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60 最期の言葉

 薄ぼけた意識の中で、ウィリアムは名前を呼ぶ声を聞いていた。エルマーに呼ばれているのではないかと思い、彼の名前を口にする。

 しかし意識が明瞭になっていくにつれて、それがエルマーの声ではないことに気づいた。騒がしい声にうんざりしたウィリアムは、渋々瞼を開いたのだった。


「兄貴!起きてください!」


 ジャックはこれでもかというほど身体を揺さぶりながら呼びかけた。呼吸ができないほど激しい揺れに、ウィリアムは思わず顔をしかめた。


「起きたから離してくれ。もう一度俺を眠らせる気か」

「無事でよかったっす!身体は大丈夫っすか?」

「それはこっちの台詞だよ。ずっと顔見せないから地底街の爆発に巻き込まれて死んだと思ってた」

「そう簡単に死ぬわけないじゃないっすか。こっそり療養してたっすよ。足はあんまり動かないっすけど、もうすっかり元気っす!」


 以前と変わらない様子のジャックを前にして、ウィリアムは安堵感を覚えた。ゆっくりと上体を起こし、自分の体の状態を確認する。全身が痛むが動けないほどではなく、服の袖を捲って皮膚を確認すれば、擦り傷やあざがあるだけだった。


「火傷がない」

「え?」

「ガルが俺に火を放ったんだ。でも火傷ができてないってことは、あれは見せかけの炎だ。色も変だったしな。あいつは最初から俺を殺すつもりなんてなかったんだ」

「ガルさんに会ったんすか?渡したいものあるんで、どこにいるか教えてほしいっす」

「渡したいもの?」

「エルマーさんに頼まれたんすよ」


 ジャックはポケットの中から届け物を取り出した。彼が手にしていたのは色も柄も違う二通の手紙だった。


「ガルさん宛の手紙っす。こっちはエルマーさんからで、こっちはマナエルさんから」

「ちょっと待て、今マナエルって言ったか?」

「言ったっす」

「でかしたジャック、これがあれば戦争を止められるかもしれない。今すぐ街へ降りるぞ」


 ウィリアムはジャックの手から手紙を奪い取り、急いで立ち上がった。全身の痛みに顔をしかめつつ、足を引きずって歩き始める。すぐにジャックも立ち上がり、杖をつきながらウィリアムに続いて歩き始めた。


「戦争を止められるってどういうことっすか?」

「この手紙を使ってガルに交渉するんだ。攻撃をやめないとこの手紙は渡さないぞって言えば、あいつも考え直すはずだ」

「断られたら手紙を渡さないんすか?ガルさんにとって大切な人なんですよね、そのマナエルさんって」

「俺だってこんな卑怯な真似したくない。でも他に方法がないなら仕方ないだろ」


 ウィリアムとジャックは会話をかわしながら、足場の悪い坂道を下っていった。

 ウィリアムは焦るあまり、木の枝に足を取られて転びそうになった。近くにあった大木の幹に寄りかかりなんとか持ち堪えたが、うまく走れない自分の足に苛立ちが募った。


「怪我なんてしてなきゃもっと速く走れるのに」

「よかったら俺が乗せて行きましょうか?」

「……杖持ったやつにおんぶさせるほど畜生じゃないぞ俺は」

「狼の姿になれば一人くらい余裕で乗せれるっすよ。人間の足は二本ですけど、狼はその倍あるんで」


 ジャックは胸を張って謎の理論を展開した。ウィリアムはどうするべきか悩んだが、他の手段が思い浮かばず、苦渋の決断を下したのだった。


「お前の力を借りてもいいか」

「もちろん!」


 ジャックは嬉しそうに笑い、ウィリアムから少し距離をとった。彼は持っていた杖を捨てて空を見上げた。つられてウィリアムも空を見上げる。今日は新月なのか、星だけが夜空で光っていた。


「満月じゃなくても狼になれるのか?」

「なろうと思えばいつでもなれるっす」

「お前の狼姿見たことなかったから、てっきり満月の日だけなんだと思ってたよ」

「ずっと人前で狼になるのが怖くて隠してたんすよ。でももう大丈夫っす。逃げないって決めたんで」


 ジャックはどこか吹っ切れたような顔で言った。

 彼が静かに目を閉じた直後、蕾から花が芽吹くように、人間らしい形をしたジャックの体が変形し始めた。彼の変化に耐えきれなくなった衣服が破れて地面に落ちる。初めて目にする光景にウィリアムは釘付けだった。

