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【死生観恋愛短編小説】星屑の記憶、対話する宇宙 ~ある科学者と天文学者の愛と死~  作者: 霧崎薫


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第五章:選択

 診断から二週間後、薫子は治療方針について、最終的な決断を下す必要があった。


 主治医は、標準的な治療プロトコルを提案した。開頭手術で可能な限り腫瘍を摘出し、その後六週間の放射線治療と併用化学療法を行う。その後、維持化学療法を継続する。


「この治療により」医師は説明した。「平均して12から18ヶ月の生存期間が期待できます。ただし、副作用は避けられません。脱毛、吐き気、倦怠感、認知機能の低下などです」


 薫子は、資料を詳細に検討した。医学論文を読み、統計データを分析した。科学者として、彼女は冷静に選択肢を評価した。


 そして、一つの結論に達した。


 治療を受けない、と。


 蒼太は、その決断を聞いたとき、信じられないという表情をした。


「治療を受けない? どうして?」


 二人は、薫子の研究室にいた。窓の外では、五月の新緑が眩しく輝いている。


「統計を分析しました」薫子は、ホワイトボードにグラフを描きながら説明した。「標準治療を受けた場合の生存曲線がこれです。中央値は14ヶ月。しかし、QOL――生活の質――は著しく低下します。副作用により、最後の数ヶ月は、ほとんど寝たきりになります」


「でも、生きられる時間が――」


「延びるのは、生物学的な生存期間です」薫子は遮った。「意識が明瞭で、自分らしく生きられる時間は、むしろ短くなります」


 蒼太は、ホワイトボードを見つめた。


「では、治療を受けなければ?」


「腫瘍は進行します」薫子は別のグラフを描いた。「おそらく、6から9ヶ月程度で、重篤な症状が現れます。しかし、それまでの期間は、比較的正常に生活できます」


「6から9ヶ月……」蒼太は呟いた。


「ええ」薫子は頷いた。「治療を受けても受けなくても、最終的な結果は同じです。ならば、私は質を選びます。量ではなく」


 蒼太は、しばらく沈黙していた。


「それは」蒼太は言った。「あなたらしい選択ですね」


「あなたは、反対しませんか?」


「反対する権利はありません」蒼太は答えた。「これは、あなたの人生です。あなたの選択です」


「でも、あなたの意見は聞きたいです」


 蒼太は、窓の外を見た。


「正直に言えば」蒼太は言った。「一日でも長く、あなたと一緒にいたい。だから、治療を受けてほしいと思います。でも同時に、あなたが自分らしく生きることも大切だと思います。その二つが矛盾するとき、私は……あなたの選択を尊重します」


 薫子は、蒼太に近づいた。


「ありがとう」薫子は言った。「あなたの理解が、何より嬉しいです」


「ただし」蒼太は薫子の手を取った。「条件があります」


「何ですか?」


「残された時間を、一緒に過ごさせてください。あなたが望む形で。やりたいこと、行きたい場所、話したいこと。すべて、一緒に」


 薫子は、微笑んだ。


「それは、私も望むことです」


 薫子の決断は、周囲に波紋を広げた。


 研究室の同僚たちは、治療を受けるよう説得した。しかし、薫子の意志は固かった。


 所長は、休職を勧めた。しかし、薫子は、可能な限り研究を続けることを選んだ。


「私の研究は、まだ途中です」薫子は所長に言った。「完成させることはできないでしょう。でも、次の世代が引き継げる形で、データを整理したいのです」


 所長は、深く頷いた。


「わかりました。ただし、無理はしないでください」


 薫子は、研究ノートの整理を始めた。過去十年間の実験データ、仮説、考察。それらを、誰でも理解できる形で文書化していった。


 それは、彼女の知的遺産だった。肉体は消えても、知識は残る。そう、薫子は自分に言い聞かせた。


 しかし、夜、一人になると、不安が襲ってきた。


 本当にこの選択は正しいのか? もっと生きられるかもしれないのに、治療を拒否することは、自殺に等しいのではないか?


