昔はプロのサッカー選手になるって言ってたのに」



 彼はナイフを動かしていた手を止め、しばらく沈黙した。




 そして、ワインを一気に煽ると、静かに口を開いた。




「……お前がいなくなったからだ」



「え?」



「お前が急に転院して、俺は何もできなかった。悔しかったんだよ。ただ祈ることしかできない無力なガキだった自分が」



 彼は視線を僕の目に突き刺した。



その瞳は、診察室で見せる冷徹なものでも、幼なじみの懐かしいものでもなく、見たことのない熱を孕んでいた。




「俺は、お前を治したかった。……まあ、結局間に合わなくて、他の医者が治しちまったけどな」



 自嘲気味に笑う彼の言葉に、心臓が早鐘を打つ。




 僕のため? そんな、まさか。




 それは幼い頃の同情か、それとも責任感か。




 どちらにせよ、あまりに重すぎるその感情を受け止めるのが怖くて、僕は慌てて道化を演じた。




「あはは、何それ。僕のおかげで立派な先生になれたなら、感謝してほしいくらいだよ。……それに、湊ならもっといい人がいるでしょ。院内に素敵な人とか、釣り合う相手がいっぱいいるだろうし」



 自分を守るために、無意識に彼を突き放す。




 僕みたいな身体の弱い人間じゃなくて、もっと彼にふさわしい、健康で華やかな相手がいるはずだ。




 ガタッ。




 椅子が鳴る音がして、次の瞬間、僕の腕は強く引かれていた。




 目の前に、湊の顔がある。




「――っ!?」



 抵抗する間もなかった。




 唇に、熱くて強引なものが押し当てられる。




 触れるだけの挨拶のようなキスではない。



抑え込んでいた激情を叩きつけるような、深く、食らいつくような口付け。




 アルコールの香りと、彼の匂いが鼻腔を占拠する。




 数秒か、永遠かのような時間が過ぎ、彼が唇を離した。




 息を切らし、潤んだ瞳で僕を睨みつける彼は、泣き出しそうなほど切実な顔をしていた。




「お前は……ほんとに、何もわかってない」



「……みな、と……?」



「俺の気持ちも知らないで、勝手なこと言ってんじゃねえよ」



 低い声が、鼓膜を震わせる。




 その言葉の意味を、その行為の意味を、理解してはいけない気がした。




 だって、僕たちは――。



 

 僕は彼の手を振りほどき、上着を掴んで立ち上がった。




「ご、ごめん……僕、明日早いから! 今日は帰る!」



 逃げたのだ。




 彼の熱量から。



そして、自分の中で暴れ出しそうな、名付けようのない感情から。




 背後で彼が何かを叫ぼうとした気配がしたが、僕は振り返らずに店を飛び出した。




 それ以来、彼からの個人的な連絡は途絶えた。




 僕からも送れなかった。




 あれは何だったのか。



考えるだけで胸が張り裂けそうで、スマホの画面を見ることすら怖かった。




 しかし、時間は無慈悲に過ぎる。




 あのレストランでの夜から、二ヶ月が経った。




 僕は逃げ出したい衝動を必死に抑え、大学病院の待合室に座っていた。




 検診をサボる勇気すら、その時の僕にはなかったのだ。




「どうぞ」



 インターホン越しに聞こえた声は、硬質で感情が削ぎ落とされていた。




 重い扉を開ける。




 湊はパソコンに向かったまま、こちらを見ようともしなかった。




「……体調に変化は?」



「い、いえ。特にありません」



「数値は安定している。薬は継続で」



 会話はそれだけだった。




 聴診器が胸に当たる数秒間、僕の心臓は破裂しそうなほど脈打っていたけれど、彼は眉一つ動かさず、機械的に位置をずらしていくだけだ。




 視線が合わない。合わせようとしない。




 二人の間に横たわる空気は、まるで真空のように息苦しかった。

 



 あの熱いキスは何だったのか。今のこの冷徹な態度が彼の本心なのか。




 何も聞けないまま、「お大事に」という定型句に背中を押され、僕は逃げるように診察室を出た。




 閉ざされた扉の向こうに、彼がどんな表情で座っていたのかを知る由もなかった。




 あんな時間は、もう二度と耐えられない。




 次の予約日が近づくにつれ、僕の心は悲鳴を上げていた。




 だから僕は、自ら破滅への道を選んだ。




 予約キャンセルのボタンを押したその日から、僕は仕事という名の麻薬に溺れた。




 忘れよう。湊のことも、あの夜の熱も、自分の身体のことも。




 未処理の案件を片っ端から引き受け、休日もオフィスに籠もった。

 



