55 小さな嘘
見慣れない時計が午後四時を指し示している。
エルマーは焼きあがったシフォンケーキを型から外そうと奮闘していた。小窓のカーテンは完全に締め切られており、彼を太陽から守っていた。
「紅茶のいい香りがするわね」
聞こえてきた声に反応して顔を上げれば、キッチンの入り口に微笑を浮かべたカミラが立っていた。
「紅茶のシフォンケーキを焼いたんだ。もしよかった一切れ食べるかい?」
「食べたいけれど今日は遠慮しておくわ。ブランデーケーキをもらったし、アップルパイも食べさせてもらったから」
「勝手にケーキを押し付けてすまないね。何かしていないと落ち着かなかったんだ」
「迷惑だなんて、私もあの子たちもおいしいケーキを食べさせてもらって感謝しているわ。本当は私たちがあなたを元気づけないといけないのに」
「誰かにおいしいって言ってもらえたら、それだけで元気づけられるよ」
エルマーは優しい表情でそう言って、型から外れたシフォンケーキを網状になった台へ置いた。
カミラとの間に沈黙が生まれ、なんとなく気まずさを感じた彼は、たまった洗い物を片付けてしまおうとシャツの袖をまくり直した。水に浸してあった皿を洗いながら、散らばった思考を少しずつ整理していく。
今日は流星群が降る日であり、血成軍が人間に戦争を仕掛ける日でもあった。自分のすべきことを改めて確認し、失敗がないよう頭の中でイメージを膨らませていった。
「本当に一人で行くつもりなの?」
逃がさないといわんばかりに、カミラが容赦なく問いかけてきた。エルマーはなんと答えるべきか迷い、目線は自分の手に向けたまま話し始めた。
「一人のほうが動きやすいからね」
「私も一緒に行くつもりだったのに」
「君には大切な任務を任せただろう?ピンチになったら君の力が必要だ。その時はよろしく頼むよ」
「もちろん協力するわ。でも必ず助けられるわけじゃない。私の力は時間稼ぎにしかならないのよ」
「それで十分だ。心強いよ」
エルマーは明るい声を意識して気丈にふるまった。背中でカミラの鋭い視線を感じていたが気づかないふりをする。
二人のちぐはぐな会話を覆い隠すように水の音が流れ続けていた。
「生きて帰ってくるつもりよね?」
すべて見透かしているようなカミラの問いかけに、エルマーは焦った。勢いよく流れている水を止めて、最適な答えを模索しながら振り返る。
声を発しようとしたその時、突然扉を叩く音が鳴り響いた
「誰かしら。めったにお客さんなんて来ないのに」
カミラが玄関に向かっていくのを見て、エルマーはほっと胸をなでおろした。追及の魔の手から逃れた彼は、洗い終えた皿を拭いたり、使った調理器具を元の場所にもどしたり、淡々とキッチンを片付けていった。
作業に集中してつかの間の現実逃避をしていると、微笑みを浮かべたカミラが戻ってきた。
「あなたのお客さんよ」
彼女はどこか嬉しそうな様子だった。覚えのない来客に警戒しつつ、エルマーは玄関へと向かった。
開け放たれた扉の向こうに立っていたのは、気恥ずかしそうな顔をしたジャックだった。
「ジャック、どうしてここに?」
「あー、えっと、渡したいものがあって」
ジャックは目をそらしたまま手に持っているカバンを差し出した。なぜ彼が来てくれたのかわからず混乱していたエルマーは「ああ、ありがとう」と言ってそれを受け取った。何が入っているのかもわからないカバンはずっしりと重く、中身は硬い感触だった。
「立ち話もなんだから入って紅茶でも飲まないかい?ここはカミラの家だから私が言うことじゃないんだけどね」
「……じゃあお言葉に甘えて」
エルマーはジャックを迎え入れて食卓に案内した。ダイニングテーブルには形が不ぞろいの椅子が四つ置かれており、そこにコリンとアシュリーが座っていた。
「ジャック」
コリンが椅子から立ち上がり、ジャックに向かって勢いよく駆け出した。ジャックとコリンが仲睦まじい様子で話し始める中、アシュリーは人見知りをしているのか、客人をちらりと見るだけだった。
「ジャックも一緒に食べようよ」
