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5.


 

 

「トマス! お父様に何かあったの?」

 

 長い朝食が終わり、応接室で待っていたトマスが立ち上がる。彼はイブリンの父の右腕としてハートフォード商会を守りつつ、商会とイブリンの橋渡しの役目も担っていた。

 

「お父上はご健勝ですよ。以前、手紙で送ったバラハ交易の財務状況について、直接話を聞きたいとのことで参りました」

 

「それならば、わたくしが家に戻って説明したのに、お父様は何を考えておられるのかしら」

 

 イブリンは首を傾げる。妖艶な悪女の仮面が剥がれるとき、――この顔を見せるのは、ほとんどトマスの前だった。

 

「嫁いだ娘が、頻繁に実家へ帰るのは外聞が悪い……そうお考えなのですよ」

 

 イブリンは腕を組む。

 

「あぁ、お父様が考えそうなことだわ。でもわたくしもハートフォード商会の一員なのよ? 情報は常に共有しないと」

 

「お父上なりのお気遣いですよイブリン様」

 

 イブリンは髪を掻き上げると憮然とする。

 

「いいえ、トマス。わたくしをいつまで経っても子供扱いしているだけよ」

 

「あなたも忙しいでしょうに、わざわざ来させてしまって悪いわね」とイブリンが微かに唇を尖らせる。まるで子供のような振る舞いは、エドワードの前では決して見せない。

 

「書類を持ってくるから待っていて」


「では、わたくしもご一緒してよろしいでしょうか」


「もちろん。……ちょうどこの前、ザルーサから珍しい手芸品を手に入れたの。少し手を加えたらアクセサリーとして売れそうなのよ」


 階段を登って二階の仕事部屋へと向かう。その途中、エドワードと鉢合わせた。彼は微かに眉を顰め、しかし何も言わず通り過ぎていった。


「……まだ“あれ”を続けてらっしゃるのですね」


 イブリンは感情のこもらない声で答える。


「えぇ。それがあの方の為になるもの」


 トマスは何も言わなかった。

 イブリンは一度決めたことは、決して曲げないからだ。




 イブリン・ハートフォードとしての仕事は順調だった。だがイブリン・ブラックウェルとしての生活は最悪だった。


 屋敷に頻繁にマリアンが出入りするようになったのだ。

 イブリンはそれを見て見ぬふりをし、一層仕事に励んだ。

 伯爵夫人のパーティーで着たドレスは既に王都でご婦人方が身に纏い、流行している。禁欲さと大胆さが混在するドレスに年配のご婦人は眉をひそめ、若い令嬢は憧れの視線を送る。

 次の夜会に着ていくドレスも決まりつつある。これもまた流行を作り出すだろう。悪女イブリンの影響力は、王都の流行を動かすほどだ。


 トマスは仕事に励みすぎるイブリンを心配し、外で仕事の話をするようになった。家の中に篭ってばかりいると、体によくないと彼女を連れ出す口実にしたのだ。


 イブリンも家でマリアンと顔を合わせることがなくなる事に、安堵している部分もあった。同じ屋敷の中にいるのに妻である自分には決して向けられない笑顔を、マリアンには惜しみなく向けるエドワードを見るのは辛かった。


 新しくできたコーヒーハウスでイブリンとトマスは仕事の話をよくした。他のコーヒーハウスと違って、この店では女性が入店できる貴重な場所だった。

 トマスと取引先の商人とよく利用するようになった。


 そんなある日――街に妙な噂が流れ始めた。


「……イブリン様が、夫以外の男性と密会しているらしい」


 街行く人々がイブリンが夫以外の男性といるのだと噂し始めた。

 イブリンもトマスも一時的なものだと無視していたが、やがてゴシップ誌に二人の密会場所としてコーヒーハウスが紹介され、取引先から距離を置かれ、コーヒーハウスからは入店を拒否されるようになってしまった。


