羽根はなく、二本足の ~あるエルフ学者の人間観察~
人間の王が誰かなど、森に住む者にはどうでもいい。
冠も紋章も、年代記の欄外に小さく書き込まれる名前の違いでしかない。
エルフから見れば、人間とは、羽根はなく二本足で歩き回る、鳥ではない種族の総称にすぎない。
その群れの頂点が誰であれ、森の外側で群れ同士が争い、滅び、また名を変えて増え続ける――その繰り返しを、長命の民は飽きもせず眺めてきた。
ただ一人の子どもの生と死だけが、エルフにとっては、かろうじて興味の対象になりうる。
◇
エルフの学者の名は、リラといった。
花の名のような、軽く柔らかな音の名だが、森の図書塔をまるごと記憶していると言われる、少し変わり者の学者だった。
彼女は年代記を好んだが、そこに並ぶ「王」「将軍」「司教」といった肩書きには、ほとんど興味がなかった。
誰がどの椅子に座るかなど、大樹の枝に止まる鳥の群れが年ごとに入れ替わるのと同じことだ。
ただ、どの時代にどんな戦が起き、どのように森が削られ、どれだけ川が血で濁ったか――それだけは、書き留めておく価値があると考えていた。
弓に関しても、リラは「里の誰もが扱える道具」としての関心しかない。
エルフの里には、彼女より遠くを正確に射る狩人や兵がおびただしくいる。
自分はその中でせいぜい「的を外さず、近間ならばそこそこ当てられる」程度――そう冷静に見積もっているからこそ、弓は研究対象であって、自慢の技にはならなかった。
戦火がひとつの人間の王国を焼き払ったとき、エルフの里にも、いくつかの小さな影が流れ着いた。
失われた城下から逃げのびてきた、戦災孤児たちだ。
同胞たちは慎重だった。
「人間はすぐに城を築き、争いを始める」
「かつて彼らを助けた森は、薪にされて消えた」
そう言いながらも、目の前で震えている子どもから、冷えた手を引きはがすことは、誰にもできなかった。
リラは、そのうちのひとりを選んだ。
ぼろ布にくるまれた少年。
まだ言葉もろくに話せないが、握りしめた木の弓だけは、決して手放そうとしなかった。
「名は」
問いかけると、かすれた声が返ってくる。
「……レオン・グランヴェール」
それが、リラが預かった人間の名だった。
王家の姓がなんであれ、彼女にはどうでもよかった。「レオン」という音だけ覚えておけば、記録としては十分だ。
◇
エルフの里は、戦争の外側にある。
四季は巡り、森は変わらぬように見えるが、遠くの人間界は、ゆっくりと姿を変えていく。
焼け落ちた王都の代わりに丘の上に小さな砦が建ち、砦は村を抱え、村はやがて町になろうとしていた。
リラは書架の間で本を繰りながら、窓の外で木の的に向かって矢を放つ少年の背中を、ときおり眺めていた。
レオンの一族は、かつて『勇者』を名乗った家系だという。
失われた城の壁画には、彼らの祖が神話の獣を射抜いた姿が描かれていたらしい。
その話を聞いたときも、リラは肩をすくめただけだった。
「勇者の称号など、時の権力者が好きに貼る飾りにすぎない」
そう言って、壁画の写しに小さく注釈を入れる。
「おまえが何者であるかは、どんな名前を継いだかではなく、これからどこに矢を向けるかで決まる」
レオンは真剣にうなずき、小さな弓で、落ち葉を射抜こうと日が暮れるまで構え続けた。
◇
レオンが弓を握れるようになってからの数年は、年代記にすれば数行で終わる。
だがその一行の裏側には、毎日のように繰り返された、取るに足らない訓練の積み重ねがあった。
朝、森の霧がまだ地面にまとわりついているころ、レオンはひとりで射場に立つ。
射場と言っても、大樹の幹に古布を巻きつけた即席の的と、踏みならされた土があるだけだ。
最初のうち、彼の矢は、的のずっと手前で落ちた。
「腕だけで引くな。背中で引け」
気が向いたときだけ、リラが口を挟む。
弓術の師のように構えを直してやることはしない。
ただ、観察者として気になった癖を、記録にメモするついでに指摘するだけだ。
「足は、地面に根を張るように」
「目は的だけを見るな。矢が飛ぶ先の空気を、まとめて見ろ」
レオンはそのたび、こくこくとうなずき、言われたことを懸命に試行錯誤した。
腕が張り、指の皮が剥け、弦で頬を打って鼻血を出した日もあった。
それでも彼は、弓を手放さなかった。
的まで届くようになれば、今度は中心に当たらない。
当たるようになれば、今度は真ん中から外れる。
「昨日より指ひとつぶん、近づいた」
外した矢を回収しながら、レオンがぽつりとこぼす。
「どうやって測った」
リラが問うと、彼は少し考えてから、土の上に弓を寝かせた。
「弓一張りぶんを十段階に分けて、今はそのうちひとつぶん、真ん中に寄った気がするんです」
