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【死生観恋愛短編小説】星屑の記憶、対話する宇宙 ~ある科学者と天文学者の愛と死~  作者: 霧崎薫


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第三章:共鳴

 天文台での夜から二週間後、薫子の研究室に一通のメールが届いた。送り主は森川蒼太だった。


『北条先生


先日はお越しいただき、ありがとうございました。あなたとの対話は、私にとって非常に刺激的でした。


来週、国立科学博物館で「宇宙と生命」展が開催されます。もしお時間があれば、ご一緒しませんか? 科学者同士の視点から、展示を批評するのも面白いかと思います。


お返事をお待ちしています。


森川蒼太』


 薫子は、すぐに返信しようとして、やめた。なぜ自分は、この招待を受けたくなっているのか? それは純粋な知的好奇心なのか? それとも、何か別の理由があるのか?


 薫子は、感情を分析することに慣れていなかった。科学者として、彼女は客観的データを扱うことには長けていた。しかし、自分自身の内面を観察することは、別の種類の困難さがあった。


 結局、薫子は翌日、肯定的な返事を送った。それは、知的交流の機会だと自分に言い聞かせながら。


 約束の日、薫子は博物館の入口で蒼太を見つけた。彼は、カジュアルなジャケットに、薄手のタートルネックを合わせていた。どこか芸術家のような雰囲気があった。


「来てくださって嬉しいです」蒼太が微笑んだ。


 二人は展示室に入った。最初の部屋は、宇宙の誕生を扱っていた。ビッグバンのシミュレーション映像が、大きなスクリーンに映し出されている。


「138億年前」蒼太が呟いた。「無から、時間と空間が生まれた。いや、『無』という言葉も正確ではありませんね。『無』の前には、時間も空間もないのだから、『前』という概念自体が成立しない」


「量子ゆらぎから」薫子が説明した。「真空のエネルギーが一時的に物質に転換され、インフレーション理論によって急速に膨張した。それが宇宙の始まりです」


「でも」蒼太が問いかけた。「なぜ、何もないところから何かが生まれるのでしょう? 『量子ゆらぎ』という言葉で説明できますが、それは『なぜ』の答えではなく、『どのように』の説明です」


「科学は『どのように』を説明します」薫子は答えた。「『なぜ』は、哲学の領域です」


「では、哲学は必要だと認めるのですね?」蒼太は微笑んだ。


 薫子は、僅かに口角を上げた。それは、彼女なりのユーモアの表現だった。


 次の展示は、星の一生を扱っていた。恒星の誕生、主系列星の安定期、赤色巨星への進化、そして超新星爆発または白色矮星への静かな終焉。


「星にも『死』があります」蒼太が言った。「しかし、その死は無駄ではありません。超新星爆発で放出された重元素が、次世代の星と惑星を形成する。死と誕生が、循環している」


「それは物質の循環です」薫子は指摘した。「星自身が『生き返る』わけではありません」


「生き返りはしませんが」蒼太は続けた。「その本質――重元素という遺産――は、次世代に受け継がれます。これは、生命の世代交代と似ていませんか? 私たちも、遺伝子を通じて、次世代に情報を受け渡します」


 薫子は、この類推に興味を覚えた。


「確かに、類似はあります。しかし、遺伝子は能動的に複製されます。星の物質循環は、受動的なプロセスです」


「本当に受動的でしょうか?」蒼太は問いかけた。「物理法則が、そのように作用するように『設定』されている。重力が物質を集め、核融合を始動させ、超新星で拡散させる。この精緻なプロセスが、偶然だとは思えません」


「偶然ではなく、必然です」薫子は反論した。「物理法則の帰結として、必然的にそうなります」


「では、物理法則そのものは、なぜその形をしているのでしょう?」


 薫子は答えなかった。それは、彼女も答えを持っていない問いだった。


 二人は、生命の起源を扱った展示に移った。原始地球の海で、アミノ酸が形成され、RNAが自己複製を始め、やがて細胞が誕生する過程が、詳細に説明されていた。


「生命の定義は難しいですね」蒼太が言った。「自己複製、代謝、進化。これらの条件を満たせば生命でしょうか? でも、コンピュータウイルスも自己複製します。火も代謝に似たプロセスを持ちます。では、それらは生命でしょうか?」


