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6.


 


「ご機嫌ようイブリン様。あら、今日はあの殿方とご一緒ではありませんの?」


 屋敷の中を近頃、平然と闊歩するようになっていたマリアンが、廊下ですれ違いざま、わざとらしい笑顔で声をかけてきた。


「今は父の仕事を優先的に手伝っておりますわ」




 エドワードのイブリンへの冷たい態度は以前よりも酷くなっていたし、小さな衝突も絶えなかった。

 唯一の楽しみであった食事の時間でさえ、イブリンを苦しめる要因になった。


 イブリンは苦痛に晒されながらも、決して悪女の仮面を捨てず、夫の言いつけも守らず仕事に没頭し、夜会に参加した。


 わたくしが苦しんでもいい。どれだけ悪評が立とうとも、わたくしは決して折れない――折れてはいけないの。

 好都合ではないか、これだけ悪評が立てば旦那様も離婚を切り出しやすくなる。


 イブリンは仕事部屋から裏庭で楽しげに笑い合う、エドワードとマリアンを見下ろしていた。マリアンは既にこの屋敷に溶け込み、イブリンの大切な時間だった食事の時間でさえ同席し、エドワードの執務の合間を狙って接触して、思うがまま振る舞っている。

 エドワードはマリアンを余程大切にしているのか、マリアンの多少の我侭なら許容している。


(……これではどちらが女主人か分からないわね)


 マリアンの金色の髪に触れるエドワードを見ながら、胸の奥が静かに軋む。




「お嬢様、少しはお休みになられてくださいませ」


 侍女エルザが心配そうに主人に進言する。


「大丈夫よエルザ。最近仕事がとても捗るの」


 商会から送られてきた品物を選別しているイブリンの口調は軽いが、その顔色は青白く、目の下には濃い影が落ちている。

 最近は社交の場に出る以外は、ほとんど屋敷に篭って仕事をしている。寝る間も惜しんで。

 侍女や執事は胸を痛めていた。狂い始めているこの屋敷が、正常に戻るように願うばかりであった。


 そして――ハートフォード商会の大口顧客であるシャーロット・ペンブルック侯爵夫人の夜会に参加することになった。

 今回はエドワードには声をかけず、一人で参加するつもりだった。

 ドレスと宝飾品の選別にはいつも以上に気を使った。侯爵婦人の目利きは確かなもので、下手なものは身に付けてはいけない。

 イブリンはますます忙しさに、その身を投げ出した。




 パーティー当日、イブリンは顔色の悪さを隠すために、いつもより厚めの化粧を施し、口紅も悪女イブリンに相応しい濃いめの紅を差した。

 髪は片方だけ纏め上げ、もう片方はゆるく巻いた。

 ドレスは真紅のAラインのワンショルダー。大胆に右の肩口が開いていて、左肩口には薔薇を装ったモチーフが付いている。

 スカート部分はラッフルになっており、幾重にもサテンの布が折り重なり波打つ豪奢なものになっていた。

 悪女としての鎧を、隙なく纏う。

 準備が終わると、侍女が外套を着せる。


「赤の手袋を」


 侍女から手袋を受け取ると、イブリンは部屋を出た。今日はいつもより屋敷が妙に静かだと気付いたとき、侍女が「マリアン嬢はお出でになっておりません」と主人の心を読んで耳打ちする。


 ――今さら関係ないわ。もう少しでわたしはこの屋敷から追い出されるのだから。


 馬車に乗り、侯爵婦人の屋敷に向かう。雪が降っている。どおりで寒いはずだ。

 イブリンは腕で自分を抱きしめた。

 ペンブルック邸に着くと、雪を纏った玄関先は、馬車と客であふれていた。

 イブリンは馬車を降りると玄関に向かい、招待状を出した。

 中に入ると人いきれと熱気でむっとしていた。

 屋敷の中にはさり気なく調度品が置かれており、どれもが一級品だと分かる。絵画も調度品と釣り合いが取れるような物を飾ってある。全てが完璧に調和していた。


「あら、イブリンじゃないの。久しぶりね」


 現れたのはシャーロット・ペンブルック侯爵夫人。気品漂う笑顔が似合う女性だ。

  彼女はエンパイアドレスを上品に着こなし、イヤリングもネックレスもドレスに合う繊細な物だった。


「今日はミスター・エドワードとはご一緒ではないのね」


「不躾で申し訳ありませんペンブルック侯爵夫人」


「いいのよ、謝らないでちょうだいな。あなた一人だけでもこの場がグッと華やかになりますもの。ハートフォード商会の方は順調でして?」


「はい。お陰様でペンブルック侯爵夫人が我が商会をご愛顧してくださるので、他のお客様が夫人が手にしたのなら間違いないと、皆様お買い求めになられますの」


「まぁ、お上手ですこと。また商会に寄らせていただくわ。では今宵を楽しんでくださいな」


 去っていく侯爵夫人に軽く頭を下げたイブリンに、果敢に声をかけてきたのはエドワードと同年代くらいのスマートな紳士だった。


「今日はお一人で? もしよろしければ私がエスコートする栄誉に預かりたいのですが」


「まぁ、大胆なお方ですこと。ですが今宵わたくしは一人を楽しみたい気分ですの。申し訳ありませんわ」


「そうでしたか。それでは失礼致します、ミス・ブラックウェル夫人」


 イブリンが独り身でないと分かっていても、蜜に群がる蜂のように、男たちは彼女に引き寄せられてしまう。そしてその蜜が毒の華だと気付いた時にはもう遅い。いつの間にか絡め取られて毒に酔いしれ離れられなくなる。

