第四章:暗転
薫子と蒼太の関係は、秋から冬にかけて、徐々に深まっていった。
二人は週に一度、会うようになった。時には、蒼太の天文台で星を見ながら。時には、薫子の研究室で、細胞の顕微鏡画像を眺めながら。そして時には、ただ静かなカフェで、コーヒーを飲みながら。
対話は、科学から哲学へ、哲学から人生へと広がっていった。薫子は、徐々に心を開いていった。蒼太の前でだけ、彼女は科学者である以前に、一人の人間として語ることができた。
ある雪の降る夜、蒼太が薫子を自宅に招いた。小さなアパートだったが、壁一面に本棚があり、天文学書から詩集まで、多様な本が並んでいた。
「狭いところですが」蒼太は恥ずかしそうに言った。
「いいえ」薫子は答えた。「落ち着きます」
蒼太が夕食を作ってくれた。シンプルだが、丁寧に作られた料理だった。
「料理は好きなんです」蒼太が説明した。「材料を組み合わせて、新しい味を創造する。実験に似ていますね」
「化学反応ですから」薫子は微笑んだ。「文字通り、実験です」
食後、二人はワインを飲みながら、窓の外の雪を眺めていた。
「雪の結晶」蒼太が言った。「一つ一つが、独自の形を持っている。同じものは二つとない」
「温度と湿度の微妙な違いが」薫子が説明した。「結晶成長のパターンを決定します。初期条件の僅かな差が、大きな違いを生む。カオス理論の好例です」
「カオスの中の秩序」蒼太は頷いた。「あるいは、秩序の中のカオス。この宇宙は、両方を含んでいます」
薫子は、ワインを一口飲んだ。アルコールのせいか、それとも蒼太の存在のせいか、彼女は普段より饒舌になっていた。
「最近」薫子が言った。「あなたと話すことが、楽しみになっています」
蒼太は、嬉しそうに微笑んだ。
「私もです。あなたといると、世界がより鮮明に見えます」
「それは錯覚です」薫子は半ば冗談めかして言った。
「良い錯覚です」蒼太は答えた。
しばらくの沈黙の後、蒼太が口を開いた。
「北条さん……いえ、薫子さん。名前で呼んでもいいですか?」
薫子は、僅かに驚いた。しかし、不快ではなかった。
「ええ。では、私もあなたを蒼太さんと呼びます」
「ありがとうございます」蒼太は言った。「薫子さん、一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「あなたは……誰かと、恋愛したことはありますか?」
直接的な問いだった。薫子は、しばらく沈黙した。
「……ありません」薫子は正直に答えた。「研究に集中していたので。それに、感情的な繋がりを持つことが、苦手でした」
「苦手、ですか」
「ええ」薫子は続けた。「他人の感情を理解することが、難しいんです。相手が何を求めているのか、何を感じているのか。論理的に推測はできますが、直感的には理解できない」
「でも」蒼太が言った。「あなたは、お父様を深く愛していました。それは明らかです」
「父は」薫子は言葉を選んだ。「特別でした。私を理解してくれました。説明しなくても」
「説明しなくても」蒼太は繰り返した。「それが、愛の本質かもしれませんね」
薫子は、蒼太を見つめた。
「あなたは……私を理解していると思いますか?」
蒼太は、真剣な表情で答えた。
「完全には理解できないでしょう。でも、理解しようと努めています。そして、理解できない部分も含めて、あなたを……大切に思っています」
薫子の心臓が、速く打った。これは、何の感情なのか? 緊張? 不安? それとも……
「私は」薫子はゆっくりと言った。「感情を分析することに慣れています。でも、今、自分が何を感じているのか、よくわかりません」
「分析しなくてもいいんです」蒼太は優しく言った。「ただ、感じればいい」
蒼太が、薫子の手に触れた。温かかった。
薫子は、手を引かなかった。
その夜、何かが変わった。言葉では説明できない何かが。
冬から春へ。薫子と蒼太の関係は、恋人のそれへと変わっていった。
薫子にとって、それは全く新しい経験だった。他人と親密になること。弱さを見せること。そして、相手の弱さを受け入れること。
蒼太は、薫子の不器用さを、優しく受け止めてくれた。彼女が感情を言葉にできないとき、沈黙を共有してくれた。彼女が過度に分析的になったとき、穏やかに現在に引き戻してくれた。
薫子もまた、蒼太の夢見がちな性格を、徐々に愛するようになっていった。彼の詩的な言葉遣い。星空を見上げる時の子供のような目。そして、世界に対する尽きることのない驚嘆。
二人は、違いを認めながら、共にいることを学んでいった。
しかし、幸福は長くは続かなかった。
春の終わり、薫子は異変に気づいた。
最初は、軽い疲労感だった。いつもより早く疲れる。階段を上ると息が切れる。単なる過労だと思った。
しかし、症状は悪化していった。頭痛。めまい。時折、視界がぼやける。
科学者として、薫子は症状を記録した。客観的に、自分の身体を観察した。そして、導き出された結論は、楽観的ではなかった。
彼女は病院に行くことにした。蒼太には、まだ何も言わなかった。おそらく、何でもないだろう。そう自分に言い聞かせながら。
検査の結果が出るまで、一週間かかった。その一週間、薫子は平静を装っていた。蒼太と会い、笑い、何事もないかのように振る舞った。
