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彼と彼女(二)

 中学校に上がり、別の小学校からの生徒が増え、三クラスになった。彼と彼女は一年一組だった。

 二つの小学校の生徒が一つの教室に押し込められる。それは生徒各自の立場の変化を意味した。

 強い立場から蹴落とされた者は新たに弱い者を見つけて相対的に強くなろうとした。その弱い者ももっと弱い者を見つけ、強い者の矛先を自分からそらそうとした。こうして必然的に最も弱い者がスケープゴートになった。一組の場合は彼女がそうだった。

 いじめはまず女子から始まった。彼女と同じ小学校だったある目立たない女子は、別の小学校から来た二人の女子に背中を押され、嫌々ながら彼女にこう言った。

「あれ? 何か変な匂いしない?」

 すると後ろで見ていた二人も彼女に近づき、鼻をひくひくさせ、「確かに!」とうなずいた。

「トイレみたいな匂いがする!」

「ちゃんと体洗ってるの?」

「え、えぇ……」

「じゃあどうしてこんな?」

 最初の目立たない女子は芝居がかった声で、「あぁ分かった! これはあの臭い駐車場の匂いだ!」と言った。市営住宅の駐車場には浄化槽があり、その悪臭は住民はおろか近くを通る小中学生をも悩ませていた。

「そうか、あそこに住んでいるから臭いのか!」

 根拠のある「臭い」は、彼女をいじめる格好の口実になった。同じ市営住宅で暮らす数人のクラスメートは内心ビクビクしながら事の成り行きを見守っていた。以後、女子たちは教師に隠れて彼女を「くさ子」と呼ぶようになった。

 彼女は真剣に悩んだ。学校に行く前に制服に消臭スプレーをかけ、浄化槽に近づかないよう遠回りをして敷地内から出た。実際に異臭が服や体に染み込んでいるはずなどないのだから、それで周囲が臭いと言うのをやめることはなかった。

「くさ子は臭いからあっち行って」

「近づかないでちょうだい!」

 男子たちは面白くなさそうに観察していた。しかし男子の中で有力なグループが、最初に彼女をいじめようとした二人の女子から「あの子、本当に臭いよね?」と言われ渋々うなずくと、一気に風向きが変わった。彼女が臭いということはクラス内の既成事実、常識になった。

 彼女は学校に行きたくなかった。しかし行かなければ家でもっとまずいことになる。彼女は嫌がらせを覚悟の上で行くしかなかった。

 ついに彼女の心を折ったのは彼の態度だった。

 そのころクラス内では、「くさ子」と呼ぶことで自分が彼女の仲間ではない、つまり「みんな」の側であることを証明するという、踏み絵のようなことが行われていた。それは立場の強い男子から弱い男子へと緩慢に蔓延していった。最後に残されたのは、誰とも適度な距離を保ち親しく付き合える、いわば中立地帯にいる彼だった。だがたとえ彼であっても治外法権を手にしていたわけではなく、同調しなければたちまちいじめの対象になる恐れがあった。

「くさ子なんて呼んだらかわいそうじゃん」と彼はおどけた調子で言った。

「だって実際臭いんだからしょうがねえよ」

「まさかお前にはこの臭さが分からないのか? 嗅いでみろよ」

 彼は彼女の席に歩み寄り、鼻をくんくんさせた。

「それほどじゃないだろ」

「お前、こんな女をかばうのか?」

「ひょっとしてこいつを好きだとか?」

「冗談じゃない。仕方ないな、呼べばいいんだろう」と彼は言い、節をつけて「く、さ、こ、ちゃん」と呼んだ。

 いじめより前からずっとこらえていた涙もまとめて彼女の両目から溢れ出した。二人の男子は急にしらけ、「お前が泣かせたんだからな」と彼を責めた。

 彼女は情緒不安定になった。不安定というよりは制御を失った。彼女はただ自分の情緒が目まぐるしく変化するのを傍観するしかなかった。一カ月もしないうちに、彼女は感情の浮き沈みのカーブが見えるようになった。あと三十分も我慢すれば自分は世界一幸せな人間になれるが、それからまた三十分もすれば世界一不幸な人間になるのは明白だった。幸福のピークに立ちながらも彼女は崖下への転落を恐れた。泣きながら笑い、笑いながら泣いた。教師はそんな彼女を見て見ぬふりし、授業中にあえて彼女を指名しようとしなかった。