「生命の定義は、確かに曖昧です」薫子は認めた。「しかし、実用的な定義は可能です。炭素ベースの、自己組織化する、情報を保持・伝達するシステム」


「情報」蒼太は繰り返した。「興味深い言葉です。DNAは情報を保存します。でも、その情報は、どこから来たのでしょう?」


「進化の過程で蓄積されました」薫子は答えた。「ランダムな変異と、自然選択の繰り返しによって」


「ランダムな変異」蒼太は頷いた。「しかし、その『ランダム』から、驚くほど複雑で精緻なシステムが生まれた。人間の目、脳、免疫システム。これらが、盲目的なプロセスから生まれたとは、驚異的です」


「驚異的ですが、不可能ではありません」薫子は強調した。「38億年という時間があれば、十分可能です」


「時間」蒼太は呟いた。「時間は、すべてを可能にする魔法でしょうか? 十分な時間があれば、猿がタイプライターを叩いて、シェイクスピアの全作品を書けるでしょうか?」


「それは誤った類推です」薫子は反論した。「進化は、完全にランダムではありません。自然選択という方向性があります。有利な変異は保存され、不利な変異は淘汰される。このフィードバックが、複雑性を蓄積させます」


「なるほど」蒼太は納得したように頷いた。「しかし、『有利』という概念自体、興味深いですね。何に対して有利なのか? 生存と繁殖に対して。では、なぜ生命は、生存と繁殖を『目指す』のでしょう?」


「目指すわけではありません」薫子は説明した。「生存と繁殖をしないシステムは、淘汰されて消えます。だから、今存在しているのは、生存と繁殖をするシステムだけです。目的論的説明は不要です」


「目的論を排除することは、科学的に正しいです」蒼太は認めた。「しかし、人間として生きるとき、私たちは目的を求めます。私は何のために生きているのか? この問いに、進化論は答えを与えません」


「与える必要がありません」薫子は答えた。「それは、各個人が決めることです」


「では、あなたは、何のために生きていますか?」


 蒼太の問いは、唐突だった。薫子は、一瞬答えに窮した。


「……真理を探求するため」薫子は言った。「生命の仕組みを解明するため」


「それは、あなたの目的ですね」蒼太は微笑んだ。「進化論は、その目的を説明しません。あなた自身が、意味を創造している」


 薫子は、この議論が、予想外の方向に進んでいることに気づいた。


「意味は」薫子は慎重に言葉を選んだ。「主観的に創造されるものです。客観的に存在するものではありません」


「同意します」蒼太は頷いた。「でも、主観的に創造された意味も、その人にとっては真実です。あなたが研究に意味を見出すように、誰かが信仰に意味を見出すこともある。どちらも、人間の実存の一部です」


 薫子は、反論しかけて、やめた。蒼太の言葉には、ある種の説得力があった。


 二人は、展示室を抜けて、博物館のカフェテリアに入った。窓際の席に座り、コーヒーを注文した。


「あなたは」薫子が尋ねた。「なぜ天文学者になったのですか?」


 蒼太は少し考えてから答えた。


「子供の頃、父に連れられて、田舎の祖父母の家に行きました。そこで初めて、本物の星空を見ました。圧倒されました。この無限に広がる宇宙の中で、自分は何と小さな存在なのか。でも同時に、この宇宙を理解しようとする知性を持っている。その矛盾が、神秘的に思えました」


「謙虚さと傲慢さの共存」薫子は呟いた。


「そうですね」蒼太は微笑んだ。「人間は、宇宙からすれば塵のような存在です。でも、その塵が、宇宙全体を理解しようとしている。これは、驚くべきことではないでしょうか?」


