53 吸血鬼について(回想)
エルマーは鼻歌を歌いながら焼きたてのエッグタルトをお皿に並べていた。甘く香ばしい香りがキッチンに広がっている。完成を喜びながら、外したばかりの型を洗い場に置いた。前菜やスープ、メインディッシュのハンバーグに、食後のデザートまで作り終え達成感が込み上げる。
食器やカトラリーの準備を始めようとしたその時、ダイニングのほうから足音が聞こえてきた。エルマーはつけていたミトンを外してダイニングへ向かった。彼がそこで目にしたのは血まみれのまま立っているウィリアムの姿だった。
「ただいま」
「な、なにがあったんだ」
エルマーはけろっとしているウィリアムに急いで駆け寄った。顔についた痣を近くで見ようと覗き込むが、彼はそっぽを向いてしまった。持っていたカバンを床へ捨てたウィリアムは、エルマーから逃げるように椅子へ座った。
「腹減ったんだけどなんかある?」
「ちょうど夕食ができたところだけど、そんなことより、その痣はなんだい?まさかまた喧嘩をしたのか」
「喧嘩じゃない。殴られたから殴り返しただけだ」
「それを喧嘩と言うんだよ」
エルマーはあきれてため息をついた。「とにかく冷やさないと」と言ってキッチンへ向かい、冷水で濡らした布を用意する。
ウィリアムのもとへ戻れば、彼はむすっとした顔で座っており、一向に目を合わそうとしなかった。
「怪我をしたのは顔だけかい?」
エルマーの問いかけにウィリアムは答えなかった。身体を見せるのが嫌なのか、縮こまるようにして背を丸める。彼の頑なな態度に困りつつ、冷えた布を顔の痣にそっとあてた。顔が痛むのか、ウィリアムは大げさに顔をしかめた。
「これから君にいくつか質問をするけれど、話したくないことは話さなくてもいい。ただこれだけは忘れないでほしいんだ。どんなことがあっても私は君の味方で、君を守るためならなんだってする。だから一人で抱え込む必要はない。わかったかい?」
エルマーは優しい声色で語りかけた。ウィリアムは何の反応も示さなかったが、彼に反抗することもなかった。
「顔以外に痛むところは?」
「……痛いのは顔だけ。他は知らない」
「じゃあ後で傷を見つけたり、痛んだりしたら教えてくれ。私に言うのが嫌なら、自分で手当をしてもいい。とにかく放っておかないようにするんだ。人間の体は繊細なんだから」
「人間は弱いってこと?」
「弱いとは言ってないよ。人間は思慮深くて、頭がよくて、とても素敵な生き物だ。私たちが持っていない知恵を持っている」
「仲間を殺されたのに、人間が素敵だって言えるのか?」
どこか不安そうな声でウィリアムが問いかける。
エルマーの脳裏に浮かんだのは、人間に殺されていった吸血鬼の姿だった。悲惨な光景がいくつも浮かんだが、人の優しさに触れたことも思い出し、エルマーは微笑みを浮かべた。
「言えるさ、心からね。今まで人と関わることが何度かあったけれど、みんな優しい人だった。もちろん恐ろしい人もいたけれど、人間は素晴らしい種族だと思うよ。だから血を飲むことをやめたんだ」
エルマーの返答に思うところがあったのか、ウィリアムはおずおずと顔を上げた。エルマーはようやく目が合ったことに安心し、表情を和らげた。
「君は誰よりも優しい子だ。好きで誰かを殴ったり、傷つけたりはしない。だからよっぽど酷いことをされたんだろう。何があったか私に話してくれるかい」
「……ゴブリンに喧嘩を吹っ掛けられて、最初は無視して帰ろうとしたんだ。そいつに石を投げられてもやり返さなかった。でも向こうが仲間を呼んで五対一になったから、仕方なくボコボコにしてやったんだ。名誉のために言っておくけど喧嘩は勝ったかたらな」
ウィリアムはどこか誇らしげな顔で言った。エルマーは褒めたり叱ったりせず、静かに話を聞いていた。
彼の人間離れした強さには感心していたが、それが父親から受けた厳しい訓練で培われたものだと知っていたため、素直に認めることができなかったのだ。ウィリアムが身体を見せたかがらないのも、父親から受けた虐待の傷が残っているからだと悟っていた。まだ十五になったばかりの少年が抱える大きな悲しみに、エルマーは心を痛めた。
「俺の存在が気に食わないんだと。街に帰れだの、ここにお前の居場所はないだの、散々暴言を吐かれて帰ってきたってわけ」
ウィリアムはやれやれと言った様子でぼやいた。無理をして気丈に振る舞っているような彼に、エルマーはかけるべき言葉を探した。
適切な表現を見つけ出せずにいると、二人の間にぐうと間抜けな音が響いた。ウィリアムのお腹の音だとエルマーはすぐに気づいた。
「夕食にしようか。準備をするからその間に手を洗っておいで。食べ終わったらエッグタルトを食べながら映画を見よう」
エルマーは少しでもウィリアムを元気づけようと明るい声で話した。
しかしウィリアムは口をつぐんだまま動き出そうとしなかった。何か伝えたいことがあるのか、じっとエルマーの目を見ている。痛いほど突き刺さる視線にエルマーは首を傾げた。
「どうかしたかい?」
「俺が吸血鬼になれば解決する」
「え?」
「吸血鬼の血を飲めば人間も吸血鬼になれるんだろ」