 そんな夜、薫子は蒼太に電話した。


「眠れないの?」蒼太の声は、優しかった。


「ええ。考えてしまうんです。私の選択が、本当に正しいのか」


「正しいかどうかは、わかりません」蒼太は言った。「でも、あなたが真剣に考えて出した結論です。それを信じましょう」


「もし……」薫子は言葉に詰まった。「もし、私が間違っていたら?」


「間違いかどうかは、誰にもわかりません」蒼太は答えた。「人生に、正解はないのです。ただ、選択があるだけです」


「哲学的ですね」


「でも、真実です」蒼太は言った。「薫子、あなたは科学者として、常に最善の選択をしようとしてきました。今回も同じです。データを分析し、論理的に考え、結論を出した。それは、あなたらしい方法です」


「でも、科学では扱えない要素もあります」薫子は言った。「感情、希望、恐怖……」


「それらも、あなたの一部です」蒼太は優しく言った。「すべてを含めて、あなたは決断した。その決断を、私は尊重します。そして、全力で支えます」


 薫子は、電話口で涙を流していた。


「ありがとう」薫子は囁いた。「あなたがいてくれて、本当に良かった」


「私も」蒼太は答えた。「あなたと出会えて、幸せです」


 六月に入り、薫子は「リスト」を作り始めた。


 やりたいことのリスト。行きたい場所のリスト。会いたい人のリスト。


 それは、彼女らしく、整然と分類され、優先順位がつけられていた。


 蒼太が、そのリストを見たとき、笑いながら言った。


「薫子らしいね。死を前にしても、システマティックだ」


「効率的に時間を使いたいのです」薫子は真面目に答えた。


「わかってる」蒼太は微笑んだ。「じゃあ、これを一緒に実現していこう」


 リストの最初の項目は、「父の墓参り」だった。


 二人は、薫子の故郷に向かった。静かな田舎町。薫子が育った場所。


 墓地は、丘の上にあった。父の墓石の前に立ち、薫子は手を合わせた。


「お父さん」薫子は心の中で語りかけた。「私も、もうすぐそちらに行きます。でも、天国があるかどうかは、まだわかりません。もし会えたら、また議論しましょう」


 蒼太は、少し離れたところで、静かに見守っていた。


 墓参りの後、二人は薫子の実家を訪れた。すでに売却され、新しい家族が住んでいた。家の前に立ち、薫子は思い出に浸った。


「ここで、父と医学の本を読みました」薫子は言った。「父は、いつも『なぜ?』を問いかけました。その姿勢が、私を科学者にしました」


「素晴らしいお父様ですね」蒼太が言った。


「ええ」薫子は頷いた。「でも、父に一つだけ言いたいことがあります」


「何ですか?」


「父は、死後の世界を信じませんでした。私もそうです。でも、今になって思います。死後の世界があってほしい、と。そうすれば、また父に会えるから」


 蒼太は、薫子の肩を抱いた。


「会えるかもしれません」蒼太は言った。「形は違うかもしれませんが」


 薫子は、蒼太を見上げた。


「どういう意味ですか?」


「あなたの中に、お父様は生きています」蒼太は説明した。「お父様の教え、価値観、精神。それらは、あなたを通じて、この世界に影響を与え続けています。そして、あなたもまた、私の中に、あなたの同僚の中に、あなたの研究の後継者の中に、生き続けるでしょう」