「悪女と名高いイブリン・ブラックウェルは新たな燕と熱烈な恋に落ちている」


 なんてありきたりな煽り文だろうか。イブリンはうんざりしてゴシップ誌を畳んだ。

 また屋敷の中で仕事をしなければならない。そして待ち受ける苦痛の時間。

 イブリンは頭を悩ませた。

 さらに彼女を悩ませたのは、夫エドワードがこの醜聞を知り、一方的に怒りをぶつけられたのだ。


「外で男と密会とは……ブラックウェルの恥だ」


「何をおっしゃってるのかしら? 旦那様もトマスが父の右腕だとご存知でしょう? なのに今更何を恥じることがあると言うのです」


「世間は見たものしか信じない。中身など、どうでもいい。話の種になれば満足する、それが今の状況だと分からないのか?」


 エドワードの怒りはわかるが、心が納得しない。イブリンは叫びたくなった。

 ――ならマリアンが足繁くこの屋敷に通うのは醜聞とは言えないの?

 だがイブリンは冷たい表情を浮かべて慇懃無礼に夫エドワードに謝るだけだった。




 結局、トマスはブラックウェルの屋敷に頻繁に出入りするようになり、手を引いてしまった取引先の信頼回復に務める羽目になった。だが一度失くした信用を回復するのは容易ではない。

 それにイブリンにはまだまだ新規開拓すべき案件が山ほどあるのだ。瑣末なことに構ってる暇はないのだ。

 放っておいたら、いずれ新しいゴシップで賑わうのが王都に住む人々の常。イブリンは深く考えずに仕事に打ち込んだ。


 しかし一度ついた火種は、なかなか消えてくれなかった。今度は噂の燕がブラックウェル家に出入りするようになったとゴシップ誌が騒ぎ始めたのだ。

 これにはエドワードも限界を迎えた。

 屋敷にトマスを出入りさせるなと言い放ったのだ。

 イブリンは言い返したくなった。ならばマリアンも出入りさせるなと。

 しかしイブリンは耐え忍んだ。


「分かりましたわ。トマスにはこの屋敷に出入りしないよう伝えておきます。これで満足かしら?」


「いいや、満足などしない」


「なんですって?」


「君がハートフォードの仕事の一切を辞めるのならば許す」


 イブリンの視界が暗転した


「旦那様はわたくしから何もかも奪うおつもりですか? わたくしが何もせず、一日中庭園でお茶でも飲んでいれば良いとでも?」


「女がそもそも仕事をしていることが外聞によくない」


「旦那様がそんなに頭の硬い方だとは思いませんでしたわ。わたくしから手足をもぐのを良しとされるのですね」


「これ以上、君を自由にさせてゴシップの種にされるよりはましだ」


 話はこれまでだと言わんばかりに、エドワードはイブリンに反論の余地も与えず彼女に背を向けて去っていった。



 

 

 

 意外な人物にイブリンとエドワードは出会った。

 

「エドワード様! やっぱりいらしてたのね!」

 

 向日葵がぱっと咲いたような笑顔で駆け寄ってきたのは、マリアンだった。

 その笑顔は真っ直ぐエドワードに向けられている。エドワードも、先ほどまでの硬い表情をやわらげ、穏やかな笑みを返していた。


 ――その笑顔の僅かでも私に向けて頂けたなら……そんな詮無いことをイブリンは考えてしまう。決して起こり得ないことを。

 

「エドワード様、まだお話が足りませんわ。あちらで続きをいたしましょう。――イブリン様も、よろしいですわよね?」


 それは伺いではなく断定だった。イブリンが「どうぞ」と口にしたとき、マリアンの唇がわずかに吊り上がったのは……気のせいだろうか。


 遠のく二人の後ろ姿を見送るイブリンは、マリアンがエドワードの腕に気安く触れるのを見てしまう。イブリンですら彼の腕に気安くなど触れたことは無いのに。

 抱いてはいけない醜い感情を、イブリンは必死に心の奥底へと押し込める。何故なら、本来ならエドワードとマリアンこそが夫婦であった筈なのだから。


 痛みを押し隠していると楽団が演奏の準備を始めている。ダンスの時間が迫っているが、エドワードはマリアンと話し込んだままだ。


 イブリンは突然、紳士たちに囲まれた。イブリンが既婚者であると知っているにも関わらず、彼らは我先にとダンスの初めての相手としてイブリンを求めてくる。


「イブリン様! ぜひ最初のダンスを!」


「いやいや、俺が先だ!」


「奥方、ぜひ一曲!」


 イブリンは思わず悪女の仮面を捨てて、夫エドワードに助けを呼びかけた。

 しかし、己の役割を思い出してイブリンは仮面をかぶり直して紳士達を魅了する。


(いいわ……踊ってあげる。存分に)


