湊花町レモンチャツネと、悪役令嬢の昼休み
『湊花町レモンチャツネと、悪役令嬢の昼休み』
蝉の声が食堂の窓から押し寄せてきていた。
真昼の校舎は、冷房が効いているはずなのに、なぜか蒸し暑い。
窓際の陽光に照らされ、机の上の銀のスプーンはじんわりと熱を持ち、手のひらにまとわりつく汗を増やす。
──夏は、食欲と同じくらい体力を奪う。
そんな昼休みの喧噪のただなかで。
俺の目の前のカレーライスが、突然しゃべった。
「ふむ……悪くない香りだが、酸味が足りん」
俺はスプーンを落とした。金属音が乾いた空気を切り裂く。
「……は? え、何?」
「青春とはスパイスの饗宴。その皿の主役は私、カレーである!」
「いや俺はただ腹を満たしたいだけで……」
食堂にざわめきが広がった。
笑い声と驚きの声が混ざる中、壁際に備え付けられた食堂端末から、澄んだ電子音が響く。
「本日のお客様。会話するカレーは、追加料金が必要です。──ご冗談です、マスター」
「……メイドちゃん!?」
「私はどこにでもおりますので。マスター、まずは水分補給をどうぞ」
隣の席で、紅茶色のやかんが「ぷしゅう」と蒸気を吹いた。
誰も触っていないのに、取っ手が小さく揺れている。
「……あんまり焦らすと、冷めちゃうよ。ごはんも、気持ちも」
──ミルクティーの彼女だ。今日はなぜか、厨房から抜け出してここに居座るらしい。
俺の胃袋は、暑さと空腹で限界を訴えていた。
だが次の瞬間、ヒールの高い音が食堂全体を凍りつかせる。
「庶民! また妙なことをしているのね!」
食堂の入口に立っていたのは、学園きっての悪役令嬢──
カトリーヌ・フォン・ミナトカ。
夏の光が後ろから差し込み、彼女の糸のような金髪を透かして輝かせていた。
白磁のような首筋には、ほんのりと汗が浮かんでいる。
扇子でゆるく風を送りながら、扇面の向こうから挑発的に俺を見下ろしてくる。
その仕草は気高く、同時に色気すら帯びていて、周囲の男子生徒から「おお……」とため息が漏れる。
「庶民の料理が喋るなんて! ミナトカ家の名にかけて許せませんわ!」
「お嬢様。あなたのお言葉、酸味が不足しておりますぞ」
「なっ……!?」
彼女の赤い唇がかすかに震える。
甘い香水の香りが、暑さに混ざって広がり、俺の意識を鋭くぼんやりとえぐる。
汗を指先でぬぐう仕草でさえ、周囲の視線を奪っていった。
「決闘だ!」
誰かが叫び、食堂は一瞬で観客席に変わった。
端末のAIメイドちゃんが冷静に告げる。
「イベント発生──観客数、現在二百五十七名」
やかんが小さく蒸気を漏らす。
「……青春、熱いわね」
俺は空腹でフラつきながらも、この茶番の渦中に巻き込まれていた。
「喋るカレーなんて、聞いたことがありませんわ!」
「現にここに存在しておるぞ」
「……そうですわね。」
21分38秒経過。
「品格のない料理など不要ですわ!」
「しかし、酸味なき人生は退屈ですぞ」
「うぅ……っ」
カトリーヌが視線を俺に投げる。
その瞳は熱を帯び、挑むようでいて、どこか縋るようでもあった。
──いや、俺の空腹が見せる幻覚かもしれない。
結局、「勝者:カレー」が宣言され、俺は昼食を失いかけた。
だがその瞬間。
「……仕方ありませんわ」
カトリーヌは小さく息を吐き、懐から小瓶を取り出した。
透明なガラス越しに、金色のソースが光を受けてきらめく。
「これはミナトカ家特製、湊花町産レモンのチャツネですの。庶民、ありがたく受け取りなさい!」
「えっ……いいのか?」
「い、言っておきますけど! これは余ったレモンの有効活用ですの! わ、わたくしはあなたのためになんて……!」
その白い手袋に汗が滲み、瓶を差し出す手がわずかに震えているのを、俺は見てしまった。
俺はスプーンにチャツネを添えて口に運ぶ。
レモンの爽やかな酸味とほのかな甘さが、カレーのスパイスに重なり──思わず息を呑むほど美味い。
「……うまい!」
「で、でしょう!? わ、わたくしの舌が保証いたしますわ!」
「ふむふむ。恋にも酸味を混ぜると、こうして甘美になるわけですな」
「だ、誰が恋なんて──!」
耳まで真っ赤になるカトリーヌ。
汗ばむ首筋、胸元に落ちた一滴の汗が陽に光る。
観客のざわめきが熱気となって渦巻き、俺の頭もクラクラしてきた。
やかんが「ぷしゅう」と蒸気を吐き、ぽつりとつぶやく。
「……デザートは、まだ残ってるんですよ」
AIメイドちゃんは淡々と記録する。
「温度上昇。青春指数──限界突破」
……ついでにクマちゃんも「ポテェエエ」と言いながら、暑さで床に伏せていた。
俺はスプーンを手にしたまま、彼女の差し出す視線に気づいた。
──けれど、その先をどうするかは、俺にもまだわからない。
ただ一つだけ言えるのは。
真夏の食堂で、カレーも恋も、ほんの少しの酸味で、こんなに心をざわつかせるんだということだった。
(完)
「あの日、“しゅわ”っと、心に残った酸味……あれは確かに、本物だった」