 薫子は、しばらく考えた。


「それは」薫子は言った。「比喩的な意味での存続ですね」


「比喩でしょうか?」蒼太は問いかけた。「それとも、別の形の現実でしょうか?」


 薫子は、答えなかった。その問いは、彼女にとって、もはや単純な答えのない問いになっていた。


 七月、二人は海に行った。


 リストの二番目の項目、「海を見る」。


 薫子は、海が好きだった。その広大さ、深さ、神秘性。そして、生命の起源である海。


 夏の海は、輝いていた。波が、リズミカルに寄せては返す。


 二人は、砂浜を歩いた。裸足で。波が足元を洗う。


「海は」薫子が言った。「38億年前、生命が誕生した場所です」


「そして」蒼太が続けた。「いつか、生命が還る場所かもしれません」


「どういう意味ですか?」


「私たちの体は、70パーセントが水です」蒼太は説明した。「その水は、かつて海の一部でした。私たちが死んだ後、その水は再び自然に還ります。海に、雨に、川に」


「物質の循環ですね」薫子は言った。


「ええ」蒼太は頷いた。「私たちは、宇宙の物質が、一時的に複雑な形を取ったものです。その形は崩れますが、物質自体は永遠です」


 薫子は、海を見つめた。


「永遠……」薫子は呟いた。「エネルギー保存則によれば、宇宙の総エネルギーは一定です。創造も消滅もしない。ただ、形を変えるだけ」


「その通りです」蒼太は言った。「だから、ある意味で、私たちは不滅なのです」


「でも」薫子は反論した。「『私』という個別の存在は消えます。物質が残っても、意識は消える」


「意識とは何でしょう?」蒼太は問いかけた。「脳の電気信号のパターンでしょうか? それとも、何かもっと根源的なものでしょうか?」


「わかりません」薫子は正直に答えた。「意識の本質は、まだ科学の未解決問題です」


「だから」蒼太は言った。「可能性は開かれています。意識が、単なる脳の機能以上のものである可能性も」


 薫子は、砂浜に座った。蒼太も隣に座った。


 波の音だけが聞こえる。


「もし」薫子が言った。「もし死後も何かが続くとしたら、それは何だと思いますか?」


 蒼太は、水平線を見つめながら答えた。


「わかりません。でも、愛は続くと信じています」


「愛は、神経化学的反応です」薫子は言った。しかし、その声には、以前のような確信がなかった。


「化学反応として説明できます」蒼太は認めた。「でも、化学反応に還元できない何かもあるのではないでしょうか? たとえば、あなたが私を愛する気持ち。私があなたを愛する気持ち。それは、オキシトシンやドーパミンで完全に説明できますか?」


