第二章:対話
一週間後、薫子は蒼太の招待を受けることにした。それは純粋に知的好奇心からだと、自分に言い聞かせていた。
蒼太が勤める天文台は、都心から車で二時間ほどの山間部にあった。十月の終わり、山の木々は紅葉の盛りで、夕陽に照らされて燃えるような赤に染まっていた。
「よく来てくださいました」
天文台の入口で、蒼太が出迎えた。カジュアルなセーターとジーンズ姿で、学会で見たときより親しみやすい印象だった。
「まだ日没まで時間がありますから、まずは天文台を案内しましょう」
建物の中は、思ったより質素だった。最先端の観測機器が並ぶ一方で、壁には手書きのメモや、古びた星図が貼られている。科学と情熱が混在した空間だった。
「これが、私たちのメイン望遠鏡です」
蒼太が案内したのは、ドーム型の観測室だった。巨大な反射望遠鏡が、天井の開口部に向けて据えられている。
「口径八メートル。暗黒物質の観測に使っています」蒼太は説明した。「宇宙の85パーセントは、私たちが見ることも触れることもできない暗黒物質で構成されています。目に見えない何かが、宇宙の構造を支配している。不思議だと思いませんか?」
「不思議ではありません」薫子は答えた。「まだ観測方法が確立されていないだけです。いずれ、その正体は解明されます」
「そうですね」蒼太は微笑んだ。「でも、『見えないものの存在を信じる』という点では、科学も信仰も似ているかもしれません」
「全く違います」薫子は即座に反論した。「暗黒物質の存在は、銀河の回転速度や重力レンズ効果から推測されます。観測可能な証拠に基づいています」
「その通りです」蒼太は頷いた。「でも、直接見たわけではない。間接的な証拠から、その存在を推論している。それは、ある種の『信じる』行為ではないでしょうか?」
「推論と信仰は違います」
「どう違うのですか?」
薫子は少し考えた。
「推論は、反証可能です。もし観測結果が暗黒物質仮説と矛盾すれば、私たちはその仮説を修正するか、破棄します。信仰は、反証を受け入れません」
「なるほど」蒼太は納得したように頷いた。「では、もし神の存在を反証可能な仮説として扱えば、それは科学になりますか?」
「神は定義上、反証不可能です。だから科学の対象にはなりません」
「でも」蒼太は続けた。「もし神が、物理法則として宇宙に刻まれているとしたら? たとえば、宇宙の基本定数――光速、重力定数、プランク定数など――が、ほんの僅かでも異なっていたら、原子も星も生命も存在できません。この精密な調整を、偶然だと考えますか?」
「人間原理です」薫子は答えた。「私たちが観測できる宇宙は、生命が存在できる条件を満たしている。なぜなら、そうでない宇宙では、観測者が存在しないからです。循環論法のように見えますが、論理的に正しい説明です」
「それは説明でしょうか? それとも、問いの言い換えでしょうか?」
薫子は答えに詰まった。蒼太の問いは、常に本質を突いていた。
「もう少し歩きましょう」蒼太が言った。「外の空気を吸いながらの方が、話しやすいかもしれません」
二人は天文台の裏手の森の中を歩いた。夕陽が木々の間から差し込み、落ち葉を黄金色に染めている。
「北条先生は」蒼太が尋ねた。「なぜ科学者になったのですか?」
「父の影響です」薫子は答えた。「父は町医者でした。医学は応用科学ですが、父は常に『なぜ?』を問い続けました。病気のメカニズム、治療の根拠、生命の仕組み。父から学んだのは、盲目的に受け入れるのではなく、理解しようとする姿勢です」
「素晴らしいお父様ですね」
「ええ。でも、父は宗教を信じませんでした。幼い頃、私が『神様はいるの?』と聞いたとき、父は言いました。『神様を信じる人はいる。でも、神様が存在するかどうかは、誰も証明できない。大切なのは、どう生きるかだ』と」
「賢明な方ですね」
