第一章:邂逅
秋の陽光が、ガラス張りの国際会議場のロビーに差し込んでいた。薫子は手にしたコーヒーカップを見つめながら、これから始まるシンポジウムのプログラムに目を通していた。
「生命倫理と科学哲学の境界」というテーマは、彼女の専門である分子生物学とも深く関わる。三十二歳になった今、薫子は国立研究所の主任研究員として、細胞の老化メカニズムの解明に取り組んでいた。生命とは何か。死とは何か。それらは彼女にとって、感情的な問いではなく、解明すべき科学的命題だった。
「北条薫子先生でいらっしゃいますか?」
振り返ると、背の高い男性が立っていた。三十代半ばだろうか。深い茶色の瞳と、どこか夢見るような表情が印象的だった。
「はい、そうですが」
「初めまして。私は天文学者の森川蒼太と申します。先生の論文、『細胞死のプログラムにおける確率論的解釈』を拝読しました。非常に刺激的でした」
薫子は軽く会釈した。森川蒼太。名前には聞き覚えがあった。若手天文学者として注目されている人物で、暗黒物質の観測研究で実績を上げているはずだ。
「ありがとうございます。でも、天文学者の方が細胞生物学の論文を?」
「ええ」蒼太は穏やかに微笑んだ。「私は宇宙の始まりと終わりを研究していますが、生命の始まりと終わりにも興味があるんです。どちらも、この宇宙の根源的な謎ですから」
その言葉には、科学者らしからぬ詩的な響きがあった。薫子は僅かに眉をひそめた。
「根源的な謎、ですか。私にとっては解明可能な現象に過ぎませんが」
「そうですね」蒼太は頷いた。「でも、すべてを解明したとき、人間はどうなるのでしょう? 謎がなくなった世界で、私たちは何を求めるのでしょうか」
薫子はコーヒーを一口飲んだ。
「謎を解くことで、新しい問いが生まれます。それが科学の本質です。ロマンティックな神秘主義は必要ありません」
「神秘主義……」蒼太は少し寂しそうに笑った。「そう聞こえましたか。私はただ、科学的に説明できないものにも価値があると考えているだけです」
その瞬間、会場内から鐘の音が響いた。シンポジウムの開始を告げる合図だった。
「では、会場で」
薫子はそう言い残して歩き出した。蒼太の視線が背中に残っているのを感じたが、振り返らなかった。
シンポジウムの基調講演は、著名な哲学者による「科学と信仰の対話」だった。講演者は、科学的世界観と宗教的世界観は対立するものではなく、人間の認識の異なる様態だと論じた。
質疑応答の時間になると、薫子は迷わず手を挙げた。
「北条薫子と申します。講演者の先生にお聞きします。科学と信仰が対立しないとおっしゃいましたが、それは知的な怠惰ではないでしょうか? 科学は検証可能な仮説に基づきます。一方、信仰は検証不可能な前提を受け入れることです。両者の方法論は根本的に異なります。それを『対話』と呼ぶのは、単なる言葉遊びではないでしょうか?」
会場にざわめきが広がった。講演者は穏やかな表情を崩さず答えた。
「鋭いご指摘です。しかし、科学もまた、いくつかの検証不可能な前提に基づいています。たとえば、自然法則の一貫性や、因果律の普遍性などです。これらは証明できない『信念』です」
「それは違います」薫子は即座に反論した。「それらは経験的に確認され続けている作業仮説です。もし反証されれば、私たちは喜んでそれを修正します。信仰とは本質的に異なります」
講演者が答えようとしたとき、別の声が響いた。
「では、愛はどうでしょう?」
蒼太が立ち上がっていた。
「愛の存在を科学的に検証できますか? 脳内の化学物質の変化として説明できるかもしれません。しかし、それは愛そのものを説明したことになるでしょうか? 私たちが『愛』と呼んでいる経験の質を、完全に還元できるでしょうか?」
薫子は蒼太を見つめた。
「できます。愛は、進化の過程で獲得された、個体間の結びつきを強化する神経化学的反応です。オキシトシン、ドーパミン、セロトニンの相互作用によって説明可能です。ロマンティックな幻想で曇らせる必要はありません」
「では、あなたにとって、愛する人を失う悲しみも、単なる化学反応なのですか?」
蒼太の声には、挑戦的なところはなかった。むしろ、純粋な問いかけのように聞こえた。
「そうです」薫子は答えた。「悲しみは、社会的絆の喪失に対する適応的反応です。それを理解することで、むしろ人間的に対処できます。神秘化する必要はありません」
「なるほど」蒼太は静かに頷いた。「では、あなたが大切な人を失ったとき、『これは適応的反応だ』と自分に言い聞かせるのですか?」
薫子は答えに詰まった。父の死を思い出していた。
三年前、父は心筋梗塞で突然この世を去った。信仰を持たず、しかし誰よりも誠実に生きた人だった。父の葬儀で、親戚の一人が言った。「無宗教だったから、天国には行けないかもしれないわね」と。薫子はその言葉に激しい怒りを感じた。
なぜ、善良に生きた人間が、特定の信仰を持たないという理由だけで、死後の平安を否定されなければならないのか。そもそも、天国など存在しないのに。
沈黙が続いた。司会者が次の質問者を指名しようとしたとき、薫子は口を開いた。
「私の感情と、その感情の科学的説明は、矛盾しません。悲しみを感じることと、その悲しみのメカニズムを理解することは、別のレベルの話です。私は両方を受け入れています」
「そうですか」蒼太は座りながら言った。「それなら、科学と信仰も、別のレベルで共存できるかもしれませんね」
薫子は返答しなかった。