 狼の姿になったジャックは人間よりも大きく、闇に溶けてしまいそうな黒い毛色が美しかった。ウィリアムは恐れず彼に近づき、飼い犬を愛でるように顎の下を撫でた。お礼とばかりに大きな舌で顔を舐められ、大量の唾液が付着する。

 服の袖で顔を拭ったウィリアムは「行こう」と言って狼に乗った。森中に響き渡りそうな遠吠えをしたジャックは、颯爽と森を駆け出した。杖をついていたとは思えないほど力強く進んでいった。

 全身で風を感じながら、ウィリアムはエルマーに思いを馳せた。こうしている間にも彼が危険な目に遭っているのではないかと気が気でない。一刻も早く戦争を止めなければと考えながら、前を向いた。

 急な斜面を駆け下り、足場の悪い岩場を飛び越え、森を抜けてなだらかな丘に出る。夜の草原を疾走していると、遠くのほうから爆発音が聞こえてきた。


「くそ、遅かったか」


 ウィリアムは戦争が始まってしまったことを悟り、悔しさに顔をしかめた。まだできることはあると必死に己を奮い立たせ、希望は捨てなかった。

 二人は突風のような速さで街に辿り着き、周囲の目を気にせずにそのまま走り続けた。すれ違う人間は皆ひどく驚いた顔をしていた。「あれを見ろ、狼だ」と誰かが叫び声を上げる。それでもジャックは足を止めない。なぜか人間たちは一定の方向に向かって走っており、二人は人の流れに逆らって突き進んだ。

 周囲を見渡しながらガルを探していると、再び爆発音が鳴り、もくもくと上がる黒煙が見えた。


「ジャック、あの煙だ」


 ウィリアムが煙を指差せば、返事をするようにジャックが吠えた。曲がりくねった路地に入り、煙が上がっていた方角へ向かう。建物の窓やガス灯を足場にして登り、器用に屋根の上を駆けていく。

 順調に進んでいたジャックだったが、突然足を止めて動かなくなってしまった。ウィリアムはジャックから降りて、目の前に広がる光景に唖然とした。

 煙の正体は豪炎に包まれた街だったのだ。街の一角が火の海と化しており、激しい炎が全てを飲み込んでいた。


「……間に合わなかった」


 ウィリアムは恐ろしい現実を前に立ち尽くした。深い絶望感に襲われて何も考えられなくなる。

 冷静な思考を失ったウィリアムだったが、地上にいる亜人らしき集団を見つけ、すぐに頭を切り替えた。ジャックに飛び乗った彼は「あの集団を追ってくれ」と指示を出した。すぐにジャックは地上に降り立ち、亜人たちに向かって走り出した。

 まだ火が燃え広がっていない公園に亜人たちが集まっており、彼らは歓喜の声をあげていた。ウィリアムはジャックから降りて、亜人たちの群れに自ら巻き込まれていた。

 狂気の乱舞に揉まれながら、揃いも揃って同じピンバッチをつけた亜人を掻き分ける。奥へと進んでいけば、見覚えのある赤い髪をした悪魔が先頭に立っていた。


「どうしてだよ」


 ウィリアムは拳を握り締め、誰にも聞こえない小さな声で問いかけた。怒りで震える身体を動かしてガルの元に駆け出す。

 背後から気配を感じたのか、ガルはゆっくりと振り返った。ウィリアムはガルの胸ぐらを掴み、真正面から彼女と対峙した。


「どうしてこんなことをした、答えろ!」


 ウィリアムは声を荒らげてガルに迫った。ガルはどこか怯えたような目で彼を見つめていた。


「私じゃない」

「……は?」

「私たちが来た頃にはもう燃えていたんだ」

「そんな言葉信じられるわけないだろ」


 ウィリアムはさらに捲し立てたが、ガルの表情は一切変わらなかった。どうも嘘をついているようには見えなかったが、かといって彼女の言葉を信じることもできなった。豪炎をすぐそばに感じながら、ウィリアムは予期せぬ事態に困惑していた。


「むしろ絶好のチャンスじゃない?」


 唐突に誰かが声をあげた。その声が火種となったのか、燃え広がるように亜人たちは次々と発言していった。


「きっと神様が私たちに味方してくださったのよ」

「人間が弱っているうちに攻撃を仕掛ければいいんだ」

「一気に街を燃やし尽くしてやろうぜ」


 亜人たちの声が重なり、大きな波となってウィリアムに迫ってくる。ガルの胸倉を離して振り返れば、高揚する群衆の姿が目に入った。戦いを望む亜人たちの表情はどこか嬉々としており、信じられない光景にウィリアムは恐怖を覚えたのだった。