「だから」薫子は続けた。「父が亡くなったとき、親戚の一人が『無宗教だから天国に行けない』と言ったことが、許せませんでした。父は誰よりも誠実に生き、患者のために尽くしました。それで十分なはずです。なのに、特定の教義を信じなかったという理由だけで、死後の平安を否定されるなんて」
蒼太は静かに歩きながら聞いていた。
「その気持ちは、わかります」蒼太が言った。「私の父も、牧師として多くの人を導きました。でも、父が本当に天国にいるかどうか、私にはわかりません。わかりませんが、父が幸せであってほしいと願っています」
「それは希望であって、現実ではありません」
「希望と現実は、そんなに離れているでしょうか?」蒼太は立ち止まって、薫子を見た。「私たちが抱く希望が、私たちの現実を形作ることもあります。たとえば、あなたが研究を続けるのは、老化のメカニズムを解明したいという希望があるからでしょう? その希望が、あなたの日々の行動を決め、結果として現実を変えていく」
「それは、目標達成のための動機づけです。死後の世界への希望とは違います」
「本質的には同じかもしれません」蒼太は歩き出した。「未来への希望が、現在を意味あるものにする。それが人間の特性です」
森を抜けると、開けた丘の上に出た。そこからは、遠くの山々と、眼下に広がる街の灯が見えた。空はすでに藍色に染まり始め、最初の星が瞬いていた。
「もうすぐ、本当の星空が見えます」蒼太が言った。「今日は新月で、空気も澄んでいる。最高の観測日和です」
二人は丘の上に腰を下ろした。蒼太が魔法瓶から温かいココアを注いでくれた。
「父の死後」薫子が静かに語り始めた。「私は葬儀のあり方について考えました。無宗教葬でしたが、それでも形式的な儀礼はありました。焼香、黙祷、献花。でも、それらに意味を感じられませんでした。父はすでにいない。残っているのは、私たちの記憶だけです」
「記憶は、重要ですね」
「でも」薫子は続けた。「記憶も、やがて失われます。私が死ねば、父を直接知る人間はいなくなります。そして誰も父を覚えていない時、父は完全に消滅します。二度死ぬのです」
「だからこそ」蒼太が言った。「人間は物語を語り継ぐのではないでしょうか。死者の記憶を、次の世代に伝えるために」
「それは、情報の保存です。でも、父そのものは戻りません」
「戻らないかもしれません。でも、影響は残ります。あなたのお父様が患者を治療したこと。あなたに科学的精神を教えたこと。それらは、連鎖反応のように広がっていきます。助けられた患者は、また誰かを助ける。あなたは、研究を通じて未来の人々を助ける。その連鎖は、果てしなく続きます」
薫子は黙っていた。蒼太の言葉は、感傷的に聞こえた。しかし、完全に否定することもできなかった。
「因果の連鎖」薫子が言った。「それは認めます。でも、それは物理的・社会的プロセスです。父の『魂』が存続しているわけではありません」
「魂とは何でしょう?」蒼太が問いかけた。「もし魂を、その人の本質――思考、感情、価値観、影響力――と定義するなら、それは確かに存続しているのではないでしょうか? 形を変えて、私たちの中に」
「それは比喩です。文学的表現であって、事実ではありません」
「事実とは何でしょう?」蒼太は空を見上げた。「あの星々を見てください。あれらの光は、何百年、何千年、何万年も前に放たれたものです。つまり、私たちが見ている星は、すでに死んでいるかもしれません。でも、その光は今も私たちに届いている。死んだ星が、今も輝いている。これは比喩でしょうか? それとも事実でしょうか?」
薫子は夜空を見上げた。天の川が、白い帯となって空を横切っていた。都会では決して見られない、圧倒的な星空だった。
「物理的には」薫子が言った。「それは単に、光が有限の速度で伝播するという事実を示しているだけです。感傷的な意味はありません」
「感傷的」蒼太は繰り返した。「あなたは、その言葉をよく使いますね。でも、感情を持つことは、人間の本質的な特性です。感情を否定することは、人間性の一部を否定することではないでしょうか?」