しかし、内心では、不安が膨らんでいた。
検査結果を聞く日、薫子は一人で病院に行った。医師の表情で、すべてがわかった。
「北条さん」医師は静かに言った。「残念ですが、良くない結果です」
MRI画像が、スクリーンに映し出された。薫子は、専門家ではなかったが、その意味するところは理解できた。
「膠芽腫です」医師が説明した。「脳腫瘍の中でも、最も悪性度の高いタイプです。グレードIVに分類されます」
薫子は、冷静に質問した。
「予後は?」
「治療をしても」医師は躊躇いながら言った。「平均生存期間は、12から15ヶ月程度です。ただし、個人差があります」
「治療法は?」
「手術による腫瘍の摘出、その後、放射線療法と化学療法の併用が標準的です。しかし、完治は困難です。腫瘍は、脳組織に浸潤しているため、完全な摘出は不可能です」
薫子は、数字を頭の中で処理していた。12から15ヶ月。一年。もしかしたら、それ以下。
「わかりました」薫子は言った。「治療のスケジュールを組んでください」
医師は、薫子の冷静さに、僅かに驚いたようだった。
「ご家族には?」
「まだ言っていません」薫子は答えた。「自分で整理してから、伝えます」
病院を出ると、春の陽光が眩しかった。街路樹の桜が、満開だった。
薫子は、公園のベンチに座った。
膠芽腫。グレードIV。平均生存期間12から15ヶ月。
数字は明確だった。感情の入る余地はなかった。
しかし、薫子の中で、何かが崩れていった。
彼女は、父の死を冷静に受け入れることができた。なぜなら、それは他人の死だったから。客観的に観察できた。
しかし、自分の死は、違った。
死ぬということ。存在しなくなるということ。意識が消失するということ。
科学者として、薫子はそれを理解していた。死は、生命活動の停止だ。脳の機能が停止し、意識は消える。そこに謎はない。
しかし、理解することと、受け入れることは、違った。
薫子は、初めて、恐怖を感じた。
消滅への恐怖。
蒼太に会えなくなる恐怖。
未完の研究を残す恐怖。
そして、何より、この美しい世界から、去らなければならない恐怖。
薫子は、桜の花びらを見上げた。風に舞う花びら。儚く、美しい。
もののあはれ、という言葉が、心に浮かんだ。蒼太が言っていた言葉だ。
薫子は、涙が頬を伝うのを感じた。
彼女は、初めて、自分の死を、感情として受け止めていた。
どれくらいそこにいたのか、わからなかった。気づくと、夕方になっていた。
薫子は立ち上がった。蒼太に、伝えなければならない。
蒼太のアパートを訪ねると、彼は笑顔で迎えてくれた。
「薫子、どうしたの? 顔色が悪いよ」
薫子は、玄関に立ったまま言った。
「話があります。中に入っていいですか?」
「もちろん」
二人はリビングに座った。蒼太は、薫子の様子が普通でないことに気づいていた。
「何があったの?」
薫子は、直接的に伝えることにした。
「私は、脳腫瘍です。膠芽腫。悪性度の最も高いタイプです」
蒼太の顔から、血の気が引いた。
「それは……どういう……」
「平均余命は、12から15ヶ月です」薫子は、冷静に説明した。「治療をしても、完治は望めません。いずれ、私は死にます」
蒼太は、言葉を失っていた。
「嘘だろう」蒼太は呟いた。「何かの間違いだ。セカンドオピニオンを――」
「すでに確認しました」薫子は遮った。「MRI画像も見ました。誤診の可能性は、ほぼゼロです」
蒼太は、頭を抱えた。
薫子は、彼の反応を、客観的に観察していた。ショック。否認。苦痛。これらは、予想された反応だ。
しかし、その観察は、薫子自身を守るための防御機制でもあった。感情に飲み込まれないための。
「治療は?」蒼太が尋ねた。
「手術、放射線、化学療法」薫子は答えた。「しかし、延命できても、数ヶ月程度です」
「数ヶ月でも」蒼太は言った。「貴重じゃないか」
薫子は、蒼太を見つめた。
「蒼太さん」薫子はゆっくりと言った。「私は、あなたとの時間を大切にしたい。だから、正直に伝えます。私は、おそらく、数ヶ月から一年以内に死にます。それが現実です」
蒼太は、薫子の手を握った。
「一緒に戦おう」蒼太は言った。「諦めないで」
薫子は、首を振った。
「戦うのではなく、受け入れるのです。死は、避けられません。ならば、残された時間を、どう生きるかを考えるべきです」
「でも……」
「蒼太さん」薫子は言った。「あなたは、いつも言っていましたね。死は終わりではない、と。今、私は、それを試す機会を得たのです」
蒼太は、涙を流していた。
「理論と、現実は、違う」蒼太は言った。「愛する人を失うことは、理論では理解できない」
「愛する人」薫子は繰り返した。「あなたは、私を愛していますか?」
蒼太は、薫子を見つめた。
「愛しています」蒼太は言った。「心から」
薫子は、微笑んだ。
「それは、嬉しいです。なぜなら、私もあなたを愛しているからです」
それは、薫子が初めて、自分の感情を、はっきりと言葉にした瞬間だった。
二人は、抱き合った。
蒼太は、薫子の髪に顔を埋めて、泣いた。
薫子は、蒼太の背中をゆっくりと撫でた。
「大丈夫です」薫子は囁いた。「私は、ここにいます。今は」
その夜、二人は、ただ抱き合っていた。
言葉は不要だった。
存在だけで、十分だった。