 食事はデスクで流し込むゼリー飲料だけ。



睡眠はソファでの仮眠で済ませる。




 同僚が「顔色が悪いよ」と声をかけてきても、「大丈夫、今が山場だから」と笑顔で嘘を吐いた。




 ふと手を止めれば、湊の冷たい横顔や、悲しげな瞳が脳裏をよぎる。



それが怖くて、僕はさらに濃いコーヒーを煽り、キーボードを叩く指を加速させた。




 限界は、唐突に訪れた。




 深夜のオフィス。



誰もいないフロアで立ち上がろうとした瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。

 



(あ、これ……だめなやつだ)




 床に身体が打ち付けられる衝撃があったはずなのに、痛みは遠かった。




 遠のく意識の中で、誰かが叫ぶ声が聞こえた気がした。




 最後に思い浮かんだのは、やっぱりあの眼鏡の奥にある、心配そうな瞳だった。




 消毒液の匂いで目が覚めた。




 重い瞼を持ち上げると、見慣れた白い天井と、点滴の管が目に入った。




 数日ぶりの静寂。そして、ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に、その人は座っていた。




「……起きたか」



 低い、掠れた声。




 湊だった。




 白衣はシワだらけで、無精髭が少し伸びている。



目の下には濃いクマがあり、何日も寝ていないように見えた。




「みな、と……」



「過労による極度の脱水と衰弱だ。……あと少し発見が遅れてたら、心臓に負担がかかって危なかったんだぞ」



 彼は怒鳴らなかった。



ただ、押し殺したような静かな声が、逆に怖かった。




 彼は僕のカルテを握りしめたまま、俯いて震えていた。




「なんで……検診に来なかった」



「それは……気まずくて、合わせる顔がなくて」



「俺に会うのが嫌なら、担当を変えればよかっただろ! なんで……なんで命を削るような真似をするんだよ!」



 湊が顔を上げた。



その瞳から、大粒の涙が溢れ出していた。




 医者としての冷静さなど欠片もない。



ただの、大切な人を失いかけた一人の男の顔だった。




「ごめん……。ごめん、湊」



 僕も涙が溢れた。




 自分の弱さが、彼をここまで追い詰めていたのだ。




 湊は涙を拭おうともせず、僕の手を両手で包み込んだ。




 その手は冷たかったが、触れている部分から必死なほどの熱量が伝わってきた。




「お前は忘れてるかもしれないけど……。俺は、お前に救われたんだ」



 彼はポツリポツリと、過去を語り始めた。




「子供の頃、俺はひねくれてた。勉強はできたけど、口が悪くて、愛想もなくて……。周りの奴らはみんな『扱いにくいガキだ』って俺を避けてたんだ」



 記憶の中の湊を思い出す。




 確かに彼はいつも一人で本を読んでいて、近所の子供たちの輪には入ろうとしなかった。




「でも、お前だけは違った。病室で一人なのに、いつも笑ってて。『ねえ、オセロしようよ』って、俺の手を強引に引っ張った」



 湊が懐かしむように目を細める。




「俺がどんなにぶっきらぼうな口をきいても、お前は気にしなかった。『湊くんは頭がいいね』『また来てね』って。……俺の世界には、お前しかいなかったんだよ」



 知らなかった。




 僕にとって湊が退屈な日常を彩る光だったように、湊にとっても僕が光だったなんて。




「だから、お前がいなくなった時、俺の世界は真っ暗になった。……怖かったんだ。お前が死んでしまうのが。俺の知らない場所で、俺の唯一の理解者がいなくなってしまうのが」



