7.
――暗闇の底から、ゆっくり意識が浮かび上がる。
重たいまぶたを押し上げると、両目を真っ赤に腫らした侍女エルザが自分を見下ろしていることに、イブリンはしばらくの間混乱で状況が掴めなかった。
「お嬢様! お嬢様! お目覚めになられたのですね?」
……ここはどこ? どうして――?
問いを形にする前に、胸元から冷たい金属の感触が伝わってきた。
白衣をまとった初老の医師が、無言で聴診器を当てている。
――あぁ、わたくしはまだ生きているのね。
「私の声は聞こえておられますかな?」
イブリンは小さく頷いた。医師の表情がほんのわずか緩んだ。
「もう少し発見が遅ければ、あなたは今頃、あの世にいたかもしれなかったのですよ」
その方がよかったのに、とイブリンは思った。
「旦那様があなたを見つけ、すぐに私を呼ばれたのです。命拾いしましたな」
エドワード様がわたくしを……?
「しばらく安静にしておくことです。過労もあなたの体を蝕んでいますよ。仕事をするのは厳禁です」
言い置いて、医師は部屋を出ていった。
窓の外を見ると、ひらひらと雪が降っている。あの雪のように溶けて消えてしまいたかった。
視界が滲むのを目を閉じてこらえる。
次に目を開いたとき、そこに宿っていたのは、揺るぎない決意だった。
ベッドから起き上がろうとするイブリンを、侍女は慌ててベッドに押し倒した。
「何をなさっているのですか! お嬢様!」
「わたくし行かなくては」
体を起こした瞬間、エルザが慌てて肩を押し戻す。
「先ほどお医者様から言われましたでしょう? 安静にしているようにと」
「わたくしなら大丈夫よ。早くこの家から出ていかなければならないの」
侍女エルザは屋敷の者を呼んだ。
二人がかりでイブリンをベッドに引き戻そうと躍起になっていたところ、屋敷の主が部屋に入ってきた。
「何の騒ぎだ」
「イブリン様が屋敷を出ると言って聞かないのです」
次の瞬間、彼の大きな体がすぐそばまで迫り、あっさりとイブリンをベッドへ沈める。
「屋敷を出るのは元の君になってからだ。いらぬ事をして屋敷の者の手を煩わせるな」
自分より遥かに体も力も大きなエドワードに勝てるわけもなく、力尽きたイブリンは大人しくベッドに身を沈ませた。
それからの日々は安穏としていた。
社交界で知り合った人やハートフォード商会の顧客や取引先から毎日山のように見舞いの品が届いたのだ。
実家からはトマスが駆けつけてくれた。
「夜会でなんて愚かなことをなさったのですか」
横になっているイブリンをトマスは責めた。
「衆人環視の中、言い争いの末に離縁を言い渡されるなんて、前代未聞です。連日ゴシップ誌はあなた方の話題で持ちきりですよ」
「ちょうどいいじゃないトマス。世間に知れ渡っているのだから、もう旦那様――エドワード様もわたくしを追い出しやすくなったでしょう」
「何故あなたはそこまでするのですか。そこまでする価値のある男なのですか、彼は」
イブリンは微笑む。
「初めてお会いしたとき、体が大きくて無愛想で、とても恐ろしい方に見えたの。けれどね、あの方はわたくしと結婚したら笑顔で毎日過ごそうと言って下さったわ。その時の笑顔はとても柔らかで温かかったの」
そこで思い出したようにイブリンはクスリと笑う。
「それにね、エドワード様はああ見えて、甘いものに目がないのよ。とてもチャーミングではなくって?」
トマスは前髪を掻き上げると溜息をつく。
「“惚れた弱み”というやつですか」
「そうね。きっとわたくしは一生エドワード様には勝てないのよ」
国のために血を流す事も厭わず、実直で真面目なエドワード。言葉数は少ないし無愛想だけど、甘いものには目がない意外な一面を持つ人。
たったの二年……それもいがみ合ってばかりだったけれど、イブリンは幸せだった。
「イブリン様は商売のこととなると天才ですが。それ以外のことは子供以下です」
トマスの言い分にイブリンは笑う。