 毒の華は、社交界の真ん中で咲き誇るもの。


 ――夫がいるのに他の殿方と最初のダンスを踊っているわ。

 ――まぁ、なんてはしたない。あれが噂の社交界の毒の華ですわね。

 ――あれだけの美女なんだ、男なら誰でもお近づきになりたいもんさ

 ――そもそも夫は何をしている? 何もしていないどころか、別の淑女に夢中だ。


 そこかしこで囁かれる言葉にイブリンは耳を塞ぎたくなる。けれども悪女イブリンは社交の場の真ん中で毒の華になって、人々の記憶に植え付けるのだ。


 夫がいるのに見知らぬ男たちとダンスを気軽に踊る女。夫はそんな妻より貞淑な令嬢を選びたがっている。


 そう、それでいいのだ。まさにイブリンが思い描いていた展開ではないか。

 踊るイブリンの瞳が潤むのを誰も知らない。

 踊るイブリンの瞳がエドワードを求めていたなんて誰も知らない。


 知らなくていい、知られてはいけない。

 何故ならイブリンは悪女なのだから。




「今夜はお招きいただき、ありがとうございました。」


 イブリンが礼をする。夫エドワードも礼をした。


「このようなパーティーを催して下さり大変光栄でした。ありがとうございました」


 二人の言葉にクロウハースト伯爵夫人は満足げであった。

 そして二人は馬車に乗って帰路につく。


 ガス灯の明かりが窓の外を流れていくのをぼんやりと眺めながら、イブリンは嫌味を言う。


「マリアン嬢と随分と楽しそうにお話してらしたわね。あのように笑えるなんて、わたくし知りませんでしたわ」


 エドワードの表情は、氷のように無機質だった。


「貞淑な妻を娶ったはずが、最初のダンスで見知らぬ男と踊る、放埒な妻をいつの間にか娶ってしまったようだ」


 言葉の刃がイブリンを傷つける。

 イブリンはこの苦痛をいつまで味わい続ければいいのだろうと、手袋に包まれた手をきつく握りしめた。




 翌日のゴシップ誌は案の定、昨晩のクロウハースト伯爵夫人のパーティーの内容で盛り上がっていた。勿論、紙面の主役はイブリンと夫エドワード。


 朝食の席で平然とゴシップ誌を広げる妻に夫は軽蔑の表情を隠しもしない。

 しかし“ハートフォード商会のイブリン”としては、どんな些細な情報でも見逃せない。政治、経済、戦争、ゴシップ――商売の種はそこかしこで常に撒かれているのだ。

 そんなイブリンを見つめるエドワードだが、文句は言わない。二人の関係は冷え切っているのだから。


 そこで食堂に現れた執事がイブリンに告げた。

 

「グレイ様がお越しになりました。如何なさいますか?」


 イブリンは紙面を閉じて席を立った。それを注意したのはエドワードだった。


「まだ食事の途中だ」


 イブリンは皮肉げに笑む。


「わたくしと食事をするより、お一人でお食べになる方が美味しいのでは?」


 これにはエドワードも腹を立てたようだった。


「婚姻の儀の時の約束を忘れたか? “俺が戦地にいる時以外は、食事だけは必ず共にする”と誓ったのを」


 イブリンは驚きで思わずエドワードを見返した。その約束はとっくにエドワードは忘れているものだと思っていたからだ。

 だが真実、エドワードは約束を忘れていなかった。イブリンの胸に熱いものがこみ上げる。


「トマスには食事が終わるまで待っているよう、伝えてちょうだい」


 イブリンの言葉に頭を下げると執事は食堂を出ていった。


 再び席についたイブリンは食事を再開する。いつもならエドワードは軍人らしく早々と食事を済ませるのに、今朝に限ってなかなか食事を終えず、悠長に食事を堪能している。

 それほどまで自分に嫌がらせがしたいのか、嬉しさと悲しみが複雑に絡まり合う。

 だが仮初めの二人の時間でも、イブリンにとってはかけがえのないものなのだった。


 

 

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