曖昧で、主観的な尺度だ。
だが、彼が自分なりの物差しを持ち始めたことだけは、リラにも分かった。
ある夕暮れ、風の強い日があった。
森の上を通り抜ける風が、的の布をばたばたと揺らす。
「今日はやめておけ」
リラがそう言うと、レオンは首を振った。
「こういう日に、どこまで届くかを知っておきたいんです」
彼は矢をつがえ、しばらく風の向きを見ていた。
髪とマントがはためき、頬が冷たくしびれる。
やがて風が一瞬だけ緩んだ瞬間を捉え、弦が鳴った。
矢は大きく流されながらも、布の端をかすめた。
当たったとは言えない。
だが、何も知らずに放った矢では届かなかった場所だ。
「……こういう日には、どこまでが『外れ』で、どこからが『届かなかった』のか、測っておきたいんです」
レオンは、的に刺さらなかった矢を拾いながらそう言った。
リラはその言葉を聞き、書架に戻ると、年代記の余白に小さな一文を付け足した。
「この年、人間の少年レオン、風の強い日にあえて弓を引く。外れをもって、限界を知ろうとする傾向あり」
学者としては、それで十分だった。
師として褒めるつもりはない。
しかし、観察対象としては、興味深い推移だった。
やがて、的の位置は少しずつ遠ざけられていった。
落ち葉を射抜いていた子どもの射程は、小川を越え、小さな丘の肩に立てた的まで届くようになる。
弓を引くたび、肩と背中の線が変わっていく。
少年の骨格が、矢を放つための形に固まりつつあるのを、リラは淡々と見ていた。
その過程に、特別な感傷はない。
羽根の抜けた雛が、やがて自分の重さを支えられる翼を得るまでの変化を記録するのと、同じ作業だ。
ただひとつだけ、彼女の胸の奥に引っかかるものがあるとすれば――
レオンが矢を放つたび、その視線の先には、いつも『まだ見ぬどこか』があった、という事実だけだった。
◇
年月は、人間には重く、エルフには軽い。
レオンは少年から青年へと成長し、森の外の話をよくするようになった。
焼け跡は畑になり、小さな砦は二つ三つと増え、北からは鉄の鎧をまとった軍勢が押し寄せつつある――。
「俺たちの土地が、どこまでなのか、誰も決められずにいる」
彼はそう言った。
「だから奪い合いになる。線が引けないから、いずれ戦になるかもしれない」
リラは地図を広げ、古い国境線に指を置く。
「昔は、ここに川があった。川は枯れ、森は焼かれ、境は曖昧になった」
どの代の王がその川を放置し、どの将軍がどの村を焼いたか――名前の列挙は年代記に任せればいい。
リラにとって重要なのは、物語がどこで裂け、どこで継ぎ直されてきたかという流れだけだった。
「なら、もう一度線を引けばいい」
レオンの声には、どこか決意が混じっていた。
「剣じゃなくて、矢で」
その目を見て、リラは悟る。
自分がいつかは目を背けねばならない日が来る、と。
成人した人間は、いつか里を出ていく。
犬が庭を飛び出して、人間の家族のもとへ帰っていくように。
「行くのだな」
「行きます。俺の一族が、もう一度『勇者』と呼ばれるなら、誰かの土地を奪うためじゃなく、もう誰も越えちゃいけない線を、はっきりさせるために」
『勇者』という言葉に、リラの心は動かなかった。
ただ、その目的だけは、年代記の一行として書き残す価値があると思った。
リラは黙って頷き、書架の奥から一本の弓を取り出す。
里でも滅多に使われない、エルフの弓。
木と角と歌で編んだしなやかな弓身は、人の目にはただの工芸品に見えるだろう。
リラ自身、その弓を手に取るときは、たいてい資料を確かめるためか、実験のためだけだった。
里の狩人たちのように、百本撃てば百本を獲物の急所に通すわけではない。
自分の腕前を「エルフとしては並みか、少し下」と冷静に分類したうえで、それでもなお弓の感触そのものを好んでいた。
「これは、おまえにはまだ早い。だから渡さない」
レオンが目を丸くする。
「代わりに、貸すだけだ。境を射抜くその日まで、預かっていろ」
その役目が王命であろうと民会の決議であろうと、リラには関係がなかった。
ただ境を射抜く一射が年代記に記されるのなら、その弓がエルフのものか人間のものかなど、ささいな脚注にすぎない。
レオンは笑い、深く頭を下げた。
◇
境を決める戦いは、やがて本当に訪れた。
北の鉄の王と、南の新しい領主たちが、山脈と平野の境で睨み合う。
どちらの軍旗にも、リラは興味がなかった。紋章は変わる。色も形も、数百年のうちに何度も塗り替えられる。
川がどこを流れ、人々がどこで死んだかだけが、紙の上に確かな線として残る。
長い長い戦乱ののち、最後の交渉の場で、ひとつの条件が出された。