「感情を持つことと、感情に従うことは違います」薫子は反論した。「私は感情を持っています。でも、それに判断を曇らせられません」
「判断が曇る、という表現は興味深いですね」蒼太は微笑んだ。「まるで感情が、真実を覆い隠す霧であるかのような。でも、感情こそが、時に真実を明らかにすることもあります」
「どういう意味ですか?」
「たとえば」蒼太は説明した。「あなたがお父様の死を悲しむ感情。それは、あなたとお父様の絆が本物だったことを示しています。もしその感情がなければ、その絆も存在しなかったでしょう。感情は、ある種の真実の証人なのです」
薫子は答えなかった。蒼太の論理には、認めたくないが、ある種の説得力があった。
「星を見ると」蒼太が続けた。「私は謙虚になります。この宇宙は、138億年前のビッグバンから始まりました。最初の星が生まれたのは、その数億年後。星は核融合で重い元素を作り、超新星爆発でそれをばら撒きました。その星屑から、新しい星が生まれ、惑星が生まれ、その一つで生命が誕生しました。私たちは、文字通り、星の子供なのです」
「それは詩的表現ですが、科学的にも正しいですね」薫子は認めた。「私たちの体を構成する炭素、窒素、酸素、すべて星の核融合で作られました」
「ええ」蒼太は頷いた。「だから私は、この宇宙の物語に、何か深い意味を感じずにはいられません。偶然の積み重ねだけで、これほど精緻なプロセスが実現するのでしょうか?」
「確率は低いですが、ゼロではありません」薫子は答えた。「そして、観測可能な宇宙には、2000億以上の銀河があり、各銀河には数千億の恒星があります。その中の一つで生命が誕生することは、統計的に不思議ではありません」
「統計的には、そうかもしれません」蒼太は認めた。「でも、その『偶然』の連鎖の末に、私たちがここにいて、こうして対話している。それ自体が、奇跡的ではないでしょうか?」
「奇跡ではありません。必然的な結果です」
「必然と偶然」蒼太は呟いた。「量子力学では、根本的な不確定性があります。電子の位置と運動量を同時に正確に知ることはできない。素粒子の振る舞いは、本質的に確率的です。つまり、宇宙の根底には、予測不可能性が組み込まれている。それでも、あなたはすべてが必然だと言いますか?」
薫子は、この問いに真剣に向き合った。
「量子レベルの不確定性は認めます。しかし、マクロなレベルでは、統計的法則が支配します。個々の事象は予測できなくても、全体の傾向は予測可能です」
「それは正しいです」蒼太は同意した。「でも、カオス理論が示すように、初期条件の僅かな違いが、指数関数的に増幅されることもあります。蝶の羽ばたきが、地球の反対側で嵐を起こす。決定論的システムでも、実質的に予測不可能になる。この宇宙は、決定論と偶然性の、微妙なバランスの上に成り立っているのではないでしょうか?」
薫子は、蒼太の博識に、僅かな敬意を抱き始めていた。多くの信仰者は、科学を無視するか誤解している。しかし蒼太は、科学を深く理解した上で、その限界を指摘している。
「あなたは」薫子が尋ねた。「科学と信仰の間で、矛盾を感じませんか?」
「矛盾は感じません」蒼太は答えた。「なぜなら、私が信じているのは、特定の教義ではないからです。私はただ、この宇宙の美しさと複雑さの背後に、何か大いなるものを感じる。それを『神』と呼ぶかどうかは、重要ではありません。アインシュタインは『宇宙の神秘を理解しようとすること自体が、宗教的経験だ』と言いました。私も同じように感じます」
「アインシュタインは、人格神を信じていませんでした」薫子は指摘した。
「その通りです」蒼太は認めた。「彼は、スピノザの神――自然そのものと同一視される神――に近い考えを持っていました。私も同じです。私が感じる『大いなるもの』は、人格を持った存在ではありません。むしろ、この宇宙を貫く秩序、美しさ、調和そのものです」