「……戦争なんてやめよう。みんなを説得して森に帰るんだ」


 ウィリアムは祈るような気持ちでガルと向き合った。

 しかしガルは「今さら後戻りできると思うか?」と彼の提案を容赦なく切り捨てた。手段を選んでいられないと覚悟を決めたウィリアムは、ポケットにしまい込んでいた手紙を二通取り出した。


「ここにお前宛ての手紙がある。一つはエルマーからで、もう一つはマナエルからだ」

「私を止めるためにそんな物まで用意したのかい?誰が書いた?君か?それともエルマーか?」

「エルマーがマナエルから預かっていたんだ。受け取るところを見ていたから嘘じゃない。お前が戦争をやめるなら渡してやる。やめないなら、お前の目の前で燃やすぞ」

「手紙一つのために私が戦争を諦めるとでも?」

「お前にはそれだけの価値があるだろう」


 ガルは強気な態度を示したが、明らかに動揺している様子だった。ウィリアムは手紙を彼女に差し出し、向こうからの反応をじっと待ち続けた。

 長い沈黙の後、ガルがゆっくりと手を伸ばしてきた。

 しかし手紙に触れる寸前、彼女は手を引いてウィリアムに背を向けた。それは明確な拒絶であり、すべての終わりを表していた。


「ここで引き返さなかったら、マナエルの最後の言葉は一生聞けないままだぞ」

「かまわないさ。手紙を読んだところで彼女は帰ってこない。私を叱ってくれる人も、赦してくれる人も、もういないんだ」


 ガルは何もかも諦めたような弱々しい声で答えた。

 ウィリアムは説得しようと口を開いたが、これ以上彼女にかける言葉が見つからず黙り込んだ。「そうか、残念だ」とだけ言って手紙を胸ポケットにしまう。

 彼はガルの隣を横切り、うねる豪火の方へと一歩ずつ近づいていった。「何をするつもりだ」と問いかける彼女を無視して、ウィリアムはポケットの手紙を一枚掴み、炎の中に放り投げた。

 その瞬間、ガルが躊躇せずに豪炎へと飛び込んだ。周りの亜人から悲鳴が上がったが、火を操る悪魔の身体が燃えるはずもなく、彼女は炎の中でも原型を留めていた。

 ガルは膝から崩れ落ち、必死になって燃え尽きた手紙の残骸をかき集めようとした、虚構をかき集める彼女の姿はあまりに哀れなものだった。

 ウィリアムはその場から動かず、じっと彼女を見つめていた。


「……戦争を止めたいんだったな。じゃあ私の願いを聞いてくれ。マナエルさえいれば私はなにもいらない。彼女が帰ってくるなら身体でも命でも喜んで差し出す。だからあの子をここに連れてきてくれ、あの子を返してくれ」


 ガルは力無い声で言った。振り返った彼女は必死に救いを求めているような目をしていた。

 ガルの切なる願いに胸を痛めつつ、ウィリアムは首を横に振った。ぷつんと糸が切れたように、ガルは炎の中でわんわんと泣き始めた。泣きじゃくる彼女を前に、つい先ほどまで歓喜していた亜人たちも悲しげな表情を浮かべていた。

 誰かの名前を口にしながら涙する者や、掲げていた松明を下ろす者、何も言わずに子どもを抱きしめる者など、亜人たちの様々な思いが交差し始める。


「人間を滅ぼしてもマナエルは帰ってこない。お前の傷が癒えることもないし、悲しみが消えることもない。それでもこの理不尽な世界で生きるしかない。せめてもの平和を願って生きることしか、俺たちにはできないんだ」


 ウィリアムはガルに向かって語りかけた。ゆっくりと顔をあげたガルは「最後に教えてくれ。マナエルの死に意味はあったと思うか?」と問いかけた。

 ウィリアムの脳裏に、今は亡きマナエルの姿が浮かぶ。彼女は遠くのほうで、白い翼を広げて微笑んでいた。


「俺にはわからない。でも彼女の命に意味があったどうかは、お前が一番わかってるだろ」


 ウィリアムは正直な気持ちを伝えて、ポケットから手紙を二通取り出した。一つはエルマーからガルへ、もう一つはマナエルからガルへの手紙だった。


「投げたのは別の手紙だ。マナエルの言葉はまだここにある」


 ウィリアムがガルに手紙を差し出せば、彼女は立ち上がって炎の中から出てきた。恐る恐ると言った様子でそれを受け取ったガルは、涙を一つこぼし、すぐにそれを拭った。

 何か決意したのか、彼女は強い眼差しでウィリアムを見たあと、周囲の亜人たちに目を向けた。彼女はまっすぐ亜人たちを見つめ、胸に光っていた血正軍のピンバッチを外した。


「血正軍の解散をここに宣言する」


 ガルは迷いなく言い放った。急な宣言に亜人たちは混乱し、彼女に罵声を浴びせる者もいた。「結局逃げるのか」「あいつは亜人を見捨てるつもりなんだ」「この卑怯者」と厳しい声が投げかけられる。ガルは静かにそれらを受け止め、戦おうとはしなかった。


