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1.


 


 イブリンの部屋は様々なもので溢れ返っている。

 たくさんの地図、幾枚もの交易図、交易品のやり取りを記した手紙の束、帳簿に秤、インク瓶に羽ペン。

 それら全てが彼女が「ハートフォード商会」として働く女主人の姿を表している。


 部屋の主はラフィール更紗に鋭く目を走らせている。手触り、縁のほつれ、微かな色ムラ、商品として売るには見逃せない欠点だ。王都の客に売れる品質ではない。


「……うーん、これはダメね」


 手元の羊皮紙にペンを走らせる。


「色味が二段階薄い。次の入荷は混率を確認して、見本と違えば受け取らない。代金も保留――」


 宛名を書き封蝋を押す。さて次は――

 その時、部屋のドアがノックされ、イブリンは入るよう言った。


 顔を出したのはこの屋敷の執事フォスターだ。


「イブリン様! エドワード様が……お戻りです!」


 イブリンの心臓が跳ねた。ペンを置き、机の上の書類を素早くまとめ、あとは侍女に預け、真紅のショールを羽織り、侍女に命ずる。


「手袋は、象牙色の……」


 侍女の差し出す手袋をはめながら、鏡で髪の乱れを整える。そして口紅をひと塗り。


 ――落ち着きなさいイブリン。これはただの帰還の挨拶よ。いつも通り悪女の仮面を被らなければ……。

 そう言い聞かせても、指先はわずかに震えていた。


 階段を下りるごとに、ショールがふわりと揺れる。

 玄関の扉が開き、冷たい風が吹き込んだ。その向こう――


「……」


 戦場帰りの気配をまとった背の高い男が立っていた。鋭い輪郭、日焼けした肌、鍛えられた肩幅に短く切り揃えられた金色の髪。


 エドワード・ブラックウェル。夫であり、アッシュフォード子爵でもある。

 彼の蒼い瞳が、まっすぐにイヴリンを捉える。


「……帰った」


 短く言って、無骨な手から小さな包みが差し出された。

 イヴリンはそれを受け取り、口元だけで微笑む。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 ほんの一瞬だけ、本物の笑顔がこぼれた――けれどそれもすぐに、噂の「悪女」の仮面で覆い隠された。


「随分と遅い帰還でしたわね。この家の場所が分からなくなって、迷子になっていたのかと思っていましたわ」


 イブリンが嫌味を夫にぶつける。

 夫エドワードは慣れた様子で言葉少なに返した。


「放っておいたら妻に家を乗っ取られてしまうから、道行く人々にブラックウェル家の場所を聞いていたら遅れてしまった」


 売り言葉に買い言葉。慣れたやり取りは執事や侍女のみならず、屋敷の者みんなが知っているところだ。


「これを開けても……?」


「あぁ」


 先ほど渡された包みを開くと小さな小箱が現れた。蓋を開けると小ぶりなネックレスが入っていた。小さな石が一つだけのシンプルなネックレス。

 イブリンは石をシャンデリアの明かりに透かしてみた。薄い赤色と紫色がグラデーションになっていて、中央に星のような美しく煌めく石が閉じ込められている。


「まぁ、美しい石ですこと。ですが……このわたくしには少々物足りないですわ」


 イブリンが嫌味を言いながら、微かに震える手でネックレスを箱に戻す。


「気に入らなければ捨て置け」


 それだけ言うと、このブラックウェル家の主は階段を登っていった。

 戦地から帰還した夫との短いやり取りもいつものこと。


 イブリンは小箱を大切に胸に抱くと私室に戻る。


 ベッドに座るとイブリンはまた小箱からネックレスを取り出して、少女の様な顔で見つめている。


「エルザ、見てちょうだい! この美しさと繊細さ! 夜行星が閉じ込められている石は、とても貴重なのよ」


 感嘆の溜息をついた。


「わたくしのために、この様な素晴らしい品を選んで下さるなんて、なんて幸せなのかしら!」


 ネックレスを侍女に頼んで付けてもらい、鏡の前でくるりと回る。

 豪奢な真紅のドレスには見劣りするネックレスだが、イブリンにとってはどんな高級品のネックレスよりも大切な品。


「イブリン様、そろそろディナーの用意を……」


 侍女の言葉にイブリンは頬に手を当てた。


「まぁ大変! ディナーのドレスはどうしましょう」


「いくつかご用意してあります」


 侍女エルザがクローゼットから数着ドレスを出してきてベッドの上に並べる。

 そのどれもが悪女(・・)イブリンに相応しい、毒のある色合いやラインのドレスばかりだった。

 イブリンはその中から一番毒々しい、深い紫のドレスを選んで侍女に着せてもらう。


 そしてディナーの時間になるとイブリンは食堂に向かった。


 食堂には楕円形のテーブルが置かれており、キャンドルの炎が揺れている。

 テーブルの上には銀器が並び、湯気を立てるスープの香りが漂う。

 ――完璧なディナー。なのに雰囲気は氷点下。


「……塩が足りん」


 開口一番これである。


 イブリンはスプーンを口に運び、わざとらしく小さな溜息をついた。


「戦地の塩加減で判断なさらないで。ここは王都ですわ旦那様」


 笑顔を保ちつつ瞳は少しも笑っていない。今日も完璧な悪女の仮面をかぶるイブリン。

 エドワードは肩をすくめるだけだ。

 魚のムニエルが供されたとき、エドワードが反応する。


「魚はハートフォード商会の仕入れか?」


 旧姓を出すのはわざとか無意識か。

 イブリンは口元だけ笑みを作る。


「ええ、そうですわ。よくお分かりで」


 旦那様が嫌うあの“ハートフォード商会”。

 

 魚料理の次はローストが運ばれてくる。


 銀器が触れ合う音だけが響き渡る。

 エドワードが思い出したようにイブリンを見た。


「また遠征だ。今度は長くなるかもしれん」


 なんの感情もこもらない声音。どんな死地に赴こうと、勇猛果敢で知られるエドワードは揺るがない。


 イブリンは僅かに震える手でナイフとフォークを置き、静かに言う。


「……ご無事でお戻りくださいませ」


「……帰ったら、今よりましな事を言ってやる」


(ならば今言って下さればいいのに)


 イブリンは不満を表には出さず、笑顔で返すのみ。


 最後のデザートを食べ終えると、イブリンは「お先に失礼しますわ」と言うと、エドワードが短く「おやすみ」とだけ返す。


 短い会話でもイブリンには大切な時間。だけど長話は禁物。悪女はそんなことをしない。


 食堂から出て向かう先は寝室。勿論、エドワードとは別々になっている。

 結婚して二年が経つが、一度も二人きりで朝を迎えたことなどない。

 チクリ――胸が傷んでもイブリンは強固な意思で痛みを知らないふりをする。

 

 これが王都で噂されるアッシュフォード子爵夫人、イブリン・ブラックウェルの日常だった。

 

 

 

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