 彼は僕の手を自分の額に押し当てた。




 震える声が、僕の心臓を揺さぶる。




「医者になったのも、この病院を選んだのも、全部お前のためだ。……ただの執着かもしれない。でも、お前が生きていてくれなきゃ、俺の人生には何の意味もないんだ」



 それは、十数年分の重たくて、純粋すぎる愛の告白だった。




 僕の胸が熱くなり、痛みさえ感じるほどに締め付けられる。




 逃げている場合じゃなかった。この手を、もう二度と離してはいけない。




「……ありがとう、湊。僕も、ずっと湊が好きだったよ。……もう、どこへも行かない」



 それから数日間の入院を経て、僕は順調に回復した。




 湊の献身的な治療のおかげだった。



彼は回診の時間以外にも顔を出し、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。




 そして退院の朝。




 手続きを終え、荷物をまとめた僕を、私服姿の湊が待っていた。




「送っていく」



「え、でも仕事は?」



「今日は休みを取った。……それに、まだ病み上がりだ。一人にはさせられない」



 有無を言わせない口調だったが、その目は優しかった。




 僕たちは並んで病院を出た。




 秋の風が心地よい。




 助手席に乗り込むと、湊がエンジンをかける前に、じっと僕を見つめた。




「……とりあえず、俺の家に来い。栄養のあるもん食わせてやる」



「ふふ、また管理されちゃうのかな」



「一生な」



 湊が小さく笑った。



その笑顔は、子供の頃に病室で見せてくれたものと同じ、あどけなさを残していた。




 車が動き出す。




 行き先は彼のマンション。




 二人の関係が、幼なじみから別のものへと変わる予感がしていた。




 けれど不思議と怖さはなかった。



僕の隣には、世界で一番の名医がいるのだから。




 湊のマンションでの生活は、驚くほど穏やかで、そして少しだけ強引だった。




 退院初日の夜、湊は一枚の書類を僕の前に突きつけた。




「診断書だ。『過労および心身の衰弱により、一ヶ月の自宅療養を要する』。明日、会社に出しておけ」



「えっ、い、一ヶ月!? そんなに休めないよ!」



「休むんだ。これは主治医としての命令だ。……それとも、また倒れて俺を狂わせたいのか?」



 真剣な眼差しでそう言われると、何も言い返せなかった。




 結局、僕は彼の「命令」に従い、しばらくの間、彼の部屋で静養することになった。




 湊は仕事へ行き、定時になると必ず帰ってくる。




 手料理を振る舞い、薬の管理をし、僕が少しでも顔色を悪くすると飛んできて脈を測る。




 その過保護すぎる献身が、僕にはたまらなく心地よかった。




 空白だった十数年を埋めるように、僕たちは同じソファで映画を見たり、昔の話をして笑い合ったりした。




 穏やかな日々は瞬く間に過ぎ、仕事復帰を翌日に控えた夜。




 僕たちは少し奮発したワインを開けた。




 間接照明だけの薄暗いリビング。グラスの中で揺れる深紅の液体が、二人の顔を赤く照らしている。




「……明日から、大丈夫か」



「うん。湊のおかげで、すっかり元気になったよ」



 僕が笑うと、湊はどこか寂しげに目を伏せた。




 そして、グラスをテーブルに置き、僕の手をそっと握りしめた。




「なあ……。ずっと、俺のそばにいてくれないか」



「え……?」



「もう、お前を一人で戦わせたくない。お前の食事も、睡眠も、身体の全部……俺に管理させてほしい。……恋人として」



 改めて紡がれる言葉。




 それは、病院のベッドで聞いた悲痛な叫びよりも、ずっと静かで、確かな温度を持ったプロポーズだった。




 僕は握り返された手の温もりに、胸がいっぱいになった。




「……僕で、いいの? 身体も弱いし、傷だってあるのに」



「お前がいい。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」



 迷いはなかった。




 僕は湊の目を見つめ返し、頷いた。




「うん……。僕も、湊と一緒にいたい。ずっと」



 言葉が終わるか終わらないかのうちに、湊の顔が近づき、唇が重なった。




 ワインの甘い香りと、湊の熱い吐息が混ざり合う。




 最初は優しく、次第に貪るように深くなる口づけに、理性が溶かされていく。




「……ベッド、行くぞ」



 囁かれた低音に頷くと、僕は軽々と抱き上げられ、寝室へと運ばれた。




 清潔なシーツの上に下ろされ、覆いかぶさる湊の影。




 彼の手がシャツのボタンを一つずつ外し、肌が露わになっていく。




 僕の腹部には、古い手術痕が残っている。




 かつては隠したかったそのケロイドを、湊は愛おしそうに指先でなぞった。




「綺麗だ……」



 彼はうっとりと呟き、傷痕に唇を落とした。