「好きなだけ石を投げてくれてかまわない。君たちには石を投げる権利がある。そして私にはそれを受け入れる義務がある。すべては私の弱さが招いたことだ。すまなかった」


 ガルは深々と頭を下げた。真摯に向き合う彼女の姿勢が功を奏し、少しずつ野次が減っていく。完全に野次がおさまるのと同時に、ガルはゆっくりと頭を上げた。


「これから人間の救出、および消火活動を始める。君たちを裏切っておいて、今さら助けてほしいとは言えない。だがこの中に平和を望む同志がいるなら、どうか力を貸してほしい」


 熱く訴えかけるガルの言葉を、亜人たちは真剣な面持ちで聞いていた。彼女の持つ統率力がそうさせているのか、ウィリアムにはわからなかった。

 ただ、暴力的だった空気が少しずつ変わっていくのがわかり、彼はこの世界に希望を見出した。


「私は協力するわ」


 若い女の獣人が前に出た。勇気ある行動が皆の心を動かしたのか、彼女に続いて大勢の亜人が名乗り出た。中には不満そうに来た道を戻る者もいたが、半数以上がその場に残ったのだった。


「みんな、ありがとう」


 ガルは笑顔で感謝を述べた。これまでの厳しい表情とは似ても似つかない柔らかな笑顔であり、悪魔よりも天使に相応しい表情だった。

 残った亜人に指示を出し始めるガルを横目に、ウィリアムは歩き出した。亜人たちをかき分けて後方に立っているジャックに駆け寄る。狼から人間に戻っていたジャックは花咲くように表情を明るくした。


「すごかったっすね!みんなを説得しちゃうなんて、さすが兄貴っす!」

「説得したのは俺じゃなくてガルだ。あいつの力だよ」

「そういえばさっき手紙を燃やしてたっすけど、あれって誰の手紙だったんすか?ガルさん宛ての手紙じゃなかったんすよね?」


 ウィリアムはジャックの質問に答えなかった。ガルを説得するために火の中に放ったあの手紙は、エルマーからウィリアムに向けられものだった。エルマーのことを思うと胸が痛んだが、彼は思わぬ原動力を手に入れた。

 何がなんでも戦争を終わらせてエルマーと直接話すと、心に誓ったのだ。


「とりあえず戦争を免れて一安心すね」

「いや、まだ終わってない。俺は向こうの様子を見てくるから、お前はここに残ってガルの手伝いをしてやってくれ」

「向こうって、どこに行くんすか?」


 ウィリアムの言葉にジャックはきょとんとした顔をした。何も知らない彼に説明している時間はなく、ウィリアムは質問に答えないまま走り出した。後ろから名前を呼ぶ声がしたが振り返らずに走り続けた。脳裏には武器庫で見た大量の兵器が浮かんでいた。

 何度も鳴った爆発音のせいか、すれ違う人間はみな混乱した様子だった。「この先は火事だ。来た道を戻れ」と伝えながら、馬車を探して走る。

 ウィリアムは街の中心部にある広場で馬車を見つけ、すぐに駆け寄った。

 次の瞬間、地響きがするほどの衝撃と共に、けたたましい爆発音が鳴り響いた。彼は咄嗟にその場で伏せて頭を守った。

 しばらくして揺れがおさまり、反射的に閉じていた目を開ける。視界に入ったのはしゃがみ込んでいる老夫婦や、母親の腕の中で泣いている子供の姿だった。

 何が起きたのかわからないまま、ウィリアムはフラフラと立ち上がった。黒煙が遠くの方で上がっているのが見えた。これから向かおうとしていたマヒュー教のアジトと同じ方角だった。

 ウィリアムは呆然と立ち尽くしたまま、そんなはずないと自分に言い聞かせた。身体の奥底から湧き上がってきた熱い汗が頬を伝った。まるで生きているかのように膨らんでいく黒煙には、一筋の赤い線が描かれていた。


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