1.エドワード視点
エドワードは急いでいた。
今回の任務は思ったより手こずり、帰還できる日が延びてしまった。
我が妻イブリンはどうしているだろうか。寂しがっている? ――ないな。
彼が欲する態度を取った事など彼女は一度もない。
ようやく我が家に辿り着き、玄関の前に立つ。かじかんだ手で扉を開けると、執事フォスターが予期していたかの様にそこに佇んでいた。
その時、階段を降りる音が聞こえて顔を上げると、そこに彼女がいた。
真紅のショール、整えられた髪、わずかに上がった口角――見慣れた、完璧な女性。それがエドワード・ブラックウェルの妻であるイブリン・ブラックウェル夫人だった。
「……帰った」
あまりにも短い言葉に自分で自分に失望する。気を取り直して懐から妻への土産を取り出して渡す。果たして気に入ってくれるだろうか?
受け取った妻イブリンは、いつもの皮肉げに口元だけ微笑むと帰還の挨拶をする。
「お帰りなさいませ、旦那様」
微かに本当の笑顔が見えた気がするのは自分の願望か。
「随分と遅い帰還でしたわね。この家の場所が分からなくなって、迷子になっていたのかと思っていましたわ」
これもいつもの嫌味。だが長いこと聞いていなかった、その嫌味でさえ甘い囁きに聞こえる自分はすっかりイブリンに心を捉えられている。
「放っておいたら妻に家を乗っ取られてしまうから、道行く人々にブラックウェルの家の場所を聞いていたら遅れてしまった」
嫌味の応酬も慣れたもの。屋敷の者全員が知っている遣り取りだ。
「これを開けても……?」
「あぁ」
どうかイブリンが気に入ってくれるように――審美眼が確かなイブリンのお眼鏡に適うだろうか。戦地の露店で見つけた瞬間、既にネックレスは手の中にあった。茜色の中に星を閉じ込めた石をあしらったネックレスは、豪奢なイブリンには物足りないだろうが、手に入れた時は繊細なそれが、何故かイブリンにぴったりだと思ったのだ。
「まぁ、美しい石ですこと。ですが……このわたくしには少々物足りないですわ」
気に入ってくれた。皮肉は想定済みだ。
ネックレスを眺めるイブリンに触れたくて仕方なかったが我慢した。
「気に入らなければ捨て置け」
皮肉には皮肉を。それが俺達の暗黙のルールの様になっていた。
俺はそれだけ言うと階段を登り私室に入った。執事のフォスターも後に続く。
ソファーに座ると、どっと疲れが襲ってきた。イブリンの前では体が軽くなるのに、一人になるとこのざまだ、情けない。
「イブリンは本当にあのネックレスを気に入ってくれただろうか?」
吐息とともに吐き出される弱気な言葉。
「もちろんですとも。イブリン様はあなた様の土産を捨てたことなど一度もないではありませんか」
「分からんぞ。俺の知らないところで捨てているかもしれん」
戦地ならどんな敵が相手でも怯むことなく立ち向かえるのに、こと相手がイブリンになると俺は怯んで弱気になってしまう。
どれだけ嫌味を言われても、自分に向けられた言葉というだけで歓喜してしまう。
なんと情けないことか。だがイブリンが魅力的すぎるのが悪いのだ。
「湯殿の用意ができております旦那様」
「わかった」
早くこの土埃を落とさなければ。イブリンに身だしなみを気にしない男だとは思われたくはない。
俺は軍服を脱ぎ捨てると、湯殿に入った。この後に待ち受けるディナーを思えば、否が応でも期待に胸が膨らむ。
食堂のテーブルにはキャンドルの火が揺れており、銀器が規則正しく並んでいる。そしてスープの香りが漂っていた。
食堂に入ってきたイブリンを見ると、先ほど贈ったネックレスをしてくれている。それだけで俺は心が軽くなり、喜びを得てしまう。
スープを一口、薄い味のそれに反射的に言葉が口をついて出る。
「……塩が足りん」
戦地で味の濃い料理ばかりを味わいすぎたせいか、無意識に発してしまった。
イブリンを見ると優雅にスープを口に運んでいるところだった。
「戦地の塩加減で判断なさらないで。ここは王都ですわ旦那様」
確かに。俺は妻の言葉に肩をすくめるに止めた。
魚のムニエルが供されたとき、我が家の仕入れた魚ではないと直ぐに気付いた。
「魚はハートフォード商会の仕入れか?」
敢えて「ハートフォード」の名を出すのは微かな嫉妬の現れ。
「ええ、そうですわ。よくお分かりで」
やはり、と思いつつハートフォード商会の女主人として働くイブリンを俺は気に入らないのだ。
魚料理の次はローストが運ばれてくる。
銀器が触れ合う音だけが響いている。
巷の優男の様に、よく回る口ではない俺は、ローストに手を付けながら思い出す。
「また遠征だ。今度は長くなるかもしれん」
戦況次第だが、またこの家を空ける事に胸が痛む。イブリンなら俺が留守の間、女主人として立派にこの屋敷を切り盛りするのだと分かっていても、完璧すぎるイブリンが少しでも何か過ちを犯してくれはしないかと意地の悪い事を考える。そしてそのすまし顔が崩れるところが見てみたい。
「……ご無事でお戻りくださいませ」
イブリンの声が微かに震えて聞こえるのは俺の都合の良い思い込み。
「……帰ったら、今よりましな事を言ってやる」
言っておきながら果たして俺にできるのだろうかと些か不安になる。俺は口下手すぎると自分を理解している。
最後のデザートを食べ終えると、イブリンは「お先に失礼しますわ」と言うと、俺は短く「おやすみ」とだけ返す。
気の利いた挨拶など出てくるはずもない。
食堂を出ていったイブリンが向かう寝室と俺の寝室は別々だ。
結婚してから二年経つが、一度も二人きりで朝を迎えたことはない。
イブリンが俺を遠ざけているからだ。
じくじくと胸が痛むが心の奥に押し込める。
俺はエドワード・ブラックウェル当主として、弱気な面を見せることはできないのだ。