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64 本当の願い

「見てください。あそこに人集りがありますよ」


 メリッサが遠くの地上を指差しながら言った。泣き腫らした目は赤く染まっていたが、すっかり涙は止まっている。エルマーはメリッサの強さに感心しつつ、彼女が指し示している方へ目を向けた。

「近づいてみよう」と言ってゆっくり高度を下げ始める。翼を出したまま人間の前に現れたら騒ぎになるとわかっていたが、冷静な判断ができなくなっていた。ウィリアムやカミラたちがどこにいるのか、手がかりを掴めずにいたため内心焦っていたのだ。

 下へ降りていくほど不明瞭だった地上の様子が徐々に見えてくる。広場らしき場所に多くの人が集まっており、人々が何かを囲っていた。不自然に中心が空いていてよく見ると誰かが倒れているようだった。


「少し急ごう」


 エルマーはメリッサを抱える手に力をこめ、急いで地上に向かって下降した。強風が吹き付けてくるが、瞼を閉じずに人集りを見つめる。

 ふとウィリアムの顔が脳裏をよぎり、心がざわめいた。彼の安否が確認できていない今、どうしても最悪な結末を連想してしまう。そんなはずないと自分に言い聞かせてなんとか正気を保った。

 エルマーははやる気持ちを押さえながら、人集りのすぐそばに降り立った。地上の感触を踏みしめながらそっとメリッサを下ろす。上空からやってきた二人に向けられたのは、人間たちの怯えるような視線だった。


「通してくれますか」


 エルマーはあくまで紳士的に人間へ声をかけた。まるで神が海を割ったかのように、エルマーの一言で人々が道を開ける。生まれたての一本道を、エルマーとメリッサは進んでいった。


「あの翼、まさか悪魔かしら?」

「もしかして吸血鬼じゃない?鋭い牙があったわよ」

「そんな馬鹿な話があるか。吸血鬼はとっくの昔に絶滅しただろ。あんたの見間違いだ」


 周囲からひそひそと話す声が聞こえてくる。エルマーは足を止めずにひたすら前へと進んだ。

 囲いの中心に足を踏み入れれば、カミラたちの姿と倒れている誰かが視界に入った。

 エルマーはぴたりと足を止めた。まるで体が進むことを拒絶しているかのように、足が動かなくなったのだ。


「ウィリアムさん!」


 メリッサがエルマーを追い越し、倒れている人へ駆け寄る。聞こえてきた名前がエルマーの中でうまく結び付かず、雑音のように身体をすり抜けていく。真っ白になった頭で目の前に広がる光景を見つめた。

 彫刻のように動けなくなってしまったエルマーの元へ、カミラが歩み寄ってきた。


「ごめんなさい」


 カミラが紡いだのはたった一言だった。それでもエルマーには十分だった。倒れている人の顔を見れば何が起こったのか一目了是である。わかっていても心がそれを受け入れられずにいた。

 泣きじゃくっているコリンや俯いたままのアシュリー、息絶えた身体を揺さぶるメリッサ、彼らの姿がエルマーの脳を嫌でも震わせる。目を離せずにいると、顔をあげたアシュリーと目が合った。

 気を遣ったのか、アシュリーはコリンやメリッサに声をかけて、ウィリアムから一定の距離をとった。

 一人横たわるウィリアムの姿を前にして、エルマーは一歩ずつ近づいていった。


「ウィリアム」


 ウィリアムのそばに膝をつき、今まで何度も口にした名前を呼ぶ。眠っているのではないかと錯覚してしまうほど、ウィリアムは穏やかな顔をしていた。

 今にも目を覚ましそうだが、地面を赤く染めている血が希望を打ち砕く。血の香りはまるで芳醇なワインのように甘いものだった。

 エルマーは恐る恐るウィリアムの上半身を抱え上げた。頬に手を伸ばせばまだ体温が残っていて、指先から熱を感じることができた。


「あいつは吸血鬼だ。今すぐ殺せ!」


 背後から聞こえてきた罵声に、エルマーはゆっくりと振り返った。男は同意を求めるように、周囲の人たちを見渡していた。

 しかし、彼に同調する者はおらず、威勢の良い声だけが響いていた。


「どうして突っ立てるんだ。吸血鬼の恐ろしさを忘れたのか?殺さないと俺たちが殺されるぞ」

「やめなさい」


 まくしたてる男を一蹴したのは腰の曲がった老婆だった。老婆は杖をつきながら一歩前に出た。

 エルマーは老婆の目を見てひどく動揺した。これまで向けられてきた恐怖や憎しみからは程遠い、慈しみを感じたからだ。


「人間も亜人も、何かを犠牲にしなければ生きられない。みんな自分が生きるのに必死で、自分を守るために戦おうとする。そこまでして生きようとするのは、自分の死を悲しむ人がいるからよ。最初から人間にも亜人にも正義なんてなかった。ただ必死に生きていたの。そんな当たり前のことを、どうして忘れていたのかしら」


