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第八章:星屑

 一年後、蒼太は天文台の観測室にいた。今夜は、特別な観測の夜だった。新しく発見された彗星の軌道を計算するためだ。しかし、観測の準備をしながら、蒼太は薫子のことを考えていた。彼女が亡くなってから、一年。その一年は、長くも短くもあった。


 悲しみは、消えなかった。でも、それは鋭い痛みから、静かな寂しさへと変わっていった。そして、薫子の存在は、蒼太の中で、別の形を取り始めていた。薫子の言葉、薫子の教え、薫子との思い出。それらは、蒼太の一部になっていた。蒼太は、薫子の影響を受けて、変わっていた。以前より科学的に厳密に考えるようになったし、感傷だけでなく、論理も重視するようになった。


 しかし、同時に、薫子も蒼太の影響を受けて変わっていた。最期の数ヶ月、彼女は、感情の価値を認めるようになっていた。科学だけでなく、詩も大切にするようになっていた。二人は、互いに影響を与え合い、共に成長した。そして、その成長は、薫子の死後も続いている。蒼太の中で、薫子は生き続けている。


 観測室のドアが開き、若い女性研究員が入ってきた。


「森川先生、準備が整いました」


「ありがとう」蒼太は答えた。


 この研究員は、薫子の元教え子だった。薫子の死後、天文学に興味を持ち、蒼太の研究室に加わった。薫子の影響は、こんなところにも表れている。


 観測が始まった。望遠鏡が、夜空の一点を捉える。スクリーンに、画像が映し出される。そこには、淡い光の尾を引いた彗星があった。


「美しいですね」研究員が言った。


「ええ」蒼太は頷いた。「彗星は、太陽系の始まりからの使者です。46億年前の情報を運んでいる」


「時間を超えたメッセージですね」


「そうです」蒼太は言った。「そして、私たちも、メッセージを未来に送っています」


「どんなメッセージですか?」


「私たちが存在したこと」蒼太は答えた。「私たちが学んだこと。私たちが愛したこと」


 研究員は、蒼太の言葉の意味を考えていた。


「北条先生のことですか?」


 蒼太は、微笑んだ。


「ええ。でも、彼女だけではありません。すべての人が、メッセージを残します。意識的にも、無意識的にも」


 観測は、深夜まで続いた。終了後、蒼太は一人、丘の上に登った。薫子と何度も訪れた場所だった。星空が、広がっていた。蒼太は、天の川を見上げた。何千億もの星々。その一つ一つが、薫子の体を構成していた原子を作った。そして、薫子の体を構成していた原子は、今、再び宇宙の一部になっている。


「薫子」蒼太は呟いた。「君は、星屑に還ったんだね」


 風が吹いた。蒼太は、その風の中に、薫子の声を聞いた気がした。それは、幻聴かもしれないが、蒼太にとっては、真実だった。蒼太は、ポケットから小さな箱を取り出した。その中には、薫子の遺灰の一部が入っていた。海に散骨した残りだった。蒼太は、それを持ち歩いていた。いつも、薫子と一緒にいるために。


 しかし、今夜、蒼太は決めた。これを、手放すときが来た、と。蒼太は、箱を開け、遺灰を、夜空に向かって撒いた。白い灰が、風に乗って、星空へと舞い上がった。


「さようなら、薫子」蒼太は言った。「そして、ありがとう」


 灰は、見えなくなった。でも、蒼太は知っていた。それらの原子は、消えたのではない。ただ、形を変えただけだ。そして、薫子自身も、消えたのではない。蒼太の中に、薫子の本の中に、薫子の研究の中に、形を変えて、生き続けている。


 蒼太は、深呼吸をした。そして、微笑んだ。悲しみは、まだあった。でも、同時に、平安もあった。薫子との時間は、終わった。でも、薫子の影響は、続いている。そして、これからも続く。永遠に。


 蒼太は、丘を下り始めた。明日も、研究がある。教育がある。生活がある。薫子がいない生活だが、薫子と共にある生活だった。蒼太は、前を向いて歩いた。その背中を、星々が照らしていた。まるで、薫子が見守っているかのように。


 数ヶ月後、薫子の本が出版された。タイトルは『星屑の記憶――ある科学者の死生観』。本は、静かな反響を呼んだ。科学者たちは、薫子の誠実な科学的姿勢を評価した。一般読者たちは、死に向き合う勇気と、人生への深い洞察に感動した。そして、多くの人々が、この本から、何かを学び取った。死は終わりではないということ、愛は形を変えて続くということ、大切なのは、どう生きるか、ということ。


 蒼太は、書評を読むたびに、薫子を誇りに思った。彼女は、死後も、人々に影響を与え続けている。それが、彼女の永遠の生だった。


 ある日、蒼太のもとに、一通の手紙が届いた。差出人は、見知らぬ名前だった。手紙を開くと、こう書かれていた。


『森川蒼太様


初めてお便りします。私は、末期癌の患者です。余命、あと数ヶ月と宣告されました。絶望の中、書店で偶然、『星屑の記憶』を手に取りました。この本は、私の人生を変えました。北条薫子さんの言葉は、私に勇気を与えてくれました。死を恐れるのは当然だ。でも、死は終わりではない。変容だ。そして、大切なのは、どう生きるかだ。


この教えを胸に、私は、残された時間を、精一杯生きようと決めました。家族と和解し、やり残したことをやり、そして、穏やかに死を迎える準備をしています。北条さんは、もうこの世にはいません。でも、彼女の言葉は、生き続けています。そして、私を含む多くの人々の中で、彼女は生き続けています。


このことを、お伝えしたくて、手紙を書きました。北条さんに、そして、彼女を支えたあなたに、心から感謝します。ありがとうございました。』


 蒼太は、手紙を読み終えて、涙を流していた。それは、悲しみの涙ではなく、感動の涙だった。薫子の影響は、こんなにも広がっている。知らない誰かの人生を、変えている。それは、薫子が最も望んでいたことだった。科学者として、人々の役に立つこと。そして、人間として、誰かに希望を与えること。


 蒼太は、手紙を大切にしまい、窓の外を見た。春が来ていた。桜が、咲き始めていた。生命の循環、死と再生、終わりと始まり。すべては、繋がっている。


 蒼太は、薫子に心の中で語りかけた。


「薫子、君の願いは叶ったよ。君は、人々の役に立っている。そして、君は、生き続けている」


 答えは、なかった。でも、蒼太には、聞こえた気がした。薫子の声が。「ありがとう、蒼太。あなたと出会えて、幸せでした」


 蒼太は、微笑み、立ち上がった。研究室に行く時間だった。新しい発見を目指して、薫子が教えてくれた、真理への情熱を胸に。そして、薫子との約束を守るために。精一杯、生きるために。蒼太は、扉を開けた。外には、春の陽光が降り注いでいた。新しい季節、新しい始まり。でも、薫子は、いつも蒼太と共にある。星屑として、記憶として、愛として、永遠に。


---


 夜空を見上げるとき、私たちは星を見る。その光は、何年も、何十年も、何百年も前に放たれたものだ。星自体は、もう存在しないかもしれない。でも、その光は、今も私たちに届いている。


 人も、同じではないだろうか。肉体は消えても、その影響は続く。愛した人の記憶、残した言葉、与えた影響。それらは、光のように、時を超えて届く。私たちは、皆、星屑から生まれた。そして、いつか、星屑に還る。しかし、私たちが生きた証は、消えない。形を変えて、続いていく。永遠に。


 それが、この宇宙の約束。

 星屑の約束。


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