コリンがジャックの手を引いて食事に誘う。テーブルにはフォンダンショコラやアップルパイ、ブランデーケーキが並んでいた。エルマーがジャックの分の椅子を持ってきて、カミラが紅茶を用意し、ティータイムの準備を終えた五人は席についた。
「まだ熱いから少し冷まして飲んでちょうだい。砂糖とミルクは使うかしら?」
「砂糖だけもらってもいいっすか?」
「もちろん、この中に入ってるわ」
カミラは角砂糖の入った容器をジャックに渡した。ジャックは角砂糖を二個入れて、いかにも恐る恐るといった様子でカップを傾けた。熱かったのか、大げさに舌を出して顔をしかめる。カミラやコリンがジャックの反応を見て笑い、和やかな雰囲気が膨らんでいった。
エルマーはこっそりと自分の足元に視線を向けた。そこにはジャックから受け取ったカバンがあった。ジャックからもらった手土産がなんなのか確認しようと、カバンの中を覗き込む。
中に入っていたのは拳銃と銃弾であり、思わぬ物を前にしてエルマーは固まった。
「どうしたの?」
隣に座っているアシュリーが小声で問いかけてくる。エルマーは「いや、なんでもないよ」と目を泳がせながらごまかした。
彼の異変を感じ取ったのか、アシュリーはちらりと足元に置かれたカバンを見下ろし、そして立ち上がった。
「コリン、庭に行くよ」
アシュリーはコリンの手を引いて無理やり椅子から立たせた。ちょうどケーキを食べようとしていたコリンはむっとした顔で彼を見上げた。
「何するんだよ」
「急に庭でサッカーがしたくなったから付き合って」
「僕が誘ったときは絶対やんないって言ってたのに」
「気が変わったんだよ」
アシュリーは強引にコリンを連れて庭へと出ていった。
エルマーはアシュリーの気遣いに感謝しつつ、正面に座っているジャックをまっすぐ見つめた。
「この拳銃はどうしたんだい?」
「血正軍が避難所のみんなに配っていったんすよ。人間が襲ってきても戦えるようにって。食料も薬も大量に渡してきて、みんなすっかり血正軍の味方になってるっす。なんとか説得しようとしたっすけど聞いてもらえなくて、避難所にいる亜人の大半は戦争に参加するつもりらしいっす」
「……本気で人間を滅ぼすつもりなんだね」
エルマーはガルの姿を脳内に思い描きながら呟いた。ふとマナエルの最期が脳裏をよぎり、ガルに真実を伝えていない罪悪感にさいなまれた。彼女を殺したのは人間ではなくノアだったことを、必ず伝えなければいけなかった。
「その銃はエルマーさんにあげるっす。いざというときに必要になると思うし」
「気持ちはありがたいけれど、これは受け取れない。私は人間と戦いたいわけじゃないんだ。話し合って平和的な解決をしたいんだよ」
「相手が銃を持っていたら話し合いなんてできないっすよ」
ジャックの至極まっとうな意見に、エルマーは何も言えなくなってしまった。
しかし、どうしても銃を受け取ることができなかったエルマーは、カバンをジャックに差し出し「これは持って帰ってくれ」と伝えた。ジャックはどこか悔しそうな表情でそれを受け取り、長い沈黙の後にようやく口を開いた。
「僕も一緒に連れていってほしいっす。汚れ仕事は僕が引き受けるんで」
エルマーはジャックの言葉に目を丸くした。ジャックの熱い眼差しが突き刺さったが、エルマーの決意はかたく、心が揺らぐことはなかった。
「どうしても私一人で行かなければいけない理由があるんだ。だから連れて行くことはできないけれど、君に頼みたいことがある」
エルマーは席を立って小さな革製のカバンを開けた。中に入っている荷物は少なく、中から一冊の本を取り出して開いた。本の間に挟まっていたのは二通の手紙だった。
「これをガルに渡してくれないかい」
エルマーは手紙をジャックに渡した。手紙を受け取った彼は興味深そうにそれをまじまじと観察していた。
「ガルさんとあんまり関わりないっすけど、それでも大丈夫っすかね?」
「心配いらないよ。大事なのは手紙の内容だから」
「どっちも差出人が書いてないっすね。誰の手紙っすか?」