 老婆はどこか憂いを帯びた声で言った。彼女の言葉を聞いて思うことがあったのか、騒いでいた男はばつが悪そうに舌打ちをして群衆の中に消えていった。

 それだけでなく、傍観していた人たちにも変化が訪れていた。座り込んでしまった人に手を差し伸べる者や、街が燃えている方を指さして「俺たちも手伝おう」と亜人の手伝いへ向かう者もいた。

 些細な変化がエルマーの胸を打ち震わせた。見えない引力に引き寄せられるように、エルマーは頭上を見上げた。夜空には息をのむほど美しい星が流れていた。


「ウィリアム、見てごらん。私たちの願いが叶ったんだ」


 エルマーは懐かしい記憶を思い出しながらウィリアムに話しかけた。亜人と人間の共存を願っていた彼に、目の前の光景を見せてあげたかったのだ。

 しかし、瞼は閉じられたままぴくりとも動かない。希望を捨てきれず何度も名前を呼んだが、静かな時間が過ぎていくばかりだった。

 ウィリアムの死を改めて実感し、心の膜がぱんとはじけて、中から激情があふれ出した。


「お願いだ。目を覚ましてくれ」


 エルマーは血濡れたウィリアムの胸に顔をうずめてむせび泣いた。人目もはばからず声をあげて涙する姿は、まるで人間のようだった。

 脳内にウィリアムと過ごした日々が浮かんでくる。吸血鬼の一生の中で、それはあまりに短い年月だった。それでも記憶は途切れずに流れ続け、彼をより深い悲しみへと押し流していった。


 ――ウィリアムがずっと幸せでありますように。


 星空の下で交わした会話が脳裏をよぎった。

 その時、エルマーの中に選択肢が生まれた。ゆっくりと顔を上げて夜空を見上げれば、あの日と同じような星空が広がっていた。

 人々に夢や希望を与えるように、星が輝きながら流れていく。美しい景色を前に、葛藤が一瞬で消滅する。

 残ったのは孤独に対する恐怖心と、純粋な狂気だった。


「……私はあの時、君に嘘をついた。本当は別の願い事をしていたんだ」


 エルマーは虚構を見つめたままウィリアムに語りかけた。

 それから長い沈黙を過ごした後、エルマーは大きく口を開けた。露出した鋭い牙で、人間ではなく自身の腕に噛みつく。牙の先で皮膚を破る感触と共に血の味が広がる。腕から口を離せば、白い牙から赤い液体が滴った。


「私を許さないでくれ」


 エルマーは唇を震わせながら呟き、直接言葉を注ぎ込むようにウィリアムへ口付けた。

 吸血鬼の血が二人の間にある隔たりが溶かしていく。触れ合った場所が妙に熱く、彼は恐る恐る唇を離した。エルマーの目から溢れた涙がウィリアムの頬を滑り落ちていく。

 その雫が地面に落ちるのと同時に、不可思議な現象が起こった。ウィリアムの胸にあった傷が塞がり始めたのだ。

 完全に傷が修復されるまで待っていると、ウィリアムが瞼を開いた。燃えるように赤い眼がそこにあった。

 状況を理解できていないのか、ウィリアムはぼんやりとした様子だった。薄く開いた口の中には鋭い牙が見える。


「私が誰だかわかるかい」


 エルマーはウィリアムの目をじっと見つめて問いかけた。ウィリアムはかすれた声で「エルマー」と名前を呼んだ。

 彼の声を聞いた途端、エルマーのもとに喜びと悲しみが同時に押し寄せてきた。死と生が入り乱れたこの瞬間に彼は微笑みを浮かべたのだった。


「帰ろう、私たちの家に」


 エルマーがウィリアムを抱きしめる。抱きしめた体はとても冷たく、鼓動も感じられない。それでもエルマーはウィリアムを強く抱きしめた。


 ――ウィリアムがずっと私のそばにいてくれますように。


 エルマーの頭の中に声が響いた。それは紛れもなく自分の声であり、彼の本当の願いだった。

 エルマーはウィリアムを抱きしめたまま、願いを叶えてくれた星を見上げた。傍観に徹する神のように、星は何も言わずに地上を照らし続けていた。

 流れ星はもう、一つも残っていなかった。


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