エルマーは彼の言葉にひどく動揺した。なぜウィリアムがそんなことを知っているのか、わからなかった。とにかく動揺を悟られてはいけないと必死に平静を装ったのだった。
「君に血を飲ませるつもりはないよ」
「なんでだよ、亜人になれば俺だってこの森で堂々と暮らせる。エルマーだって仲間ができる。良いことしかないだろ」
「そんな簡単な話じゃないんだ。吸血鬼が増えたら犠牲になる人間も増えることになる。まさか君も血を飲まずに空腹に耐えて生きていくつもりかい?」
「エルマーは何もしなくていい。俺が人間を捕まえてくるから、それで良いだろ」
「……君は自分が何を言っているのかわかっているのか」
「わかってるよ。俺は人間に情なんてない。生きるためなら人間だって殺せる」
口論の中でウィリアムは声を荒らげた。彼の言葉に酷くショックを受けて、エルマーは声を詰まらせた。自分がこの森に住まわせたせいで、ウィリアムは人間に対する感情を失ってしまったのではないかと思ったのだ。責任を感じたエルマーはわなわなと唇を震わせた。
「とにかく吸血鬼にはさせない。君がどれだけ頼み込んできても、これだけは譲らないからね」
強引に話を切り上げようとウィリアムに背を向ける。
頭を冷やすためにキッチンへ避難しようとした矢先、背後から椅子と床が擦れるような音が聞こえてきた。直後にウィリアムの足音が響き、それはだんだんと遠ざかっていった。
「俺がいなくても、エルマーは生きていけるんだな」
ウィリアムの声だけを残して勢いよく扉が閉まった。
エルマーは冷たい態度をとってしまったことを後悔した。すぐに後を追いかけたがどこにも彼の姿はなく、開けっ放しの扉が目に入った。急いで外を確認してみたがウィリアムの背中をとらえることはできなかった。
代わりに奇妙なものを見つけた。玄関の柱に布で包まれた物が立てかけられていたのだ。
エルマーはすぐにウィリアムを追いかけなくてはいけないと思ったが、見るからに怪しい物体を放っておくことができず、恐る恐る手に取った。麻布に包まれたそれはずっしりと重く、触った感触で本ではないかと予想がついた。
慎重に布を外せば「吸血鬼について」と書かれた本があらわになった。著者はアーロン・フロストという人物らしいが全く聞き覚えがなかった。誰がこの本を置いたのかと不審に思いながら、エルマーは震える指先でページをめくった。
「これは……」
文章に軽く目を通したエルマーは驚きのあまり絶句した。本には事細かに吸血鬼の生態が書かれており、中には残忍な実験についても書かれていた。吸血鬼の全身を切り裂いて再生能力を調べたもの、脳みそをすり潰し再生後の知能を調べたもの、吸血鬼の幼児を洗脳し人間に忠実な個体を作ろうとしたもの、惨たらしい実験の数々が書き記されている。
ページが進むに連れて内容は確信に迫っていき、エルマーは恐ろしい真実を目にしてしまった。「吸血鬼は人間を無意識のうちに魅了し、自分の支配下におく」と書かれていたのだ。
エルマーには思い当たる節があった。これまで関わってきた人間は友好的な人が多く、なかには自分の血を吸ってほしいと自殺した者までいたのだ。
エルマーは呆然としながら、ウィリアムに思いを馳せた。彼のことも支配してしまっているのではないかと考え、酷い恐怖心を抱き始める。このままウィリアムを追いかけていいのかわからず、エルマーは放心状態のまま家に戻った。
本を持ったまま玄関で立ち尽くしているとポツポツと雨が降り始めた。小雨だった雨はあっという間に土砂降りになり、強い稲光が差し込む。遅れて鳴った雷鳴を聞いてエルマーは我に帰った。
咄嗟に傘立てへ視線を向ければ、二本の黒い傘が並んでいた。
「……行かないと」
エルマーは持っていた本を手放し、傘を開きながら家を飛び出した。もう一本の傘もしっかりと手に持ち、なんの手がかりもないまま森を駆けていく。
頭の中では様々な思考が駆け巡っていた。ウィリアムのそばにいてはいけないという事実と、彼を心配する素直な感情が入り乱れて混ざり合う。答えを出せないまま必死に彼を探し続けた。
いくらウィリアムの名前を呼んでも反応がなく、行く宛を失ったエルマーに一際強い風が吹きつけた。強風で傘が飛ばされてしまい、彼は雨空の下に晒さた。もう一本の傘を持っていたがどうも開く気になれず、全身で雨を受け止めた。
――俺がいなくても、エルマーは生きていけるんだな。
ふとウィリアムの言葉が頭を過ぎる。なぜ突然あんなことを言ったのか、エルマーにはわからなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。それは己の感情だった。
「一人で生きていけるはずだったんだ」
エルマーの声が雨音に紛れる。何度目かの閃光が空を走り、間髪入れずに雷鳴が響いた。すぐ近くに落ちたのか、何かが焼けるような焦げ臭い匂いが鼻をついた。ここにいては危険だと悟りすぐに走り出す。
次の瞬間、走っているエルマーの元に轟々と燃え盛る大木が倒れてきた。激しい衝撃とともに目の前の景色が横転し、エルマーの意識は途切れた。
最後まで聞こえてきたのは激しい雨の音だけだった。