「一つは私からガルに向けて、もう一つはマナエルの手紙だ」
「マナエル?」
「ガルが愛した天使の名前だよ」
エルマーはそう言ってわずかに微笑んだ。ジャックは「なんかロマンティックっすね」と言って手紙を大事そうにポケットへしまった。
まるで会話が終わるのを待っていたかのようなタイミングで玄関の扉が開き「ずぶ濡れになっちゃった」とコリンの喚き声が聞こえてきた。カミラがタオルを持って足早に玄関へと向かう。
エルマーはカーテンが閉められた窓へと近づき、一瞬だけ外の様子をうかがった。どうやら急に雨が降ってきたらしく、空は厚い雲に覆われている。太陽が隠れていることを確認したエルマーは、カバンを持って玄関へと向かった。
「アシュリーのせいだ。急にサッカーしたいなんて言い出すから」
「僕のせいじゃないよ。急に降ってきた雨が悪いんだ」
「喧嘩してないではやく拭いてちょうだい」
コリンとアシュリーが言い合いをしていて、そんな二人にため息をついているカミラの背中が目に入る。本当の家族のようなやり取りをしている三人の姿が眩しく思えて、エルマーは目を細めた。
気配を感じたのか、カミラが不意に振り返りエルマーと視線が交差した。
「もう出発するの?」
「忘れ物をしてしまってね。一度家に戻ってから出発するよ」
エルマーは微笑みながら言った。彼は小さな嘘をついていた。本当は忘れ物などしていなかったのだ。
「日が沈んでからのほうが安全だと思うけど」
「傘をさしていくし、雨雲のおかげで暗くなっているから大丈夫さ」
「急にまた晴れるかもしれないわ。今日はずっと天気が不安定なの。日に差されて砂にでもなったらどうするつもり?」
「砂になってもそのうち再生する。吸血鬼は不死身なんだ」
エルマーはカミラの忠告を受け入れずに玄関の扉へ向かって歩いていった。
タオルをかぶったコリンがどこか心配そうに見上げてきたため、彼の濡れた髪をタオルでガシガシと拭いてやった。「くすぐったい」と笑うコリンにつられて微笑みを浮かべる。
一瞬だけアシュリーと目が合ったが、彼の澄んだ瞳が今は恐ろしく、自然と目をそらしてしまった。
「もしウィリアムがここにきたらシフォンケーキを食べさせてやってくれるかい?」
エルマーは誰とも目をわせないままカミラに問いかけた。質問の答えを待たずに、コート掛けにかけてあったジャケットを羽織った。
「別に構わないけど、私の家がどこかなんてあの子は知らないわよ。それに帰ってくるならあなたの家じゃない?ここには来ないと思うわ」
「心配しなくても必ず来るさ」
エルマーは微笑を浮かべて断言した。傘立てから自前の黒い傘を取り出して扉を開ける。
外へ出る前に一度振り返れば、ダイニングの扉からひょっこりと顔を出しているジャックが目に入った。見送ってくれる四人の姿はエルマーに勇気と切なさを与えた。
「行ってきます」
エルマーは無理に笑顔を浮かべてカミラの家を出た。外では雨が降っていて、日光は厚い雲でしっかりと覆われている。彼は一度も振り返らずに濡れた地面を踏みしめて歩いた。
少しずつ雨が弱まっていく中、エルマーは家路を急いだ。カミラの家はエルマーの家とさほど離れておらず、雨が上がらないうちに到着した。
家に入った彼は、傘を閉じてすぐにダイニングへと向かった。照明をつけずに薄暗い室内をゆっくりと進む。テーブルの上には一通の手紙とメモが置かれており、手紙の宛名はウィリアム・エバンスだった。
「私を許さないでくれ」
エルマーは宛名の文字を指でなぞりながら言った。悲しみで歪んだ顔を見ている人はいない。
彼はしばらく立ち尽くしていたが、これ以上留まってはいけないと思い直し、カバンも傘も持たずに外へと飛び出した。雨はまだ降り続いていた。
エルマーはポケットに手を入れて、大切なものを忘れていないか確認した。中には小瓶が二つ入っていた。指先で感じた感触はかたく、冷えた指先でそれを握る。
エルマーはふつふつと湧き上がってくる使命感に突き動かされて歩き出したのだった。