「それは、物理法則への美的感応です。神秘主義ではありません」
「言葉の問題ですね」蒼太は微笑んだ。「でも、あなたも、科学の美しさを感じるでしょう? DNAの二重螺旋構造の優美さ。細胞分裂の精密さ。進化の創造性。それらを見たとき、純粋に機械的なプロセスだとだけ思いますか?」
薫子は、正直に答えることにした。
「……美しいと思います。でも、それは人間の認知が作り出した感覚です。自然そのものに、美は内在していません」
「本当にそうでしょうか?」蒼太は問いかけた。「では、なぜ自然法則は、数学的に美しい形で表現されるのでしょう? マクスウェル方程式の対称性。一般相対性理論の幾何学的優雅さ。量子力学のエレガントな構造。これらは、人間が後から当てはめたものではありません。自然そのものが、数学的に美しい形で存在している。それは、偶然でしょうか?」
「数学的に美しい理論が正しいのは」薫子は答えた。「美しさが真理の指標だからではなく、単純で統一的な理論ほど、多くの現象を説明できるからです。オッカムの剃刀の原理です」
「それも正しいです」蒼太は頷いた。「でも、なぜ自然は、単純な法則に従うのでしょう? 複雑で、不規則で、カオティックな宇宙だって、論理的には可能なはずです。なのに、私たちの宇宙は、驚くほど秩序立っている。その秩序の起源は、何でしょう?」
「それは」薫子は考えながら答えた。「おそらく、人間原理と自然選択の組み合わせです。秩序のない宇宙では、知的生命は進化できません。だから、私たちが観測するのは、必然的に秩序ある宇宙です」
「循環論法のようにも聞こえますね」蒼太は優しく指摘した。
薫子は反論しかけて、やめた。この議論は、終わりがないように思えた。
二人は しばらく黙って、星空を見上げていた。天の川の輝きが、圧倒的な存在感で迫ってくる。何千億もの星々。その一つ一つが、太陽のような巨大な核融合炉。そして、その周りには、無数の惑星が回っているかもしれない。
「あの星々の中に」蒼太が静かに言った。「私たちのような生命がいるでしょうか?」
「確率的には、ほぼ確実にいるでしょう」薫子は答えた。「ドレイク方程式で推定すれば、この銀河だけでも、数万から数百万の知的文明が存在する可能性があります」
「では、彼らもまた、私たちのように、死について考えているでしょうか? 死後の世界を想像しているでしょうか?」
「おそらく」薫子は認めた。「自己意識を持つ生命は、必然的に死の認識を持ちます。そして、死への恐怖を和らげるために、何らかの物語を作り出すでしょう」
「物語」蒼太は繰り返した。「あなたは、死後の世界を『物語』だと言いますね。でも、科学もまた、ある種の物語ではないでしょうか? 観測された事実を、首尾一貫した物語として組み立てる」
「科学は検証可能な物語です」薫子は強調した。「宗教的物語とは本質的に異なります」
「検証可能性」蒼太は頷いた。「それは重要な違いですね。でも、カール・ポパーも指摘したように、科学理論は決して証明されません。ただ、反証されないだけです。つまり、科学もまた、暫定的な物語なのです」
「暫定的ですが、それが最も信頼できる方法です」
「同意します」蒼太は言った。「でも、人生のすべてが、科学的方法で扱えるわけではありません。愛、美、意味、目的。これらは、科学の範疇を超えています」
「超えていません」薫子は反論した。「それらも、脳の機能として説明できます」
「説明できることと、理解することは、違うのではないでしょうか?」蒼太は優しく問いかけた。「あなたは、ベートーベンの交響曲第九番を聴いたとき、その美しさを、脳内の電気信号として理解しますか? それとも、何か別の レベルで、その音楽に感動しますか?」
薫子は答えに詰まった。確かに、音楽を聴くとき、神経科学的説明を考えてはいない。ただ、感じている。