「この高台から放たれた矢が、朝日が昇り切るまでに落ちた場所を、新しい国境とする」
誰が言い出したのか、記録は曖昧だ。
ただ『勇者の一族』が真にその名に値するかどうか、その一射で試されることになった。
高台に立ったレオンは、エルフの里から貸し受けた弓を構えた。
矢羽根には、森で拾った小さな青い羽が一本、結びつけてある。それはたぶん、リラがこっそり差した目印だ。
彼は地平線をにらみ、まだ見ぬ子や孫たちの顔を思い浮かべ、ため息に似た息をひとつ吐くと――
じりじりと焼けるような朝の空に向かって、矢を放った。
その矢がどれほど遠くまで飛んだのか、誰も正確には知らない。
ある兵士は、矢が山と山のあいだを三度くぐったと言い、ある農夫は、矢が川を越えるたびに水面に虹が立ったと言い、ある吟遊詩人は、矢が飛ぶあいだだけ敵兵たちの剣が石に変わって動かなかったと歌った。
ただひとつ確かなのは、矢が落ちたところを境に、北の軍も南の軍もこれ以上前に出ることをやめたことだ。
新しい国境は、一本の矢の落ちた場所から引かれた。
どの王がその線に署名したかは、後世の年代記の欄外に小さく書き添えられただけだった。
レオンは、その場で静かに倒れ、二度と目を覚まさなかったという。
後の年代記は、その一射を境界を引いた一矢と呼び、彼の一族をふたたび『弓の勇者』と記した。
リラは、その記述の横に短く注釈を入れる。
「……称号はともかく、人の世界の境界線の設定としては妥当」
◇
それから、いくつもの人間の寿命が過ぎた。
エルフの里は相変わらず静かで、木々は年輪を増やし、書架には新しい年代記が積み重なっていく。
王の名も王国の名前も、何度か変わった。
リラはそれらを機械的に書き写し、ページの端に小さな印をつける。
――レオンの一射から数えて、何代目の王か。
その程度の関心が、人間の権威に対して彼女が払える最大限だった。
それでもなお、ふと窓の外を見て、どこかの丘で矢を放つ少年の幻を探すことがあった。
◇
ある年の春、リラは久しぶりに人間の町を訪れた。
かつて焼けた王都の場所には、明るい石造りの街と市場が広がり、中央の広場には一本の高い塔がそびえている。
塔の下では祭りが行われていた。
弓の競技会。
年に一度、レオンの一射の日を記念して、町の若者たちが腕を競うのだという。
リラは祭りの喧噪を、少し離れた場所から眺めていた。
誰が領主で、誰が審判かなど、見分ける気も起きない。
ただ、矢の飛ぶ軌道と、風の流れだけを目で追っていた。
「おお、森の方のお客人。あなたも的を射ってみませんか」
誰かがリラに声をかけた。
振り向くと、まだ背丈も低い少年が、目を輝かせてこちらを見上げている。
「うちの一族は、かの大英雄レオン様の家に仕えていたんです。どうか、一本だけ、エルフの一射を見せてください」
『様』付きで呼ばれた名に、リラの眉はわずかに動いた。
それでも、レオンの名前自体が忘れられていないことだけは、年代記の端に小さく丸印をつけるくらいには、喜ばしい。
彼女はしばらく少年を観察した。
祭りの係か、領主の供か、そういう役目には興味がない。
ただ、レオンの面影を、その目の奥に見出した。
「よかろう」
リラは祭り用のごく普通の弓を手に取った。
木目は粗く、弦はやや緩い。
それでも、人間たちが大事に手入れをしてきたことが分かる。
だが、エルフの里で使う弓とは比べものにならない。
距離もさほど遠くはない。里の狩人なら、目をつぶっても当てられる程度の的だろう。
リラは、自分が決して里一番の射手ではないことをよく知っていた。
それでも、エルフとしてこの距離の的を大きく外しはしないという自負もある。
「的は、どれだ」
指さされたのは、広場の端の丸い標的。
子どもたちの矢が、外側の白い輪にいくつか刺さっている。
リラはゆっくりと弦を引いた。
長い年月のあいだに、何度も何度も見てきた人間たちの矢。
戦場で、狩場で、祭りで。
そのすべてを、ひとつの線に重ねるようにして、静かに狙いを定める。
息を吸い、吐く。
この一射は、王を選びもしなければ、領主の椅子を動かしもしない。
誰の爵位も増えず、誰の紋章も変わらない。
ただ、昔育てた少年の名が、まだこの町のどこかで語られているという証としての一射だ。
それならば、外す理由はどこにもない。
リラは手を放した。
弦の音は小さく、矢は素直に飛んだ。
祭りのざわめきの中、少年の息を呑む気配だけが、やけにはっきりと耳に届く。
乞われて披露したリラの射は三度行われ、そのどれもがエルフとしては凡射だった。
それでも、まっすぐ伸びた三本の矢は、先の矢を貫き、三度とも的の中心を穿った。