 ちゅ、と音を立てて吸い上げ、舌先でその凹凸を確かめるように舐める。




「んっ……あ……みな、と……」



「お前が生き抜いた証だ。この傷があったから、俺たちはまた会えた」



 傷痕への執拗な愛撫。



それはまるで、聖地への巡礼のようだった。




 コンプレックスだった傷が、彼にとっては僕をこの世に繋ぎ止めた勲章であり、最愛の一部なのだ。




 恥ずかしさは消え、代わりに彼にすべてを委ねたいという衝動が突き上げる。




 湊はサイドテーブルから未開封の医療用潤滑ゼリーを取り出した。




 手慣れた動作で封を切り、冷たいジェルを自身の長い指にたっぷりと絡ませる。




「……力、抜けよ」



 彼が僕の両膝を割り開き、その間に身体を割り込ませる。




 秘所に触れる指先。



ひやりとした感触と、その奥にある熱に、背中が跳ねた。




「っ! つめた……」


「大丈夫だ。痛いことはしない」



 耳元で囁かれる声は優しいが、その指使いは的確すぎた。




 内壁のひだを一つずつ確認するように、指がゆっくりと侵入してくる。




 医師としての人体構造の知識に裏打ちされた動きは、迷いなく僕の性感帯を探り当て、執拗に刺激した。




「あ、んっ……! そこ、だめぇ……!」



「ここか? ……ふうん、中は随分と熱いな。正直な身体だ」



 意地悪く内壁を擦られ、僕はシーツを握りしめて喘ぐことしかできない。




 指が二本、三本と増やされ、広げられていく。




 異物感よりも、与えられる快楽の方が勝り、頭の中が真っ白になっていく。




「湊っ、もう……っ! 欲しい、湊のが……!」


「……いい子だ」



 僕の懇願を聞き届けると、湊は自身の張り詰めた楔をあてがった。




 亀頭が入り口を割り、ゆっくりと、けれど不可避な圧力で侵入を開始した。




「はっ、ぐぅ……! おおき、い……ッ」


「……っ、きつい。締めすぎだ、馬鹿」



 ミシミシと身体が開かれる感覚。




 けれど、痛みよりも、空虚だった身体の芯が埋め尽くされていく圧倒的な充足感が勝る。




 根元まで飲み込むと、僕たちは一つに繋がったまま、荒い呼吸を重ねた。




「……動くぞ」



 湊が腰を引き、そして力強く打ち付ける。




 一度動き出せば、もう止まらなかった。




 禁欲的な診察室での顔はどこにもない。



そこには、獣のように激しく僕を求める、一人の男がいた。




 パン、パン、と肌と肌がぶつかる硬質な音が寝室に満ちる。




 的確に前立腺を抉る角度。



突き上げられるたびに、脳髄を痺れさせる快楽の電流が脊髄を駆け上がった。




「あッ、あっ、すごい、湊っ! んあぁッ!」


「名前……もっと呼べ。俺だけを見ろ」



 湊は僕の顔を両手で固定し、何度も深いキスを落としながら腰を振り続ける。




 汗が滴り落ち、僕の鎖骨のくぼみに溜まる。




 僕が背中に爪を立ててしがみつくと、湊の動きがさらに激しさを増した。




「もう逃がさない。二度とお前を一人にはしない」


「うん、逃げない……っ! 僕も、湊が……好きだぁッ!」



 お互いの理性が焼き切れる寸前。




 視線が絡み合い、火花が散る。




「っ、いく……! 湊っ!」


「……っ、一緒に、いくぞッ!」



 ドクン、と体内で彼が大きく脈打ち、熱い奔流が僕の最奥へと勢いよく放たれた。




 同時に僕も目の前が弾け、彼のお腹を白く汚して果てた。




 十数年の空白も、孤独も、不安も。



すべてが精液と共に溶けて混ざり合う、完全な融合だった。




 長い余韻が去った後も、僕たちは繋がったまま、泥のように重たい幸福感に浸っていた。




 窓の外は、すでに白み始めている。




 湊が僕の汗ばんだ髪を優しく撫で、額にキスをした。




「……気分は?」


「ん……最高」



 僕が力なく笑うと、湊も満足そうに目を細めた。




 そして、僕を抱きしめる腕に力を込め、耳元で囁いた。




「言っておくが、担当医は辞めないぞ」



「え……?」



「公私混同と言われようが知ったことか。お前の身体の隅々まで把握して管理するのは、一生俺の役目だ」



 それは、世界一厳しくて、とろけるほど甘いプロポーズだった。

 



「毎朝、顔色を見て、脈を測る。食事も管理するし、夜の運動も付き合う。……覚悟しろよ」



 この過保護な名医は、もう二度と僕を手放すつもりがないらしい。




 僕は呆れながらも、彼の胸板に顔を埋め、心臓の音を聞きながら答えた。




「……ふふ、お手柔らかに頼むよ、先生」



 もう、どこへも逃げない。




 僕の命も、身体も、心も。



すべてはこの幼なじみの主治医に預けたのだから。

 



 朝焼けに染まる部屋で、僕たちは二度寝の微睡みへと落ちていった。




 二人の心電図は今、ぴったりと同じ波形を描いて重なり合っていた。



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