 それがいずれハートフォード商会へ導かれる蜂たちの運命だった。


 とその時、入り口付近が騒がしいのに気付き、何事かと思って見てみると、そこには二人の男女がいた。


「エドワードに……マリアン?」


 イブリンの心臓が凍りつく。

 招待状など渡していないはずの夫が、よりによってマリアンを伴って現れた。

 イブリンに気付いたマリアンが無邪気に手を振る。


「やっぱりイブリン様もいらしたのね!」


 エドワードの腕を引き近付くマリアンは喜色満面であった。

 隣のエドワードは呆然としている。


「どうして君がここにいる」


 エドワードが眉をひそめる。


「それはこちらの台詞ですわ旦那様。パーティー嫌いの旦那様がお越しになるなんて、思いもよりませんでしたわ。しかもマリアン様と」


 冷え切った声が口をつく。

 マリアンは悪びれもせず笑った。


「招待状を頂きましたの。でも一人は心細くて……エドワードが付き添ってくださったのです」


 マリアン嬢は自分が何をしているのか理解しているのだろうか?

 既婚男性とパーティーに参加し、その上その男性の妻が同じパーティーに参加していたのだ。普通なら事前に確認を取るべき事である。


 (……わかってやっているわね、この人)


「こんばんは旦那様。社交の場が苦手でおられるのに、マリアン嬢となら平気ですのね」


 イブリンの言葉は冷たく凍てついている。

 エドワードは少し気まずそうにしつつ、イブリンを責めた。


「君こそ私に声をかけるべきだった。そうすれば俺は同行した。それを怠ったのは君の方だ」


「わたくしが悪いとおっしゃりたいの?」


「あぁ、今までも一人で夜会に参加していたではないか。どうせ見知らぬ男を侍らせて楽しんでいたのだろう?」


 イブリンの心に氷の刃が突き刺さる。


「そのように思ってらしたのね。ならば早く言って下さればよかったのに。わたくしを遠ざけたければ、こんなまどろっこしい真似をせずとも、直接お伝え下さればこの様な事態は避けられたはずですわ」


「大声を出すな、みっともない。そこまで気にするなら、今宵は君をエスコートしてやろう。それなら満足か?」


 マリアンから離れようとすると、彼女はエドワードの腕に縋った。


「エドワード様、私との約束をお破りになりますの? 私一人ではどうすれば良いか分かりませんわ」


「だそうよ、旦那様。わたくしと違って一人で夜会を渡り歩くのが不安なマリアン嬢に付いてあげればよろしくて? わたくしは一人でも楽しめますので」


「そこまでしてこの俺と共にいるのが苦痛なのかイブリン」


「えぇ、苦痛ですわ。何を言っても嫌味しか返さない人と一緒にいて、何が楽しいとお思いで?」


 エドワードの顔が苦痛に歪む。片方の拳をきつく握りしめている。

 一方イブリンは激情に駆られたままエドワードを責め立てた。それを見ているマリアンの目が笑っているのにイブリンは気付いていた。


「旦那様にわたくしの苦しみなど分かりは致しませんわ。分かろうともされませんものね」


「君は俺に隠し事ばかりで、何も言わないではないか」


「隠す? わたくしが何を隠すと仰ってるのか分かりませんわ。隠し事がお有りなのはむしろエドワード様の方では?」


 ちらりとエドワードの腕に絡みつくマリアンをイブリンは見遣った。


「マリアンの事を言ってるのならお門違いだ。彼女はただの幼馴染だ」


「本当かしら? 私といるより余程安らかな顔をしておられるではありませんか。そんなにわたくしの顔を見るのがお嫌なら、そろそろはっきりと仰ればよろしいのでは?」


「俺が何を君に言えと言うんだ」


「それはわざとですか? お前の顔は見たくない、家を出ろと一言仰るだけで全て解決致しますわ」


 エドワードの顔が強張る。


「……君は離婚を望むのか」


「さぁ、どうでしょう? 少なくとも旦那様はわたくしがいなくてもマリアン様がおられますでしょう?」


「そんなに……俺といるのが嫌だと言うのか」


「少なくとも、こうして無為な言い争いをしなくて済みますもの」


「そうか。それほどまでに君は俺を嫌っていたのだな……ならば君が望む言葉を言ってやる」


 イブリンは深く息をした。


「君とは離縁する。……これで満足か?」


「……えぇ、とても」


 エドワードの腕に縋るマリアンが隠すことなく微笑んだ。


「わたくしがいたら楽しいパーティーも台無しになりますわ。帰らせていただきます」


 二人の遣り取りを見ていた者たちが、好奇心を隠すことなく周りを囲んでいる。

 イブリンはその輪を抜けて、ペンブルック邸を出ていく。


 イブリンは馬車には乗らず、歩いた。吹雪の中、前すら見えないのにひたすら歩き続けた。外套もなく、むき出しの肌が刺すように痛む事さえ、今のイブリンには心地よかった。


 ――やっと……やっと苦しみが終わるのね。エドワード様は私という呪縛から逃れられて、晴れてマリアン嬢と結婚できるわ。

 もう、わたくしの役目は終わり。

 静かにただ去るのみ。足掻きもせず、黙って静かに。


 イブリンの膝が崩れ落ちる。体が凍えて何も感じなくなっている。

 動かしにくい両手を胸の前で握りしめ、ただただ神に祈った。


 あぁ神様、どうかエドワード様がマリアン様と幸せに慣れますように。

 どうかエドワード様に明るい未来が待っていますように。

 その為に、わたくしはこの身をあなたに捧げます。


 どうか……お幸せに、エドワード様。


 

 

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