「感じることと、理解することは、両立します」薫子は言った。「私は音楽に感動しますが、その感動が神経化学的プロセスであることも知っています。矛盾はありません」
「矛盾はないかもしれません」蒼太は認めた。「でも、神経化学的説明は、音楽の美しさそのものを説明しません。なぜその特定の音の配列が美しいのか。なぜ人間は、生存に直接関係ない音楽や芸術を創造するのか。それは、謎です」
「進化心理学で説明できます」薫子は答えた。「音楽は、社会的結束を強化する適応的機能を持っています」
「それも一つの説明です」蒼太は頷いた。「でも、モーツァルトが交響曲を作曲したのは、社会的結束のためでしょうか? 彼は、何か別のものを追求していたのではないでしょうか? 説明できない何かを」
夜は更けていった。薫子は、蒼太との対話が、予想以上に刺激的であることに気づいていた。彼の問いは、常に薫子の確信を揺さぶった。しかし、不快ではなかった。むしろ、久しぶりに、本質的な問いと向き合っている気がした。
「そろそろ、望遠鏡で観測しましょうか」蒼太が立ち上がった。「言葉だけでなく、実際に星を見ることも大切です」
二人は天文台に戻った。蒼太が望遠鏡を操作し、ある星雲に焦点を合わせた。
「覗いてみてください」
薫子が接眼レンズを覗くと、そこには、言葉を失うほど美しい光景が広がっていた。オリオン大星雲。赤とオレンジと青の雲が、複雑に絡み合い、新しい星々が誕生しつつある。
「これは、約1500光年彼方にあります」蒼太が説明した。「つまり、私たちが見ているのは、1500年前の光景です。今、この瞬間、この星雲がどうなっているかは、わかりません」
「時間差による観測上の制約です」薫子は言ったが、その声には、僅かな驚嘆が含まれていた。
「そして」蒼太は続けた。「この星雲から生まれる星々の周りには、やがて惑星が形成されるでしょう。そして、その惑星のどれかで、生命が誕生するかもしれません。何億年、何十億年後に」
「可能性はあります」
「その生命たちもまた、いつか死にます」蒼太は静かに言った。「そして、彼らもまた、死後の世界を夢見るでしょう。宇宙のどこでも、生命は、死を超えた何かを求めるのではないでしょうか」
「それは」薫子は答えた。「死への恐怖が、知的生命の普遍的特性だからです。進化的に不可避です」
「では、その恐怖に対処するために作り出された物語は」蒼太は問いかけた。「ただの幻想でしょうか? それとも、何か深い真実を示唆しているでしょうか?」
薫子は、接眼レンズから目を離して、蒼太を見た。暗い観測室の中で、蒼太の顔は、計器の淡い光に照らされていた。その表情は、穏やかで、しかし真剣だった。
「わかりません」薫子は、自分でも意外なほど正直に答えた。「確かなことは、わかりません」
蒼太は微笑んだ。
「それで十分です。『わからない』と言えることは、知的誠実さの証です」
その夜、薫子は天文台のゲストルームに泊まることにした。帰りの電車の時間を逃してしまったのだ。
ベッドに横たわりながら、薫子は今日の対話を反芻していた。蒼太との議論は、彼女の確信を揺るがした。しかし、それは不快ではなかった。むしろ、久しぶりに、知的に刺激される経験だった。
父が生きていたら、蒼太のことをどう思うだろう? おそらく、興味深い人物だと評価するだろう。父は、異なる視点を尊重する人だった。
薫子は、蒼太の言葉を思い出していた。「大切な人は、私たちの中で生き続ける」
それは感傷的な表現だ。しかし、完全に間違っているとも言えない。確かに、父の教えは、薫子の中に生きている。父の価値観は、薫子の判断基準となっている。それは、ある種の「存続」ではないか?
いや、違う。それは記憶と影響の継続であって、父自身の存続ではない。
しかし、では「父自身」とは何か? 肉体? それは灰になった。意識? それは消失した。では、父の本質とは?
薫子は、答えの出ない問いを抱えたまま、眠りに落ちていった。