「まぁ、なんて酷い言い草かしら。でもその通りかもしれないわね」
ベッドのサイドテーブルに飾られた見舞いの花を一輪手に取り匂いを嗅ぐ。柔らかで暖かな香りがした。
「商会のことはわたくしとお父上にお任せ下さい。イブリン様はゆっくりご静養下さい」
「残念だけど、そうするわ」
トマスを見送ったあと、しばらく微睡んでいると、寝室のドアが開いた。
ゆっくり瞼を上げると、ドアからエドワードが顔を出している。
「何か御用でも?」
「いや、君が医師の言いつけを守っているか気になってな」
「子供じゃありませんわ。ご心配なさらずエドワード様」
「……そうか」
それだけ言うとエドワードは出ていった。
何がしたかったのか分からず、イブリンは首を傾げた。
それからもエドワードの訪問は頻繁にあった。
ただの監視だと言っては去っていく。そこまでしなくても大人しくしているのに、とイブリンは思っていた。
しかしイブリンの体力が回復してくると、エドワードが来訪する回数がますます増えた。
まるで鳥籠の鳥ね――イブリンはそう思った自分に笑った。いや、おかしいわ。エドワード様は私を手放したくて仕方がないはずなのに
そう思っていたら、ある日エドワードに東屋で紅茶を飲まないかと誘われた。
「君は放っておいたら、すぐに仕事をしてしまうからな」
と、監視を兼ねた二人の小さなお茶会。
ケーキスタンドにはたくさんのケーキに焼き菓子にスコーン。エドワードは自分も手を付けながら、ジッとイブリンの様子を伺っている。
「わたくしの顔に何かついてますか?」
「いいや」
エドワードは首を振る。会話らしい会話もない。けれどいつもの氷のような刺々しい会話もない。イブリンは不思議な面持ちだった。
お茶会は毎日開催され、このままでは太ってしまうわ、と言ったイブリンにエドワードは「痩せすぎな君にはちょうどいい」と言われてしまった。
イブリンは意を決して尋ねた。
「わたくしは、いつになればこの家から出られるのですか?」
紅茶を飲んでいたエドワードの手が止まる。
「教会裁判所に出す必要書類がまだ纏まっていない」
「……そうですか。なるべく早くして下さいませ」
そう言った翌週に、またエドワードに尋ねると、「目撃証言者のリスト作成に手間取っている」と返される。
さらに翌週は「教会裁判所が返事を寄越さない」ときた。
さすがに我慢の限界がきたイブリンは、「わたくしの方からも教会裁判所へ書簡を送りますわ」と宣言するが、エドワードは内容に行き違いがあると余計に時間がかかると却下した。
このままでは駄目になる――ぬるま湯の様な幸せな時間をエドワードと毎日過ごすたびに、心が揺らいでしまう。
もう屋敷にマリアンは長いこと訪れていない。
ただ穏やかな日々は、イブリンの首を真綿で締めるようで落ち着かなかった。
イブリンが仕事部屋を訪れようとした時、目敏い侍女エルザは素早く察知して寝室へとイブリンを追い返した。
「もう体は何ともないわ。早く仕事をしないと……」
訴えるイブリンに侍女はベッドに座らせると静かに微笑んだ。
「お嬢様、エドワード様のことを今でも愛しておられますか?」
「な、なにを突然に……」
イブリンの目線に合わせて屈んだ侍女はなおも尋ねる。
「本当に離縁したいと、神に誓えますか?」
「そ……れは」
イブリンの瞳が揺らぐ。
「お嬢様はずっと我慢をしてまいりました。もう我慢をするのを止めてみませんか?」
侍女は立ち上がると部屋を出ていった。少しして侍女はたくさんの小箱を持って戻ってきた。
それらをベッドの上に置くと、それがエドワードが戦地から帰って来るたびに、土産として渡してくれたイブリンの宝物が入っている。
「これをどうして?」
「真実は案外近くにあるものですお嬢様」
侍女がいたずらっぽく笑う。
イブリンは小箱を開けると、思い出に浸った。これはルーベンとの戦争で帰還した際に頂いた指輪。金に複雑な模様が描いてある。