「驚くべきことです」薫子は認めた。「しかし、神秘的ではありません。知性は、進化の産物です」


「進化が、なぜ知性を生み出したのでしょう?」蒼太は問いかけた。「生存と繁殖だけなら、知性は不要です。細菌は、知性なしに38億年生き延びています。なぜ進化は、宇宙を理解しようとする知性を生み出したのか?」


「大脳の発達は」薫子は説明した。「道具の使用、社会性、言語能力と連動しています。これらは、生存に有利でした」


「でも、それらは説明しません。なぜ人間は、生存に直接関係ない、抽象的な問いを追求するのか。数学、哲学、芸術、音楽。これらは、繁殖成功率を高めません。なのに、人間はそれらに情熱を注ぎます」


「副産物です」薫子は答えた。「高度な認知能力の副産物として、抽象的思考が可能になりました」


「副産物」蒼太は繰り返した。「では、ベートーベンの交響曲も、ミケランジェロの彫刻も、アインシュタインの相対性理論も、すべて『副産物』ですか?」


 薫子は、この問いに、すぐには答えられなかった。


「進化的起源と、文化的価値は、別の次元です」薫子は言った。「ベートーベンの音楽は、進化の副産物として生まれたかもしれません。しかし、その価値は、人間文化の中で評価されます」


「そうですね」蒼太は同意した。「でも、その『価値』はどこから来るのでしょう? なぜ私たちは、美を求め、真理を求め、意味を求めるのか? それもまた、進化で説明できますか?」


「説明できます」薫子は答えた。「しかし、説明が複雑になります。美的感覚は、環境認識能力と関連しています。真理の探求は、パターン認識能力の延長です。意味の探求は、社会的存在としての人間の特性です」


「すべて、還元できる、ということですね」蒼太は静かに言った。


「ええ」薫子は頷いた。「原理的には」


「でも」蒼太は続けた。「還元できることと、還元すべきことは、違うのではないでしょうか?」


 薫子は、蒼太を見つめた。


「どういう意味ですか?」


「たとえば」蒼太は説明した。「あなたが誰かを愛するとき、その愛を、神経化学的反応として分析できます。でも、その分析は、愛の経験を豊かにしますか? むしろ、何か大切なものを失うのではないでしょうか?」


「失いません」薫子は反論した。「理解することは、経験を損なわない。むしろ、深めます」


「本当にそうでしょうか?」蒼太は優しく問いかけた。「では、あなたは、美しい夕焼けを見たとき、光の散乱現象として分析しますか? それとも、ただ美しさを感じますか?」


