彼と彼女(一)
彼女にとって、彼はたった一つの太陽だった。雲によって見え隠れし、夜は山の彼方に姿を消し、朝は地平線から昇り新しい光をもたらす太陽だった。
森山市は広い。首都と新幹線で直結する駅前は都会の雰囲気がそこはかとなく漂うが、駅から離れると寂れ、居酒屋や風俗店が営業を開始する夜までひっそりしている。駅周辺よりも、市内各所のショッピングモールや、その付近で新たに開発された住宅街のほうが賑やかだ。そういった郊外の一つ、南富岡も近年になり地価がぐんぐん上がってきた。南富岡に住む低所得者は古くからある市営住宅の住民と決まっていた。
彼女はグレーと四角の無機質な建物の中で暮らしていた。彼女の部屋から見える窓外の景色は一年を通じほとんど変化しなかった。整然と並ぶ鈍色の建物、目立たない中古車が並ぶ駐車場、雑草が生え放題の公園、若い住民の切羽詰まった表情、年老いた住民の粘っこい笑顔。
市営住宅の敷地の外は別世界だった。春は細い川沿いに桜が咲き、夏は児童公園から子供の花火が上がり、秋は銀杏が金に色づき、冬はクリスマスの電飾がまぶしい。高級住宅を出入りする住民は大人も子供も余裕のある笑みを浮かべる。川はこちら側と向こう側を隔てる貧富の格差を示す壁や線のようだった。
小学校の登校班も無論別々だった。市営住宅の班はたいてい、住宅街の班よりも遅めに出発し、道端に立つ住宅街の保護者に見張られながら後ろの方をとぼとぼ歩いた。学校に入るまで双方が交わることはなかった。
放課後の時間は自由だった。市営住宅から住宅街の一戸建てに遊びに行くのは、容姿、性格、話術、成績、運動などの長所を持つ魅力的な子供だけで、彼女はその中に含まれなかった。彼女は自室から、市営住宅内の公園のブランコをこぐ「パッとしない」子供たちを見下ろしながらぼんやりし、しきりにため息をついた。
彼女は家にいても学校にいてもゆううつだった。自分で居場所を作ることができないので、自分の殻の中に閉じこもるしかなかった。彼女は外界に心を向けなかった。
そんな彼女にあえて近づこうとする人はいなかった。彼女がいなくても彼らの時間は支障なく流れていった。彼女の存在を無視することがクラスの自然体であり、彼女に関心を示せばクラスの常識に反した。彼女と接するためには小さな勇気が必要だった。
小学校は二クラスしかなかったが、彼女が彼とクラスメートになるのは六年生が初めてだった。彼女は彼のことをよく知らず、それは向こうもそうだった。だから隣の席になった彼は彼女に気軽に声をかけた。
「今日からよろしくね」
「え、えぇ……」
彼は人気者だった。背は高い方ではないが運動神経バツグンで、ルックスが良く、気品があり、誰にでも愛想よく笑顔を見せた。周囲も彼のことを放っておかず、彼を中心に話に花を咲かせた。そのせいで彼女は自分の席に居づらいことが多かった。昼休みは仕方なく図書室に身を隠した。
授業が終わっても彼女は真っ直ぐ帰宅せず、川沿いをのろのろ歩き、できるだけ時間をかけた。いつも目を伏せているので、気温の高低や川面に反射する日差しの強弱によって季節の変化を感じた。厳しい残暑が終わり、秋が深まり冬に向かうにつれ、彼女の細めた目が次第に大きく開かれていった。彼に後ろから呼び止められたのはその時だった。
「この近くに住んでいるの?」
「う、うん」
「じゃあ途中まで一緒に帰ろうか」
彼は彼女に合わせゆっくり歩いた。彼女は相変わらず自分の足元ばかりを見ている。彼は彼女の顔を覗き込むようにして話しかけたが、迷惑そうなので口を閉ざした。やがて左手を流れる細い川にかかる橋の前にたどり着いた。左に曲がりこの橋を渡る人は住宅街の、曲がらず直進する人は市営住宅の住民だ。彼は橋の前でまごついている彼女を見ながら、「じゃあ、また明日ね」と言い、橋を渡っていった。
翌日の下校中、彼女は「また明日」の意味を知った。彼女がまた時間をかけて歩いていると、彼が後から追いつきこう言った。
「やぁ。途中まで一緒に帰ろう」
だが、その機会は少なかった。彼は学校に残り誰かと話し込んだり、別の友達と一緒に帰ったりするので、彼女ばかりに構っていられなかった。
彼女の目に入る世界が少しだけ広くなった。彼の姿を求める彼女は、足元から視線を徐々に上げていった。川の向こう側では、楓や銀杏が青空の下、燃えるように色づいている。山の頂上付近では白雪が神々しく輝いている。そこから自分の斜め後ろに顔を向け、目の端についに彼と思しき人影を認めると、彼女は慌てて顔を前に向け直し、できるだけ自然に歩いた。
彼はゆっくりと彼女との接し方を覚えていった。何か質問をしても「えぇ」「まぁ」という返事しかないが、それは彼女が自分を拒絶しているわけではなく、言葉のキャッチボールに慣れていないだけだと知った。だから彼は辛抱強く彼女の変化を待った。
「うん? なんだって?」
彼女の声が小さく、またお決まりの返事でもなかったので、彼は聞き逃してしまった。もう一度はっきり聞こうと、彼は左を歩く彼女との距離を詰めた。彼女はさっきまでの距離を保とうとしたが、ガードレール側に追い詰められてしまった。
「な、なんでもないの」
後ろから見れば奇妙な光景に見えただろう。彼らはその後の日々、道の片側に寄っては中央に戻るを繰り返しながら下校した。やがて互いに相手に慣れ、道を左右にふらつく頻度と幅が減り、ほぼ直線上を歩けるようになった。
「きみは学校の授業は何が好き?」
「国語かな……。えぇっと、あなたは?」
「おれは体育と図工だ」
「……あなたはきょうだいがいるの?」
「おれ、一人っ子なんだ。弟や妹がいたら良かったのになぁ」
「きょうだいなんて、そんないいものじゃないわよ」
「そうなのか? うちは父さんも母さんもおれに冷たいから、仲のいいきょうだいに憧れるよ」
「親と仲が悪いの?」
「というより、父さんと母さんの仲が悪いんだ。離婚するかもしれない」
「うちもそうなの。もうすぐ名字が変わるかも」
「おれも。なんか変な感じがするな」
彼らにもいくつかの共通点があり、仲間意識ができた。彼女は彼と一緒に帰れない時も、次はどんな話をしようと考え、慰められた。家族に関する愚痴ばかりではつまらないので、楽しい話題も提供しようと思った。好きな音楽、テレビ番組、有名人。彼女は世界への興味の幅を広げようとした。
彼と話をすることが彼女の生き甲斐になった。彼への感謝から恋心が芽生えようとしていた。彼女にとって幸せな日々が続いた。中学校に上がり、また彼と同じクラスになれた時、彼女は神に感謝した。