イブリンはまた別の小箱を開ける。これはセリスに赴いた時に頂いた髪飾り。ステンドグラスの様な繊細な飾りが付いている。
これは――そうして大切な思い出と共に小箱を開けていくと、ベッドから一つ小箱が落ちてしまった。イブリンは慌てて拾い上げようとしたが、小箱の底板が外れてしまったのに気付いてベッドから降りて小箱を拾い上げる。すると底板の下に何か紙片の様な物が見えたので、イブリンは底板を外してみた。
そこには小さな紙片が数枚入っている。
インクの滲みに気付いて紙片を取り出すと、何かが書かれている。
『そろそろ帰還できる。君に会いたい』
イブリンの心臓が跳ねた。
残りの紙片を取り出して読んでみる。
『この土産を君は喜ぶだろうか。心配だ』
『君に触れたい。君に会って話がしたい』
イブリンは早鐘を打つ心臓を宥め、他の小箱の底板を次々に外していく。
『王都は冬だろうか。君が風邪を引いていないか心配だ』
『君とのケンカも楽しい。君の怒った顔も美しい』
『仕事に打ち込みすぎて体調を崩していないか心配だ』
『君の声が聞きたい』
『君と会えない日々がこんなに苦しいとは思わなかった』
『君が俺を嫌っていてもいい。ただ側にいてくれるだけで満足だ』
『今日も君の夢を見た。会いたい』
『会いたい』
――小箱全てから紙片が出てきて、そこには無骨な筆致でイブリンへの愛が溢れていた。
ぽとり、と雫が落ちて紙片のインクを滲ませる。
ぽとり、ぽとり……気付けばイブリンは涙で顔がくしゃくしゃになっていた。
「わたくしは……わたくしはこんなにもエドワード様から愛されていたのね……どうして彼を信じなかったのかしら」
侍女はそっとハンカチを差し出した。
「不安が目を曇らせる事もあるのです。他人の言葉に惑わされることも」
もっとエドワードの話を聞けばよかった。マリアンと婚約関係にあったのか、あの日にきちんと聞いていれば、こんな事になっていなかったはずなのに。
「わたくしは何て愚かなのかしら。一人で思い込み、疑心暗鬼に陥ってエドワード様にきつく当たり散らして……あぁ、なんて醜く愚かな女なの!」
エドワード様に会いたい。会って話がしたい。
激情のままイブリンは部屋を飛び出した。するとエドワードが階段を登ってくる最中だった。
「エドワード様!」
イブリンの叫びにエドワードは顔を上げる。イブリンは階段に向かって走った。
そして何の迷いもなくエドワードの腕に飛び込んだ。
エドワードは驚きつつ、鍛え上げた逞しい体で、しっかりとイブリンの体を受け止めた。
「エドワード様! わたくしはとても愚かな女でした……。他者の言葉に惑わされ、真実を知るのが怖くて、エドワード様がいつでも離縁できるようにと、姑息な真似をしていました。わたくしは、わたくしは……!」
エドワードはイブリンを抱いたまま、階段を登った。
そしてそのまま彼女の寝室に向かって扉を開けると、ベッドの周りに散乱している自分が書いたイブリンへの思いの丈が綴られた紙片の数々に顔を赤くした。
「……見つけたのか」
「見つけてしまいましたわ。エドワード様の大切なお言葉の数々を……」
エドワードはソファーにイブリンを座らせると、侍女に羽織るものを持って来させて肩に優しくかけた。
「どこから話をすればいいか」
悩むエドワードにイブリンがおずおずと口を開く。
「今までのことは、わたくしの誤解から始まったことなのです」
「誤解?」
「えぇ。婚礼の儀の時に、とある伯爵夫人から聞かされたのです“エドワード様とマリアン様が昔婚約していた”と」
「なんだって? そんな事実は無かったぞ」
エドワードの顔が歪む。
「わたくしはそれを真に受けて、エドワード様がいつでもマリアン様のところに行けるよう、悪女になると決めたのです」
「……それが、あの派手な行動だったのか」
「えぇ。わたくしの悪評が立てばエドワード様から離婚を切り出しやすいと思ったのです」
エドワードは呆れた顔でイブリンを見ている。だがその瞳はとても柔らかかった。
