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第六章:時間

 十月に入ると、症状はさらに進行した。


 頭痛は、常にあるものになった。鎮痛剤で抑えるが、効果は限定的だった。


 視力も、徐々に低下していった。文字を読むことが、困難になり始めた。


 薫子は、音声入力ソフトを使って、執筆を続けた。


 しかし、集中できる時間は、日に日に短くなっていった。


 ある朝、薫子は蒼太に言った。


「もう、自分では歩けなくなるかもしれません」


 蒼太は、薫子の手を握った。


「大丈夫です。私が支えます」


「あなたに、迷惑をかけます」


「迷惑ではありません」蒼太は言った。「愛する人を支えることは、特権です」


 薫子は、涙を流した。


「私は」薫子は言った。「あなたに出会えて、本当に幸せでした」


「私もです」蒼太は答えた。「あなたは、私の人生を変えました」


「どう変えましたか?」


「世界が」蒼太は言った。「より深く、より豊かに見えるようになりました。あなたの科学的視点と、私の詩的視点が融合して、新しい見方が生まれました」


 薫子は、微笑んだ。


「それは、良かったです」


 その日、二人は、最後の外出をすることにした。


 薫子のリストの最後の項目。「蒼太と、もう一度天文台へ」


 車で二時間、山道を登る。薫子は、窓の外の紅葉を眺めていた。


「美しいですね」薫子が言った。


「ええ」蒼太は答えた。「もののあはれ、ですね」


「もののあはれ……」薫子は繰り返した。「以前、あなたがその言葉を使ったとき、私は理解できませんでした。でも今は、少しわかる気がします」


「どんな感じですか?」


「儚いものの美しさ」薫子は言った。「永遠でないからこそ、貴重である、という感覚」


「その通りです」蒼太は頷いた。「日本の美意識の核心です」


 天文台に着くと、同僚たちが薫子を温かく迎えてくれた。


「北条先生、お久しぶりです」


 薫子は、彼らと短い会話を交わした。しかし、すぐに疲れてしまった。


 蒼太は、薫子を観測室に案内した。


 望遠鏡が、天井の開口部に向けられている。


「今夜は」蒼太が言った。「特別な天体を見せたいのです」


「何ですか?」


「惑星状星雲です」蒼太は説明した。「太陽と同じような恒星が、一生の最後に放出したガスの雲です」


 蒼太が望遠鏡を調整し、薫子を接眼レンズに導いた。


 そこには、息を呑むような光景が広がっていた。


 青と緑の光を放つ、対称的な構造。まるで、宇宙に浮かぶ宝石のようだった。


「これは」蒼太が説明した。「ある星の死です。でも、その死は、新しい始まりでもあります。この星雲の中心には、白色矮星――星の残骸――があります。そして、この星雲のガスは、いずれ新しい星や惑星の材料になります」


 薫子は、接眼レンズから目を離さなかった。


「美しいですね」薫子は囁いた。「死が、こんなに美しいなんて」


「すべての死は」蒼太は言った。「変容です。終わりではなく、変化です」


 薫子は、ようやく接眼レンズから目を離した。


「私の死も」薫子は言った。「そうであってほしいです」


 蒼太は、薫子を抱きしめた。


「必ずそうなります」蒼太は言った。「あなたは、形を変えて、続いていきます」


 その夜、二人は天文台のゲストルームに泊まった。


 ベッドに横になり、薫子は蒼太に言った。


「一つ、お願いがあります」


「何でしょう?」


「私が死んだら」薫子は言った。「散骨してください。海に」


「海に?」


「ええ」薫子は頷いた。「生命が始まった場所に、還りたいのです。そして、物質の循環の一部になりたい」


「わかりました」蒼太は言った。「そうします」


「それから」薫子は続けた。「悲しまないでください。いえ、悲しんでもいいですが、あまり長く悲しまないでください」


「それは」蒼太は言った。「難しい注文ですね」


「わかっています」薫子は微笑んだ。「でも、あなたには、まだ長い人生があります。私のために、それを無駄にしないでください」


「無駄になどしません」蒼太は約束した。「でも、あなたを忘れることもありません」


「忘れなくていいです」薫子は言った。「ただ、思い出の中に閉じ込めないでください。前に進んでください」


 蒼太は、薫子の髪を優しく撫でた。


「あなたは」蒼太は言った。「本当に強い人ですね」


「強くはありません」薫子は答えた。「ただ、現実を受け入れているだけです」


「それが、強さです」


 薫子は、蒼太の胸に顔を埋めた。


「怖いです」薫子は小さな声で言った。「消えてしまうことが」


 蒼太は、薫子をしっかりと抱きしめた。


「消えません」蒼太は囁いた。「形を変えるだけです。あなたは、私の中に生き続けます。あなたの研究の中に生き続けます。あなたが影響を与えたすべての人の中に、生き続けます」


