9 星空の下で(回想)
ガルは草原を駆けていた。追いかけてくるマナエルから逃げるように、彼女は黒い翼を揺らして走った。
空には大きな満月が浮かんでいて、二人の行く末を照らしているようだった。
「ミヘル、待って」
マナエルはなんとか追い付いてガルの腕を掴んだ。それを勢いよく振り払ったガルは、見ないようにしていたマナエルの姿を目にしてしまった。驚いた顔で見上げてくる彼女の背中には純白の翼が生えていた。
「触るな、私たちは敵同士だ」
ガルはで冷たい声で言い放った。
マナエルは傷ついたような顔をしたが、すぐに怒りを表情に滲ませた。
月が雲で隠れて地上が薄暗くなっていき、互いの表情も見えづらくなっていった。
「天使でも悪魔でも、ミヘルはミヘルでしょ。泣き虫で怖がりで一人で林檎もとれないミヘルよ」
「ミヘルはもういない」
ガルが断言した瞬間、一際強い風が吹いた。長い髪が乱れて彼女の顔を隠してしまう。雲に隠れていた月が顔を出し、髪の隙間からのぞいたガルの目が赤く光った。悪魔らしい邪悪な目であり、マナエルの澄んだ瞳とは異なっていた。
「私はガル、神に背き善を憎む悪魔だ。わかったらもう私に近づくな」
ガルはマナエルに背を向けて歩き出した。振り返りたい衝動が沸々と湧き上がってきたが、彼女は自分の心から目を背けた。
心を無にして草原を歩いていると、何かが後頭部に当たり強い衝撃が走った。鈍い痛みを感じながら頭を押さえた彼女は、反射的に振り返ってしまったのだった。
「ミヘルのばか!」
視界に入ったのは、ぽろぽろと涙をこぼしているマナエルの姿だった。マナエルは自分の靴を脱ぎ、ガルに向かってそれを投げつけた。ガルの胸に靴が当たったが、彼女は何の反応も示さなかった。初めて見たマナエルの涙に心を奪われ、何も感じなくなっていたのだ。
「そんなに私と一緒にいたくないの?私が嫌いなの?それならはっきりそう言えばいいじゃない!」
マナエルは素足のまま駆け寄って来て、強い眼差しでガルを見上げた。眩しいほど光を溜めた彼女の目が美しくて、ガルは視線をそらせなくなってしまった。
「言ってよ、あんたなんて大嫌いだって、もう一生顔を見たくないし、声も聞きたくないって。私の目を見て言って!」
マナエルは涙を散らしながら迫ってきた。ガルはとっさに言い返そうとしたが、言葉に詰まって黙り込んだ。存在しない感情を口にすることがどうしてもできなかったのだ。代わりに溢れてきた愛の言葉を飲み込んで、ガルはマナエルを抱き寄せた。
「お願いだから、これ以上私を困らせないでくれ」
ガルは絞り出すような声で言った。瞼を閉じてマナエルの体温に意識を注ぐ。離さなければいけないとわかっていてたが、心がそれを否定していた。マナエルはガルの背中に手を回し、黒い羽をそっとなぞった。
「このまま二人で逃げちゃおっか」
風の音に混ざらない透き通った声で、マナエルは囁いた。ガルの腕からするりと抜け出した彼女は、とても軽やかで自由に見えた。
「天国も地獄も捨てて二人で生きるの。地上ならどこにいようがばれないし、きっと人間のふりをして楽しく暮らせるわ。名案だと思わない?」
マナエルは楽しそうな表情で夢を語った。ガルは彼女の言動全てに釘付けだった。
ニコッと笑ってガルの手を握ったマナエルはいたずらに草原を駆け出した。彼女のブロンドの髪が月明かりで輝いている。
子どものように無邪気なマナエルを見て、ガルは思わず微笑みをこぼした。黒い翼を広げて空中に浮かんだガルは軽々とマナエルを抱え上げた。そのまま彼女を連れて天高くまで上昇していく。
ガルはまるで二人だけの世界になったかのような錯覚に陥っていた。
「あの月を見て、手を伸ばしたら捕まえられそう」
マナエルは満月に手を伸ばして「もう少しなのに」と大口を開けて笑った。はしゃいでいる彼女の声を、ガルは静かに聞いていた。悪魔になっても幸福は感じられるのだと気づき、冷えた心が温まっていった。
そのままガルとマナエルは、二人の世界を堪能し、地獄にも天国にも帰らなかった。