「もっと早くに聞いてくれたら良かったものを……」
「わたくしの不徳のいたすところです」
頭を下げるイブリンをエドワードは止めた。
「俺も悪かった。お前の言葉に耳を傾けず、傷つけるような事ばかり言ってきた。本当にすまない」
軍人らしくエドワードは潔く頭を下げた。
「おやめになってください! 元はわたくしが悪いのですから」
「いや、マリアンを好き勝手にさせていた俺にも責任がある」
その名を聞くとイブリンの心はじくじくと痛んだ。
「その……マリアン様とは本当に幼馴染で?」
「当たり前だ。マリアンは幼い頃に父親を戦地で亡くしてな。家も近かったし親同士も仲が良かったから、俺はマリアンを慰める為に相手をするようになった」
昔を思い出すようにエドワードは遠い目をした。
「寂しかろうと、好き勝手にさせていたのが悪かった。奔放に育ったマリアンは、時に貴族のマナーを忘れることがあった」
そこでエドワードは言葉を区切ると、イブリンの艷やかな黒い髪をひと束摘み上げた。
「マリアンは俺にとって我侭な妹の様な存在だった。それと……」
イブリンの髪がエドワードの手からするりと滑り落ちた。
「先日、告白されたが、もちろん断った」
その場面を想像するだけでイブリンの胸は痛みを訴える。
「すべては俺のせいだ。雪の中で倒れていたお前を見た時……心臓が止まるかと思った」
その事実だけでイブリンの胸は熱くなる。
「もう俺のそばから離れないでくれ」
「ですが、わたくしはもう離縁された身ですので――」
「あぁ、その事なんだが……」
珍しくエドワードが言いづらそうにしている。不思議に思ったイブリンは無意識にエドワードの無骨な手に自分の手を重ねていた。
「教会裁判所に離婚の書類は送っていない」
「え! それでは……」
「そうだ。俺達はまだ夫婦のままだ。それは嫌か?」
「嫌だなんて、そんなこと……!」
またもやイブリンの瞳から大粒の涙が零れ落ちてくる。
「そんなに泣くな。君が泣くと、俺はどうすればいいのか分からなくなる」
イブリンの目元をハンカチで拭うエドワードを享受しながら、涙は止まらない
「……悪女をやめてもいいのですか?」
「元より必要なかった」
「旦那様はこんな愚かなわたくしでも愛して下さいますか?」
「それを言うなら俺の方だ。君の真実を知らずに、マリアンを好き勝手にさせた罰を受けなければならない」
イブリンは両手でそっとエドワードの頬を包んだ。
「どんな罰でも……ですか?」
「二言はない」
「……でしたら」
イブリンはエドワードの頬を包んだまま、そっと身を乗り出すと、彼の薄い唇に口づけを落とした。
「これでは罰にならんぞ」
耳まで真っ赤になっているイブリンに、エドワードは愛おしさがこみ上げる。
「わたくしはこれで十分ですわ……」
「なら、君のしたいことを言ってくれ。何でもする」
「わたくしのしたいこと?」
「あぁ」
イブリンはソファーから立ち上がると、言い出しにくそうに指先を弄っている。
エドワードはそんな愛らしい妻の姿を堪能している。
「あの、立っていただけますか?」
「わかった」
ソファーからエドワードも立ち上がるとイブリンと向き合った。立派な体躯に比べれば、平均的な女性より背が高いイブリンですら子供のようだ。
「あの……わたくしの背中に手を回してください」
言われた通りエドワードがイブリンの華奢な背に手を回す。
「次はなんだ?」
「そ、そのまま……わたくしを抱きしめてくださいませ」
イブリンの望むがままにエドワードはイブリンを抱きしめた。その腕は力強く、イブリンは天国にいるようだと感じた。
「やはりこれでは罰というより褒美だな」
「エドワード様……わたくしこんなに幸せでは罰が当たってしまいますわ」
「なら君の罰を俺が引き受けよう」
二人は抱き合ったまま、互いの愛を確認していた。
すれ違いの果てに見つけたのは――真実の愛。