「それは」薫子は言った。「慰めになります」


「慰めだけではありません」蒼太は言った。「真実です」


 二人は、朝まで抱き合っていた。


 薫子の体温を、蒼太は記憶に刻み込もうとした。


 この温もりが、いつか失われることを知りながら。


 十一月、薫子の状態は急速に悪化した。


 歩行が困難になり、車椅子が必要になった。


 視力はさらに低下し、もう文字を読むことはできなくなった。


 しかし、意識は、まだ明瞭だった。


 蒼太は、仕事を休んで、薫子の介護に専念した。


 食事の世話、身体の世話、そして何より、心の支え。


 薫子は、申し訳なさを感じていた。


「あなたに」薫子は言った。「こんな負担をかけて……」


「負担ではありません」蒼太は答えた。「愛です」


 ある日、薫子は蒼太に頼んだ。


「私の本、読んでくれますか?」


 薫子が書いていた原稿は、ほぼ完成していた。蒼太が、最後の編集作業を手伝っていた。


「もちろん」蒼太は言った。


 蒼太は、薫子のベッドの傍らに座り、原稿を読み始めた。


「タイトルは『星屑の記憶――ある科学者の死生観』」


 蒼太は、ゆっくりと読み進めた。


 薫子の人生が、そこにあった。


 科学への情熱。父との思い出。無神論者としての信念。そして、蒼太との出会い。


 原稿の最後の章は、「死について」だった。


 蒼太は、その部分を声に出して読んだ。


「私は、長い間、死を恐れていませんでした。科学者として、死は単なる生命活動の停止だと理解していたからです。恐れる理由はないと思っていました。


しかし、実際に死に直面して、私は恐怖を感じました。消滅への恐怖。愛する人と別れる恐怖。未完のまま終わる恐怖。


これらの恐怖は、非合理的でしょうか? 科学的には、そうかもしれません。でも、人間として、当然の感情です。


私は学びました。感情を否定することは、人間性を否定することだと。


そして、もう一つ学びました。


死は、終わりではない、ということです。


いえ、正確には、終わりであり、同時に、変容でもある、ということです。


私の肉体は消えます。意識も消えます。しかし、私が存在した事実は消えません。


私が愛した人々の記憶の中に、私は生き続けます。


私が残した研究は、誰かに引き継がれます。


私の原子は、自然に還り、やがて別の生命の一部になります。


これは、比喩でしょうか? それとも、文字通りの真実でしょうか?


私には、もう区別がつきません。


そして、区別する必要もないのかもしれません。


大切なのは、どう生きたか、です。


私は、誠実に生きようとしました。真理を求めました。愛する人を大切にしました。


それで十分です。


天国があるかどうかは、わかりません。


でも、もし天国が、愛する人々と再会できる場所だとするなら、私は天国を信じたいと思います。


そして、もし天国が、ただの希望に過ぎないとしても、その希望を持つことは、美しいことだと思います。


父は言いました。『大切なのは、どう生きるかだ』と。


私は、その教えに従って生きました。


そして今、その人生を、後悔なく終えようとしています。


愛する蒼太へ。


あなたと出会えたことが、私の人生の最大の幸福でした。


あなたは、私に愛を教えてくれました。


科学では説明できない、しかし確かに存在する何かを。


ありがとう。


そして、さようなら。


でも、完全な別れではありません。


あなたの中に、私は生き続けます。


星が死んでも、その光が宇宙を旅し続けるように。


私の愛も、あなたの中で、輝き続けるでしょう。


永遠に。」


 蒼太は、読み終えて、涙を流していた。


 薫子も、涙を流していた。


「素晴らしい」蒼太は言った。「あなたの魂が、ここにあります」


「魂……」薫子は微笑んだ。「私が、その言葉を使う日が来るなんて」


「あなたは変わりました」蒼太は言った。「でも、本質は変わっていません。誠実で、知的で、美しい人です」


「ありがとう」薫子は言った。「あなたがいてくれて、私は変われました」


 その夜、薫子は静かに言った。


「もうすぐです」


 蒼太は、薫子の手を握った。


「わかっています」


「怖いですか?」薫子が尋ねた。


「怖いです」蒼太は正直に答えた。「でも、受け入れます」


「私も怖いです」薫子は言った。「でも、あなたがいてくれるから、大丈夫です」


 蒼太は、薫子の額にキスをした。


「愛しています」蒼太は囁いた。


「私も」薫子は答えた。「永遠に」



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