2.
イブリンが悪女の仮面をかぶる決意をしたのは二年前のこと。
婚礼の儀が終わり、親族や友人たちと談笑しているときだった。
噂話好きの伯爵夫人がイブリンに近寄り、扇子で口元を隠しながら囁く。
「あちらに見える金色の髪のご令嬢がおられるでしょう? マリアン・ウェルズ嬢ですわ。エドワード様とは幼馴染らしいですの。ご存知?」
「……存じませんわ」
イブリンが礼儀正しく返すと、夫人はさらに声を落とした。
「あくまで噂話ですけれど、昔エドワード様と婚姻の約束をしてらしたそうよ」
その言葉がイブリンの胸を刺す。イブリンの表情がわずかに揺らぐのを、夫人は見逃さなかった。
「お気をつけになってイブリン夫人。あの可憐な見た目の裏では……何をお考えになってるのか分かりませんわよ」
わざと含みを持たせた言葉を残し、伯爵夫人は次の獲物を探すように去っていった。
イブリンはエドワードから一言もマリアンについて聞いたことが無かった。
まさか、そんな関係であったなんて……。
イブリンは胸がぎゅっと絞られるような感覚を覚えた。
エドワードはマリアン嬢と楽しそうに談笑している。無骨な軍人気質のエドワードがイブリンに見せた笑顔は、数えるほどしか無かった。
(あぁ、なるほど。私はお飾りの妻ということなのですね。ならば、エドワード様がいつでも私と別れてマリアン様の所に行けるように、私は仮面をかぶりますわ)
――悪女の仮面を……
それからイブリンは豹変した。
派手なドレスを身に纏い、豪奢な宝飾品を身につける。整った唇から出てくるのは棘のある言葉ばかり。
社交界では派手な振る舞いをし、衆目を集める。
しかし内側から溢れる品格は隠し様がない。イブリン・ブラックウェルの悪評は広まれど、その品位は損なわれず、彼女の一挙手一投足がゴシップ誌の紙面を飾る。
「イブリン夫人、次の流行色は何色ですの?」
「ふふ、それは秘密ですわ」
イブリン・ハートフォードとしての審美眼は確かなもので、彼女が着たドレスや宝飾品は次の週には王都で流行りを見せたし、ハートフォード商会は大いに潤った。
結婚をする前のイブリンとは突然、真逆になってしまった彼女に戸惑ったのは、他ならぬ夫エドワードである。
何か自分に不満があるのか、それとも別の何かか。確かめようにも、不器用な夫は豹変した妻に戸惑うばかりであった。
しかし軍人として戦地に赴くエドワードは、妻と話し合う時間もなく、婚姻の儀が終わるとすぐに戦地へ赴いた。
イブリンは毎日、神にエドワードの無事を祈った。それと同時に彼が自分に縛られず自由になれますようにとも。
エドワードが戦地から帰還した翌日、突然の来訪があった。
エドワードの幼馴染であるマリアン・ウェルズ嬢が屋敷にやって来たのだ。
エドワードは突然の来訪にも関わらずマリアンを歓迎した。
イブリンは笑顔を張り付けながらも、
「申し訳ありませんわ。少々、商会の仕事がございますので」
とだけ告げ、仕事部屋へ閉じこもった
――本当は二人の仲の良さを見ていられる自信がなかったからだ。
イブリンの知らない二人の間に流れる親密な空気。イブリンには見せない笑顔。それら全てがイブリンの心を引き裂いていく。
「よろしいのですか、お嬢様?」
侍女が尋ねてくるも、イブリンは黙って首を振るだけ。
結果、マリアン令嬢が帰るまでイブリンはひたすらハートフォード商会の仕事に没頭した。
その招待状が届いたのはエドワードが帰還してから三日目のこと。例の噂好きの伯爵夫人が送ってきたものだ。
イブリンは正直気乗りしなかった。
夫エドワードは社交の場が好きではない。貴族同士の政治の駆け引きや噂話に花を咲かせる婦人たち、未婚の娘の相手を探すため獲物を狙うかのような母親たち。
そして音楽にダンスはエドワードにとって苦痛そのものなのだろう。
何故ならイブリンが彼とダンスをしたのは婚姻が決まってから出席した社交界、婚礼の時を併せてたった二回しかない。
戦地へ遠征する夫は忙しく、社交界に出る暇がないのもあるが、それでも少なすぎる。
一方、イブリンは積極的に社交界に出席し、人脈作りに励み、商会の商談をまとめたり、その場にいない夫の評判が下がらぬよう、よく回る口でエドワードを裏で支えていた。
しかしエドワードはそんな事は知らず、国を守るために戦地で戦う日々を送っていた。
「厄介だわ……出席しなければ、あのおしゃべりな伯爵夫人が何と言うかしら」
招待状を見つめてイブリンは頭を悩ませる。
だが答えは決まっている。夫エドワードと共に出席するしかないのだ。
問題はエドワードに、この事をどう話すかである。きっと嫌味の応酬になるだろう。
だがイブリンはやらなければならないと、仕事部屋から出ると手袋をはめて、夫の執務室へと赴いた。
ノックの後、「わたくしですわ、旦那様」と声をかけると、少しの間の後重い扉が開かれた。
「何の用だ」
相変わらず口数が少なく端的な夫。
イブリンよりも遥かに背が高く逞しい体格のエドワードは、相対する者に威圧感を与える。
しかしイブリンは違った。この逞しい夫の胸に掻き抱かれたら、どんな天国が待っているのだろうと夢想する。
結婚して清いままのイブリンは、時折はしたない想像をしては己を恥じて窘める。
(悪女イブリンにならなくては)
腕を組んで挑発的な視線を上目遣いにする。
「クロウハースト伯爵夫人が、パーティーを開くそうよ。是非出席してほしいと招待状が来ましたわ」
案の定、エドワードの顔つきが険しくなる。夫は伯爵夫人を嫌っている節がある。
しかし、そこは立派な大人の男として礼儀を弁えなければならない。
エドワードは、たった一言「分かった」とだけ言うと扉を閉めた。
イブリンは冷たい夫の反応に胸を痛めつつ、この堅牢なオーク材の扉一つ隔てた向こうにいる夫エドワードを心底恋しく思った。
決して開かれない夫の心のようだとイブリンは扉にそっと手袋越しに触れながら思った。