 例のカーブが下向きな時、彼女はどうしても登校する気になれなかった。出た家に戻るわけにもいかず、仕方なく川沿いを学校とは反対方向に歩いていった。

 晩春の快晴の日で、まだ雀がチュンチュンとさえずる時間帯だった。通学中の生徒から離れるほど朝の静けさが深まっていった。川の向こうの公園には猫を模した可愛らしいバスが停まり、保護者と職員に促され小さな子供たちがステップをのぼっている。小中学生と違いまだ苦労を知らない気楽な園児たちは朗らかな笑みを浮かべている。私にもあんな時代があったのかと思っただけで涙があふれ出す。バスが去り、保護者が去り、無人の公園が残る。あそこも私の居場所じゃないと思い、人気のない方へ、暗い方へと歩き続ける。

 一日の休憩で事態が好転することはなかった。彼女の不在により不利益を被った級友たちが待ち構えていたからだ。

「なんで学校をサボったのよ」

「お前がいなくてヒマしてたんだぞ」

 その日の放課後、彼女は数人の女子に物置の裏に強制連行された。そこで彼女は言葉と体の暴力をさんざん振るわれ、ついに彼女たちに言われるまま、差し出されたタバコを口にしてしまった。激しくむせ、めまいと吐き気がし、胸がむかむかした。

「親や先公にチクったらどうなるか、分かってるわね」

 学校を休めば事態がさらに悪化すると分かり、彼女は涙が止まらなくても無理に学校に足を向けた。タバコを吸ったので、自分は肉体的にも精神的にも廃人になったと思った。一回だけで中毒になったらどうしようと本気で悩んだ。この罪悪感は例のカーブの高低差を激しくし、横の間隔を短くした。ひどい時など歓喜の余り、授業中も痛々しい笑みを浮かべながら、「あぁ、ずっとこの幸せな時が続けばいいのに」と口走るほどだった。

「あいつマゾじゃねえのか?」

「喜んでもらえるなんてやり甲斐があるじゃない。もっと激しくしてあげましょう」

 中毒になったのはタバコではなくサボりだった。もう一日ぐらいいいだろうと思ううちに、つい何日も続けて休むようになった。学校から家庭に連絡が行くことはなかった。

 久しぶりに登校すると、彼女の持ち物がいくつかなくなっていた。机には落書きが増え、中には腐った果物が入っていた。彼女は他人事のように「面白い」と思った。そっちがその気ならばこっちだってと危うい幻想を抱いた。

 級友に捕まらず一人で下校する時も、彼女は真っ直ぐ家に帰れなかった。乱れた心を落ち着かせ、家庭内の別の厄介事に立ち向かう勇気を奮い起こす時間が欲しかったから。

 夕日はいつも彼女を癒やした。橋に寄りかかりながら見る川面は、山の向こうに沈みゆく太陽の暖色を照り返し、彼女の頬を濡らす涙を乾かした。その穏やかに流れる川のとろけるような光を見ながら、自分もこんな心を持ちたい、こんな心の人と出会いたい、こんな世の中に飛び込みたいと願った。

 川面の一部が急に暗くなり、橋の上に立つ彼女の影の隣にもう一つ影が増えた。恐る恐る振り返ると、そこには彼がいた。

 彼の影は直立するもう一つの影に向かい何度も頭を下げた。一瞬、川の流れが止まり、また流れ出した。静止するもう一つの影は弛緩し、顔を横に振った。二つの影はしばらくそこに立ち尽くし、徐々に斜めに長く伸びていった。

「おれがきっとなんとかするからもう少しがんばってくれ」

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