《☆~ アデライードの婚約破棄 ~》
ノルマン人のロロという長老に率いられた集団が、西フランク王国に侵攻し、住むようになってから百数十年が経過している。
ロロの子孫に当たるギヨーム‐ノルマンディーが統治する公国に、ある日、碧色の蝶系統動物が一匹、ひらひら舞い下りてくる。正体は、先輩技師の一人から「ネイムレス」という愛称を与えられた若い技師である。
ネイムレスの任務は、この惑星を支配している猿系統動物の駆除だった。作戦名が「ネイムレスの蝶系統動物効果」で、高度な科学技術によって作られた生化学物質を使用する。およそ九百年ここで寝て待ち、作戦の成功を見届けた上で、「蝶の守護省」に帰還し、上司に作戦成功の報告をしなければならない。
初めての「虫退治」だから、ネイムレスは少なからず緊張していた。
彼が舞っている庭園の片隅では、猿系統動物の若い女と男が、仲睦まじく言葉を交わしているところ。
女がノルマンディー公爵家令嬢のアデライードで、男はアンゲラン‐ポンチューという伯爵である。この二人は婚約していた。
突如、アデライードは「虫の居所」の悪い状態に陥る。原因は、宇宙の遥か遠くからきた蝶系統動物によってアデライードの体内に吸収させられた生化学物質なのだけれど、彼女は知る由もない。
使用された生化学物質には、攻撃性を徐々に高める作用がある。最初は目つきが悪くなる程度で、続いて罵詈雑言を吐くようになり、暴力行為を働き、やがては世界征服の野心を抱く。
第二段階に到達したアデライードが、婚約者にいちゃもんをつける。
「アンゲラン、あたし、あなたの顔面なんて二度と見たくないわ」
「へっ、それは一体どうしてなの??」
「あなたの顔面が、お馬のように長くて嫌いだからよ」
「で、でも僕たちはもうすぐ結婚するのだし、今さらそれはないでしょ」
「今さらのことでもないわ。初めてお会いした瞬間、あなたの顔面が、お兄さまの可愛がっておられる銀毛のスィルヴァウェアさんが首に載せておいでの長い馬面に、ぴったり重なって見えたのよ」
「な、なにそれ。酷いなあ、まったく……」
気丈な心意気に欠けているアンゲランは、愛しい婚約者の口から立て続けに放たれた悪口に耐えられず、瞳に涙を溜めてしまう。
アデライードが笑みを浮かべ、落ち着いた口調で言い渡す。
「ですから、あたしたちの婚約話を反故にします」
「ええっ!?」
「せいぜい、お似合いになる牝のお馬でも探しなさい。おほほほ!」
「そんなあ……」
「では、ごめんなさい」
「あっ、アデライード! 待ってよアデライード!」
アンゲランが懸命に叫び続ける。
しかしながら、アデライードは返答せず、すたすたと立ち去る。
そんな彼女の周囲を、碧色をした揚羽のような蝶が、ひらひら舞っていた。厳寒の季節だから奇妙な光景だけれど、奇妙だと感じ取れるほど、アンゲランの心に余裕は残っていなかった。
蝶の正体は他でもなく、予定通り一仕事を終えたネイムレスである。彼は、およそ九百年の眠りに就く。