「両方です」薫子は答えた。「矛盾しません」


「矛盾しないかもしれません」蒼太は認めた。「でも、分析的視点が、直接的経験を阻害することもあります。時には、ただ感じることも大切ではないでしょうか?」


 薫子は、コーヒーを一口飲んだ。蒼太の言葉は、彼女の防御を、徐々に崩していた。


「あなたは」薫子が言った。「いつもこんな風に、相手を揺さぶるのですか?」


 蒼太は驚いたような顔をした。


「揺さぶっているつもりはありません。ただ、対話しているだけです」


「対話は、時に、揺さぶりになります」


「それは」蒼太は微笑んだ。「良いことではないでしょうか? 揺さぶられることで、新しい視点が見えてくる」


 薫子は、自分が微笑んでいることに気づいた。それは、彼女にとって珍しいことだった。


 二人は、博物館を出て、近くの公園を歩いた。晩秋の公園は、落ち葉で覆われていた。銀杏の黄色、楓の赤、欅の茶色。


「季節の移ろい」蒼太が言った。「これも、天文学的現象ですね。地球の地軸が傾いているため、太陽光の入射角が変化する」


「そして、その変化に適応して」薫子が続けた。「植物は落葉し、動物は冬眠の準備をする。すべて、生化学的・生理学的プロセスです」


「でも」蒼太は言った。「私たちは、それを詩として感じます。『もののあはれ』『無常』。科学的説明を超えた、何か深い感情を」


「それは、文化的学習です」薫子は説明した。「日本文化の中で、季節の移ろいに情緒的意味が付与されている」


「では、文化のない人間は、季節の美しさを感じないのでしょうか?」


 薫子は答えに詰まった。


「……感じるでしょう」薫子は認めた。「しかし、それは進化的に獲得された、環境変化への感受性です」


「進化的に獲得された感受性」蒼太は繰り返した。「それは、つまり、人間の本質的特性ということですね。なぜ進化は、美を感じる能力を与えたのでしょう?」


「適応的価値があったからです」


「では、現代において、紅葉の美しさを感じることに、どんな適応的価値がありますか?」


 薫子は、しばらく沈黙した。


「……わかりません」薫子は正直に答えた。「おそらく、副産物でしょう。視覚認識能力の副産物として、色彩の変化に情緒的反応を示す」


「副産物」蒼太は静かに言った。「あなたは、人間の最も美しい特性を、すべて『副産物』と呼びますね」


「それが科学的説明です」薫子は答えた。「感傷的に美化する必要はありません」


「美化ではなく」蒼太は言った。「認識です。人間の特性を、その価値において認識する」


 二人は、公園のベンチに座った。夕陽が木々の間から差し込み、落ち葉を黄金色に照らしていた。


「あなたは」蒼太が尋ねた。「幸せですか?」


 唐突な問いだった。薫子は、しばらく考えてから答えた。


「幸せの定義による」薫子は言った。「もし、充実感と達成感を幸せと呼ぶなら、私は幸せです。研究は順調で、キャリアも安定しています」


「でも、それだけでしょうか?」蒼太は優しく問いかけた。「人間的な繋がりは? 愛は? 友情は?」


 薫子は、この問いが、彼女の痛い部分に触れていることに気づいた。


「人間関係は」薫子はゆっくりと言った。「複雑で、非効率的です。研究に集中する方が、生産的です」


「生産性」蒼太は繰り返した。「でも、人生は、生産性で測れるでしょうか?」


「では、何で測るのですか?」


「測る必要があるでしょうか?」蒼太は微笑んだ。「人生は、測定されるものではなく、経験されるものではないでしょうか」


 薫子は、返答に窮した。


「あなたは、いつもこんな風に、哲学的なことを言うのですか?」


「哲学的ではなく」蒼太は言った。「ただ、誠実であろうとしているだけです。あなたも、誠実な人です。だから、対話が成立する」


 薫子は、蒼太を見つめた。この男は、不思議な魅力を持っていた。それは、外見的な魅力ではなく、内面的な何かだった。彼の誠実さ、開放性、そして、世界に対する敬意。


「私は」薫子が言った。「あなたのような人と、もっと話したいと思います」


 蒼太は、驚いたような、そして嬉しそうな表情をした。


「それは、私にとって最高の賛辞です」


 夕陽が沈み始めた。空は、オレンジからピンクへ、そして紫へと変わっていった。


「光の散乱」薫子が呟いた。「レイリー散乱により、短波長の青い光が拡散され、長波長の赤い光が直接届く」


「でも」蒼太が付け加えた。「それでも美しい」


 薫子は、頷いた。


「ええ。美しいです」


 それは、薫子が、科学的説明と美的経験を、同時に認めた瞬間だった。


 その夜、薫子は自宅で、蒼太との会話を反芻していた。彼との対話は、いつも予想外の方向に進む。そして、彼女の確信を揺さぶる。


 しかし、不快ではなかった。むしろ、刺激的だった。


 薫子は、自分が変化しつつあることに気づいていた。蒼太と出会う前、彼女の世界は、明確で、秩序立っていた。科学的世界観が、すべてを説明していた。


 しかし今、その世界観に、小さな亀裂が入り始めていた。説明できることと、理解することの違い。還元できることと、還元すべきことの違い。客観的真理と、主観的意味の違い。


 これらの問いに、薫子はまだ答えを持っていなかった。


 そして、もう一つの変化。薫子は、蒼太に惹かれ始めていた。それは、知的好奇心なのか? それとも、何か別の感情なのか?


 薫子は、自分の感情を分析しようとして、やめた。時には、ただ感じることも大切かもしれない。蒼太の言葉が、心に響いた。


 その夜、薫子は、久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。



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