3.
クロウハースト伯爵夫人のパーティーの日。朝からイブリンは落ち着かなかった。
夫エドワードと社交界に出るのが余りにも久しぶりすぎて、緊張で体が強張っていた。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわお嬢様。旦那様がしっかりエスコートして下さいますわ」
侍女エルザがイブリンのドレスを脱がせながら言った。
真っ赤な薔薇の花弁が散らされた湯殿に入りながら、イブリンは落ち着こうと何度も深い呼吸を繰り返している。
今日のパーティーはハートフォード商会のイブリンとしても参加するのだ、悪女と商人として、二つの顔を上手く演じ分けなければならない。
薔薇の湯に浸かりながら、イブリンの頭は忙しなく働いていた。
侍女が髪の毛を丁寧に洗う。イブリンの艷やかな黒髪は女性なら誰しもが羨む美しさである。日々の手入れを怠ったことはない。
バスタブから出ると体を丁寧に拭かれ、イブリンの為だけに作られた特別な香油を体に塗り込めていく。チュベローズの官能的な香りに樹脂が絡んだミステリアスで濃厚な香りが立ち上る。
「あぁ、この香りとも早くお別れしたいわ」
イブリンは溜息をつきながらローブを羽織る。
侍女に鏡台に導かれ座ると、艶のある髪にも香油を丁寧に塗り込められていく。
「私はこの香り好きですわ」
侍女エルザが主人の髪を梳かしながら言う。イブリンは顔を顰めた。
「そうね、香り“だけ”なら私も好きよ」
髪を複雑に編み込み、纏め上げる。侍女エルザの腕は一流だ。
そして顔に化粧を施していく。もとの肌の白さを際立てるように、尚且つ相手を手玉に取る悪女の一面を覗かせる深いボルドーの紅を唇にひと塗り。
仕上げはドレス。紫紺のハイネックのロングスリープのマーメイドライン。禁欲的なドレスに見せながらも、デコルテを大胆に覗かせるそのドレスは、きっと男たちを誘惑するだろう。
宝石箱からは真っ赤な無花果の様な色合いのネックレスとイヤリングを取り出して身につける。大振りながらも下品に見えないのはイブリンの隠しきれない品性の高さのお陰か。
イブリンは豪華な立て鏡に写る自分を見て儚げな吐息をつく。悪女の仮面を被らなければならないのは重々承知しているが、彼女の好みとは正反対の装いには毎回溜息をついてしまう。
侍女が黒の外套を肩にかければ、ゴシップ誌を賑わせ、街の男女共に魅了する悪女イブリンの出来上がり。
「さぁ、お嬢様。そろそろお時間ですわ」
「えぇ、分かってるわ」
パーティーに気乗りしないのは、何もエドワードだけではない。イブリンこそが恐らく最もパーティーに行くのを嫌がっている。
「黒の手袋を」
侍女が手袋と扇子をイブリンに渡す。
部屋の扉の前で一呼吸。大丈夫よイブリン。私は悪女。旦那様が嫌う装いで社交界の花になる。それはきっと触れれば毒の華だと後になって気付くのだろう。
ドアを開けてイブリンは悪女の仮面をかぶる。
執事が階段を登ってくる。エドワードの準備ができたのでイブリンを呼びに来たのだろう。
イブリンは了承の意として、扇子を一振りした。
夫エドワードは玄関ホールに立っていた。黒のテールコートの下に白のウエストコート、白いクラヴァットという完璧な装いに、短い金色の髪を後ろに撫で付けてある。その姿は一部の隙も無かった。まるでイブリンから身を守るかのように。
「遅い」
短く鋭い言葉のナイフがイブリンを襲う。だが悪女の仮面をかぶるイブリンはナイフを受け止め、代わりに投げ返す。
「身軽な殿方と違って、女は時間がかかるものでしてよ旦那様」
玄関ホールに降り立ち、イブリンはほれぼれするほど完璧で隙のない我が夫を見上げた。その顔は険しく、イブリンのドレスのデコルテに視線を少し寄越してから一言、「下品なドレスだ」と不機嫌な顔をした。