シンポジウムの後、レセパーティーが開かれた。薫子は隅のテーブルで、一人グラスを傾けていた。社交は得意ではなかった。人々の無意味な会話に時間を費やすより、研究室で実験データを分析している方がずっと有意義に思えた。
「一人でいらっしゃるんですか?」
蒼太が隣に立っていた。手には赤ワインのグラス。
「ええ。社交は苦手なので」
「私もです」蒼太は微笑んだ。「天文学者は、基本的に夜空を見上げている方が楽なんです」
薫子は僅かに口角を上げた。それは彼女にしては珍しい反応だった。
「さきほどは、失礼しました」蒼太が言った。「個人的な経験について、立ち入りすぎました」
「いえ」薫子は首を振った。「あなたの問いは、適切でした。ただ、答えはシンプルです。感情と理性は矛盾しない。それだけです」
「でも、あなたの表情は、もっと複雑なものを語っていました」
薫子は蒼太を見つめた。この男は、観察眼が鋭い。
「……大切な人を失ったとき」薫子はゆっくりと言葉を選んだ。「その人がもう存在しないという事実を、私は科学者として受け入れました。細胞は機能を停止し、意識は消失し、肉体は分解される。それが死です。シンプルで、明快です」
「でも?」
「でも」薫子は続けた。「周囲の人々は、死後の世界について語りました。天国だの、あの世だの、魂の安息だの。そして、信仰を持たなかった父は、そういう場所に行けないかもしれないと言ったのです」
「それは辛いことですね」
「辛くはありません。ただ、馬鹿馬鹿しいと思いました」薫子の声には、抑えた怒りがあった。「存在しない場所への入場資格を論じることほど、無意味なことはありません。父は生きている間、誠実に生き、人々を助けました。それで十分です。死後の世界など必要ありません」
蒼太は静かに頷いた。
「その通りかもしれません。でも、残された人々にとって、死後の世界の観念は、慰めになることもあります」
「幻想による慰めは、真の慰めではありません」
「真の慰めとは、何でしょう?」
薫子は答えなかった。それは、彼女自身がまだ答えを見つけていない問いだった。
「私の父も、数年前に亡くなりました」蒼太が静かに語り始めた。「父は牧師でした。敬虔なクリスチャンで、生涯を信仰に捧げました。でも、私は父の信仰を継ぎませんでした」
「では、あなたは無神論者?」
「いいえ」蒼太は首を振った。「私は、何か大いなるものの存在を感じています。それが神なのか、宇宙の意志なのか、単なる物理法則の美しさなのか、わかりません。でも、この宇宙には、私たち人間を超えた何かがあると感じるのです」
「それは、曖昧な感傷です」
「そうかもしれません」蒼太は認めた。「でも、私にとっては、真実です。夜空を見上げるとき、138億年前のビッグバンから始まり、星々が生まれ、死に、その残骸から新しい星が生まれる、その壮大な循環を見るとき、私は何か説明できない畏敬の念を感じます。それを『神』と呼ぶかどうかは、言葉の問題です」
薫子はワインを一口飲んだ。
「宇宙の壮大さに畏敬の念を感じることと、超自然的存在を信じることは、別です」
「その通りです」蒼太は同意した。「だから私は、特定の宗教を信じていません。ただ、科学で説明できることの背後に、何かもっと大きなものがあると感じているだけです」
「それは、知識の不足から来る錯覚です。説明できないものは、まだ解明されていないだけです」
「もしかしたら、そうかもしれません」蒼太は微笑んだ。「でも、すべてが解明されたとしても、私はきっと、その背後に何かを感じ続けるでしょう。それが私という人間の特性なのかもしれません」
薫子は、この男の誠実さに、僅かな好感を抱き始めていた。多くの信仰者は、自分の信念を絶対的なものとして押し付けてくる。しかし蒼太は、自分の感覚を相対化し、それでも大切にしている。それは、科学者としての態度に近かった。
「あなたの父上は」薫子が尋ねた。「天国にいると思いますか?」
蒼太は少し考えてから答えた。
「父がどこにいるかは、わかりません。でも、父の愛と、父が私に教えてくれたことは、私の中に生き続けています。それが、父の永遠の命だと思います」
「それは、記憶と影響の継続です。魂の存続ではありません」
「言葉の違いです」蒼太は穏やかに言った。「でも、本質は同じではないでしょうか? 大切な人は、私たちの中で生き続ける。それが、科学的説明であろうと、宗教的解釈であろうと」
薫子は反論しようとして、やめた。この議論は、平行線を辿るだけだろう。
「北条先生」蒼太が言った。「もしよろしければ、今度、私の天文台に来ませんか? 夜空を見ながら、話を続けられればと思います」
「なぜ、私を?」
「あなたは、誠実に真理を求めている」蒼太は答えた。「私も同じです。立場は違いますが、対話する価値があると思います」
薫子は少し迷った。この男との会話は、刺激的だった。それは認めざるを得なかった。
「考えておきます」
「それで十分です」蒼太は微笑んだ。「答えを急ぐ必要はありません」
その夜、薫子はホテルの部屋で、窓の外の星空を見上げていた。都会の光に邪魔されて、見える星は少なかった。
蒼太の言葉を思い出していた。「宇宙には、私たち人間を超えた何かがある」
馬鹿馬鹿しい。宇宙は、物理法則に従って動く、巨大な機械に過ぎない。そこに意志も、意図も、神秘もない。
しかし、なぜ彼女は、蒼太の言葉に、僅かな惹かれるものを感じたのだろう?
それは、科学的好奇心だ、と薫子は自分に言い聞かせた。異なる視点を理解することは、科学者にとって有益だ。それ以上の何かではない。
そう自分に言い聞かせながらも、薫子は、蒼太との再会を、僅かに期待している自分に気づいていた。