 薫子は、しばらく沈黙した。


「……わかりません」薫子は答えた。「以前なら、『できる』と答えたでしょう。でも今は、確信が持てません」


「確信が持てないことは」蒼太は言った。「悪いことではありません。それは、心が開かれているということです」


 夕陽が、海を赤く染め始めた。


「美しいですね」薫子が言った。


「ええ」蒼太は答えた。「光の散乱現象ですが、それでも美しい」


 薫子は、蒼太を見て微笑んだ。


「あなたは、私の影響を受けましたね」


「そして、あなたは私の影響を受けました」蒼太は答えた。「それが、愛の力です」


 二人は、夕陽が沈むまで、そこに座っていた。


 言葉は少なかった。でも、心は通じ合っていた。


 八月、症状が進行し始めた。


 頭痛の頻度が増えた。時折、めまいがする。視界が、時々ぼやける。


 薫子は、症状を詳細に記録した。科学者として、自分の身体の変化を観察した。


 しかし、それは同時に、恐怖でもあった。


 終わりが、近づいている。


 蒼太は、できる限り薫子と時間を過ごすようにした。研究室に通う薫子を送り迎えし、夜は一緒に過ごした。


「あなたには」薫子が言った。「自分の仕事があるでしょう?」


「今、最も重要な仕事は」蒼太は答えた。「あなたと一緒にいることです」


 薫子は、抗議しようとして、やめた。彼の気持ちを受け入れることも、愛の一部だと気づいたからだ。


 ある夜、二人は蒼太の天文台にいた。


 夏の夜空は、星で満たされていた。天の川が、はっきりと見える。


「ペルセウス座流星群の時期ですね」薫子が言った。


「ええ」蒼太は頷いた。「今夜は、一時間に30から40個の流星が見られるはずです」


 二人は、芝生の上に寝転がった。空を見上げる。


 流れ星が、次々と現れる。一瞬の光。そして消える。


「流れ星」薫子が言った。「塵の粒子が、大気圏に突入して燃え尽きる現象です」


「でも」蒼太が言った。「人々は、願い事をします」


「迷信ですね」


「迷信でしょうか?」蒼太は問いかけた。「それとも、希望の表現でしょうか?」


 また流れ星が現れた。


「願い事、しないの?」蒼太が尋ねた。


「科学者が、流れ星に願い事を?」薫子は笑った。


「今は、科学者である前に、人間でしょう?」


 薫子は、しばらく考えた。


「……何を願えばいいのでしょう?」薫子は尋ねた。「治りたい、と願っても、物理法則は変わりません」


「では、別のことを願えばいいのです」蒼太は言った。


「たとえば?」


「たとえば」蒼太は言った。「あなたの研究が、誰かの役に立つこと。あなたの思い出が、大切な人の心に残ること。そして、あなたが安らかであること」


 薫子は、涙を流していた。


「それは」薫子は言った。「良い願いですね」


 また流れ星が現れた。


 薫子は、心の中で願った。


 蒼太が、幸せでありますように。私がいなくなった後も。


 九月、薫子はついに研究室を離れることにした。


 症状が悪化し、集中力が続かなくなったからだ。


 最後の日、同僚たちが、小さな送別会を開いてくれた。


「先生の研究は」若い研究員が言った。「私たちが必ず引き継ぎます」


「ありがとう」薫子は微笑んだ。「でも、私の研究に縛られないでください。あなたたちの独自の視点で、新しい発見をしてください」


「先生からの最後のアドバイスは?」別の同僚が尋ねた。


 薫子は、少し考えてから答えた。


「好奇心を失わないでください」薫子は言った。「科学は、好奇心から始まります。『なぜ?』と問い続けてください。そして、予想外の答えを恐れないでください」


 帰り道、蒼太が運転する車の中で、薫子は静かに涙を流していた。


「研究室を離れることは」蒼太が言った。「辛いですね」


「ええ」薫子は認めた。「研究は、私の人生でした。それを手放すことは……」


「終わりではありません」蒼太は言った。「あなたの研究は、続きます。別の人の手によって」


「でも、私はそれを見ることができません」


「見る必要はありません」蒼太は優しく言った。「種を蒔いたら、収穫を見なくても、その種は育ちます」


 薫子は、窓の外を見た。秋の気配が、漂い始めていた。


「季節は」薫子が言った。「巡りますね」


「ええ」蒼太は頷いた。「すべては、循環しています」


 家に帰ると、薫子は蒼太に提案した。


「残された時間で」薫子は言った。「一つ、プロジェクトをしたいのです」


「何でしょう?」


「本を書きたいのです」薫子は言った。「私の人生で学んだことを。科学について。人生について。死について」


「素晴らしいアイデアです」蒼太は言った。「手伝いましょう」


「ありがとう」薫子は微笑んだ。「でも、これは私自身が書かなければなりません。私の言葉で」


「わかりました」蒼太は頷いた。「では、私は、あなたが書く環境を整えます」


 その日から、薫子は執筆を始めた。


 ラップトップに向かい、ゆっくりと言葉を紡いでいった。


 科学者としての経験。父との思い出。蒼太との出会い。そして、死に向き合うこと。


 書くことは、薫子にとって、人生を整理する作業だった。


 経験を言葉にすることで、その意味が明確になっていった。


 そして、薫子は気づいた。


 自分が、変わったことに。


 科学者として、彼女は常に客観性を重視してきた。感情を排除し、論理的に思考することを心がけてきた。


 しかし今、彼女は、感情の価値を認めていた。


 愛、悲しみ、恐怖、希望。これらは、単なる化学反応ではなかった。少なくとも、それだけではなかった。


 それらは、人間である意味の一部だった。


 蒼太は、毎日、薫子の様子を見守った。


 薫子が書いているとき、蒼太は静かに本を読んでいた。


 薫子が休憩するとき、蒼太は温かいお茶を淹れた。


 薫子が弱音を吐いたとき、蒼太はただ、そばにいた。


 言葉は必要なかった。


 存在だけで、十分だった。



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