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記憶喪失者

「悠介、仕事は思い出してきたか?」

「なんとかね。仕事は頭じゃなくて体で覚えるものだから」

「いっちょまえのこと言いやがって。どれどれ……」と丈二は言い、悠介がパソコンで作成した表に目を通し、すぐにぷっと吹き出した。

「なんだこりゃあ? 計算がデタラメじゃないか!」

 悠介は言い訳をせず、舌で上唇をなめて照れ隠しをした。この仕草は今も昔も変わらないが、人に与える印象はまったく異なるようだ。

「袴田くん、相楽くんはまだ本調子じゃないんだから、そんな厳しく当たらないでちょうだい」

「そうよそうよ。新入社員だと思って一から教育し直す気にならないと。なんなら私が代わってあげようか?」

「ちょっとずるいよ梨奈!」

 袴田丈二は相楽悠介と同期入社だった。丈二はとりあえず三年働いてみたらけっこう居心地が良かったので、しばらくこの職場に厄介になろうとしていた。それにいま転職などしたら、子供のように純粋無垢になってしまった悠介の面倒は誰が見るのか。

 丈二も以前はそれほど悠介と親しかったわけではない。悠介は少し前まではかなり無愛想な男で、人付き合いが悪く、たまに飲み会などに嫌々参加してもプライベートに関しては一言も口にしなかった。彼のルックスに惹かれても、自分から話しかけようとする女性社員はいなかった。木崎眞奏を除いては。

 眞奏は丈二たちとの同期の中では一番の美人だった。かと言って何か特別な努力をしているわけでもなかった。彼女の飾り気のない自然美、やさしい雰囲気に癒やされる男性社員は少なくなかった。

 丈二もそんな彼女に想いを抱いていた一人だった。彼は、彼女が分け隔てなく悠介に接触を試みるのを忌々しそうに眺めていた。

「あんないけ好かないやつ、別に無視してもいいじゃん」

「同期のよしみなんだし放っておけないでしょう」

 眞奏が一言二言話しかけ、悠介が「うん、まあ」と返事するだけの関係が続いた。悠介が彼女をどう思っていたかは分からない。しかし今の彼は彼女になついているようだ。

「木崎さん。よかったら一緒にランチに行かない?」と、悠介が誘った。

 彼らの会社は人口四十万の地方都市、森山市にある。季節は梅雨の終わりで、この日も朝から雨が降り続いていた。悠介と眞奏は傘を差し、同じく昼食を取ろうと外に出てきた付近の会社員たちと並んで立ち、信号を待つ。襟の内側から這い出す湿気や体臭が傘の内側にこもり、空気をいっそう淀ませている。

 近くの大衆中華「来々軒」のドアを開けると、中から炒め物の香ばしい匂いがあふれ出した。眞奏はレディースランチを、悠介はお気に入りの麻婆天津飯を注文した。

「昔は辛いもの苦手だったのに、不思議ね」

「そうなの?」

「飲み会の時にね、私のついでに相楽くんの焼き鳥にも七味唐辛子をかけてあげたら、余計なことをしないでくれるかなって冷たく言われたの。おかげで最悪の雰囲気になっちゃった」

「ひどいやつだったんだね。みんなに嫌われてたでしょう」

「うん。袴田くんなんかは、いつか必ずぶん殴ってやるって言ってたわよ」

「丈二が? でも今はずいぶん良くしてくれるよ?」

「すっかり人が変わっちゃったからね。記憶喪失も悪いことばかりじゃないかも」

 注文した料理が同時に届いた。悠介はよほど腹が空いていたのか、とろとろのあんかけと卵と豆腐と米をろくに噛みもせず喉に流し込み、あっという間にきれいに平らげてしまった。彼は水を飲みながら、ゆっくり丁寧に食べる眞奏に話しかける。

「でも、いつまでも過去を忘れたままではいられないから、ぼちぼち思い出そうと思ってるんだ」

「思い出したらまた元の嫌味な相楽くんに戻ったりして」と眞奏は言ったが、悠介がぜんぜん笑わず真剣な顔をしているのに驚かされた。

「それで、お願いがあるんだけど」

「?」

「おれが記憶を取り戻す手伝いをして欲しいんだ」

「どうして私に頼むの?」

「なんとなくなんだけど、きみとはずっと知り合いだったような気がするんだ。あるいは前世で会ったことがあるとか」

「おかしなことを言うのね。それで、私にどんなお手伝いができるのかしら?」

「なんでもいいから、きみの暮らしに関することを話してくれないかな。ひょんなことから何かを思い出すかもしれない」

「そうねぇ、じゃあ折を見て話してあげる」

 妙なことを頼まれた眞奏は困惑した。自分の私生活についてどれほど踏み込んで話をすればいいか分からないし、それに会社と家の間を往復するだけの今の暮らしには特に面白い話題がないようだった。

 彼女は今、母のアパートで暮らしている。父と離婚し一人では寂しかろうと思ったからだ。

 その日の仕事が終わると、眞奏は会社の駐車場で軽自動車に乗り、帰宅する途中にスーパーに寄り買い物をした。「ユーアイドー」は地域密着型の店で、県民に特に親しまれていた。

 まだ家庭が形を成していたころ、父、母、眞奏、弟の四人でよくユーアイドーで買い物をした。今や彼女は成長し二十五歳になったが、彼女が生まれる前からあるスーパーは、建物も買い物客もほとんど変化していなかった。じゃんけんゲームは今も元気に稼働しているし、部活帰りの中学生は小さなフードコートでポテトをつまみながら話し込んでいるし、子供は駄々をこねて床に転がり手足をばたつかせている。眞奏はふと、このまま周りが変化しないまま自分だけ年老いるのではと恐れた。女盛りは二十五歳と言われる。これからはあっという間に坂を転げ落ちることだろう。

 彼女はアパートで料理をしながら母の帰りを待った。五十代の母は離婚するとスポーツクラブに入会し、仕事帰りに汗を流すようになった。そのせいか最近はいい具合に痩せ、肌ツヤが良くなり、父と一緒のころより若返ったようだ。眞奏がカレーを煮込みながらスマホを操作すると、母から連絡が入っていることに気づいた。先に食べていい、遅くなるからと。

 築三十年のアパートの一室。くすんだ灰色の壁紙に包まれ、天井からぶら下がる丸形の蛍光灯に照らされる米はまばゆいほどの光沢を放ち、粒が立っている。カレーは米の輝きを引き立てるように寄り添うが、次第に侵食し、粒を崩しばらばらにする。眞奏はスプーンを動かし、その様を眺めながら、さっき会社で悠介に頼まれたことや、自分の短い半生を振り返っていた。

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