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第七章:継承

 十二月の初め、薫子は昏睡状態に陥った。医師によれば、もう意識が戻る可能性は低いという。蒼太は、薫子のベッドの傍らに座り、彼女の手を握り続けた。時々、薫子に語りかけた。今日の空のこと、研究室からの連絡、彼女の本が出版社に受け入れられたこと。薫子が反応することはなかったが、蒼太は信じていた。聞こえていると。


 十二月十五日の早朝、薫子の呼吸が変わった。浅く、不規則になった。蒼太は、彼女の手を強く握った。


「薫子」蒼太は囁いた。「愛しています。ずっと」


 薫子の唇が、僅かに動いた。何か言おうとしているようだった。蒼太は、耳を近づけた。薫子の声は、ほとんど聞こえなかったが、確かに聞こえた。


「ありがとう……」


 それが、薫子の最後の言葉だった。数分後、薫子の呼吸が止まった。心拍モニターが、平坦な音を発した。蒼太は、薫子の手を握ったまま、動けなかった。涙が、止まらなかった。しかし、不思議なことに、部屋は静かで、穏やかだった。まるで、薫子が安らかに眠りについたかのように。


 葬儀は、薫子の遺志に従って、無宗教で行われた。研究室の同僚たち、大学時代の友人たち、そして蒼太が集まった。祭壇には、薫子の写真が飾られていた。微笑んでいる、珍しい写真だった。蒼太が、弔辞を読んだ。


「薫子は、科学者でした。真理を追求し、感情に流されず、論理的に思考する人でした。しかし、彼女はそれ以上の人でもありました。彼女は、誠実でした。自分の信念に忠実で、決して嘘をつきませんでした。彼女は、勇敢でした。死に直面しても、冷静に、自分の選択をしました。そして、彼女は、愛することを学びました。科学的説明を超えた、何か深いものを」


 蒼太は一度言葉を切り、深呼吸をしてから続けた。


「薫子が残してくれたものは、たくさんあります。彼女の研究、彼女の本、彼女の教え。そして、最も大切なのは、彼女が示してくれた生き方です。誠実に、勇敢に、そして愛を持って生きること。薫子、ありがとう。あなたと出会えたことが、私の人生の宝物です。さようなら。でも、完全な別れではありません。あなたは、私の中に生き続けます。永遠に」


 参列者たちは、静かに涙を流していた。火葬の後、薫子の遺志に従って、遺灰の一部は海に散骨された。蒼太は、薫子と最初に訪れた海岸に立っていた。冬の海は、灰色で、荒々しかった。蒼太は、骨壷を開け、薫子の遺灰を風に委ねた。白い灰が、風に舞い、海へと消えていった。


「薫子」蒼太は呟いた。「故郷に帰るんだね」


 波の音だけが、答えだった。蒼太は、しばらくそこに立っていた。そして、ふと気づいた。悲しみの中に、何か別の感情もあることに。それは、感謝だった。薫子と出会えたこと、愛し合えたこと、最期まで一緒にいられたこと。それらすべてに、感謝していた。そして、もう一つの感情があった。希望だった。薫子が教えてくれたこと――誠実に生きること、真理を求めること、愛すること――を、これからも実践していこうという決意。


 蒼太は、海に向かって深く礼をした。そして、振り返って、歩き出した。新しい一歩を踏み出すために。


 数週間後、蒼太は薫子の研究室を訪れた。彼女の後任の研究員が、薫子の研究を引き継いでいた。


「森川さん」若い研究員が言った。「北条先生のデータ、本当に素晴らしいです。これを基に、私たちは新しい発見ができそうです」


「彼女も喜ぶでしょう」蒼太は微笑んだ。


「先生の本も、読みました」研究員は続けた。「科学者でありながら、あんなに深く人生について考えていたなんて。尊敬します」


「彼女は」蒼太は言った。「最後まで、学び続けました。科学からも、人生からも」


 研究室を出ると、蒼太は大学のキャンパスを歩いた。冬の木々は、葉を落としていた。しかし、枝には、すでに新しい芽が準備されていた。春を待つ芽だった。生命の循環。蒼太は、薫子の言葉を思い出していた。「私の原子は、自然に還り、やがて別の生命の一部になる」。それは、文字通りの真実だった。薫子の体を構成していた原子は、今、自然の一部になっている。海に、空気に、土に。そして、いつか、それらは再び生命の一部になる。花として、木として、あるいは別の人間として。物質は、永遠に循環する。


 そして、情報も循環する。薫子の研究、薫子の本、薫子の教え。それらは、次の世代に受け継がれ、さらに次の世代へと伝わっていく。これもまた、永遠の循環だった。


 蒼太は、空を見上げた。冬の空は、澄んでいた。昼間だったが、金星が見えた。明けの明星、宵の明星。死んでも、その光は届き続ける。蒼太は、微笑んだ。


「薫子」蒼太は心の中で語りかけた。「君は正しかった。死は終わりじゃない。変容だ」


 風が吹いた。冷たいが、爽やかな風だった。蒼太は、その風の中に、薫子の存在を感じた気がした。それは錯覚かもしれないが、美しい錯覚だった。そして、蒼太にとって、それは真実でもあった。



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