時間が迫っていたため、それ以上の言い争いはなく、エドワードはイブリンに腕を取るよう促す。
イブリンはどうか手が震えませんようにと祈りながら、黒の手袋越しに夫の腕に手を置いた。
重厚な玄関の扉を開けば、既に馬車が着いていた。御者は扉をあけて二人を待っている。
エドワードがイブリンのドレスの裾を持ち、馬車にスムーズに乗らせる。そして次に自分が乗り込むと扉を閉めて御者に支持を出すと、イブリンの横に座った。
走り始めた馬車の中は外の空気よりも冷たかった。
夫婦であるのにも関わらず、到着するまでたったの一言すら会話はなかった。
イブリンは(これでいいの……)と何度も胸の中で唱えていた。
クロウハースト邸に着いた馬車は滑らかに止まり、御者が扉を開ける。中からイブリンが先に出てくると、次にエドワードが出てきた。
エドワードは再び腕を妻に差し出すと、イブリンは小さく笑って手を置いた。
「なんだ」
エドワードが怪訝な顔をする。
「いいえ、わたくしをエスコートするのが苦痛でたまらない、といった風ですのでついおかしくて」
扇子でイブリンは口元を多いながらクスクスと笑う。
「忘れているのかもしれないが、俺も一応は紳士の端くれだからな。相手がどんな醜女でもエスコートしてやるさ」
夫の言っていることは真実だろう。この身を飾り立てた悪女と言う名の醜女を、今のところ紳士的にエスコートしてくれているのだから。
入り口で招待状を渡し、伯爵家に入っていく。
中はブラックウェル家とは違い、名のある絵画や陶器の壺に彫刻などがいたる所に飾ってある。おおよそ趣味が良いとは言えず、イブリンは顔をしかめたくなった。
そこへ女主人のクロウハースト伯爵夫人が「まぁまぁ、よくぞお出で下さいましたわ。ご夫婦でいらして下さるとは思いもよりませんでしたわ。今宵は楽しんでらして」
「この度はお招きいただき光栄です。今夜を楽しみにしておりました」
エドワードは淀みなく答える。イブリンは内心、(そんなにお口が達者なら、わたくしにも少しくらいお言葉をかけて下さればいいのに)と思ったが、悪女の仮面をかぶると決めた自分には贅沢な悩みだと自嘲する。
「ありがとうミスター・エドワード。さぁ皆様、先の戦争でいくつもの勲功を挙げられたミスター・エドワードですわ。どうぞ大きな拍手をお送り下さいませ」
広間のあちこちから拍手が沸き起こる。イブリンは密かに誇らしい気持ちになった。
「ではわたくしはこの辺で。また後でお話を伺わせて下さいなイブリン」
そう言うとクロウハースト伯爵夫人は別の客人の元へと去って行った。
残された二人の間に微かな緊張の糸が張られた。夫婦という間柄には相応しくないものだ。
そこへ数人の夫人がイブリンに近寄ってきた。
「イブリン様、お久しぶり。夜会にいらっしゃらないから退屈しておりましたの」
「殿方たちの話題は戦争や政治ばかりでしてよ」
「まぁ、華のないこと! でも今夜は違いますわね」
姦しい三人の夫人にもイブリンは笑顔を絶やさない。ハートフォード商会の良い顧客でもあるからだ。
「わたくしも皆様とお会い出来て光栄ですわ」
少しの間話し込んだあと、三人の夫人は去っていく。イブリンは内心溜息をついた。
隣にいる夫エドワードをちらりと見れば、退屈さを感じているのを隠しもせずに立っている。彼の態度に腹立ちと微笑ましさが入り交じる複雑な気持ちをイブリンは抱いた。
イブリンはエドワードの実直で素直なところにも惹かれたのだから。
「おぉ! ブラックウェル大佐ではないか。此度の戦争で鬼神の如き活躍をしたと軍部から伺っておりますぞ」
大柄な初老の紳士が駆け寄り、戦場での活躍を褒めちぎる。
イブリンは黙って微笑む。商人の耳は、こういう場面でこそ働くのだ。
そして老紳士が去ったあと、エドワードが小さく溜息をついたのも、イブリンは聞き逃さなかった。