9、いつかでない今から
宮廷で交流のあった人々ですら、いざマレシカ王女に疑いが向けられれば、誰もが気まずそうに視線を逸らし、素知らぬ振りを貫こうとしていた。なのにどうして、これまで縁もゆかりもなかった大公が、異国の小娘の潔白を信じているのだろう……。
「同じ食卓の席についていながら国王たちが毒に倒れ、マレシカ王女だけが無事などあからさま過ぎます。何者かが罪を擦り付けたと考える方が自然です」
「……それでもユハシュ宮廷の人々は、『マレシカ王女こそが犯人』と信じました」
いや、彼らもどこまでそれを本気で信じているかはわからない。ただ人々にとって、父王とその愛妾だった母を亡くし、利用価値も後ろ盾もない王女がすべての罪を被ってくれる方が都合がよかったのだ。あの宮廷では事実が『公の真実』になるとは限らない。
「もちろん、私も現場をこの目で見たわけではありません。信じたいことを信じているだけなのでしょう」
「信じたいこと?」
「怯え泣き、ひざまずいて許しを乞うだけの女性はさんざん見てきました。でも降りかかる悲運を甘んじて受け入れるのではなく、最後の瞬間まで己の力で未来を切り開こうとするあなたは、気高く美しく……その、好ましいと思いました。私は自分があなたを信じたいと思うから信じるのです」
髪を切り落として庶民の娘に身をやつし、生き汚くあがいた挙句がこのザマだ。聞きようによってはひどい皮肉だが、アトランの真摯な表情からは侮蔑も嘲りも読み取れなかった。
「それでマレシカ王女」
「……マレーテと。こちらの名前で呼んでください」
それは偽りの名であったがすでに馴染みがあり、それなりに愛着もある。そして自分の処遇がどうなろうと、本名である『マレシカ』を名乗ることはこの先できないだろう。
「ではマレーテ。本当に私と結婚していただけるのですか? 呪いのことを差し引いても、私は面白みのある人間ではないと思いますが……」
「いいえ。生意気を承知で申し上げるなら、私はすでに大公様に好感を抱いています」
その一言で、アトランの心に感情が灯るのがわかった。そしてすぐに喜びかけたことを恥じ入るように、ぐっと唇を引き絞る。
ほんの少しのやり取りしかしていないが、アトランという人物のことがわかってきた。礼儀正しく温厚であると同時に、冷静で思慮深い一面を持ち、そして本性はおそらく感情豊かなのだろう。
大公という立場ゆえか、あるいは多くの女性に否定され続けてきたせいか、瞬時に心を殺すことに慣れているだけだ。
「だって私のことを『信じたい』なんて言ってくれたのは、大公様だけですから」
もし腹の中では、真逆のことを考えていたとしても構わなかった。立場ある人間が、言葉で表明することの難しさをマレーテは知っている。だから、『信じたい』と言ってくれただけでうれしかった。
「それに即物的に申し上げるなら、私の生活を保障してもらうえる上に、世間から匿ってもらえるのなら好都合です」
「こんな森の中では、ぜいたくなどさせてあげられないかもしれません」
「元から宮廷ではみそっかす扱いです。名家の令嬢方とも比べられない、慎ましい暮らしでした」
「もう華やかなパーティーや舞踏会にも行けないかもしれないのですよ?」
「ダンスも人の多い場所も、実はわずらわしくて苦手でした」
「外部の人間が里に来ている期間は、館の外にも出られないかもしれません」
「私は部屋で読書をしたり、刺しゅうをするのが趣味なので、それは苦になりません」
マレーテは苦笑しながら、アトランの言葉を一つ一つ丁寧に否定していく。求婚しておきながら、後ろ向きな質問ばかり投げかけてくるアトランの気持ちはわかる。
いっそこの時点で断って欲しいのだ、心預けてから裏切られる痛みを味わうよりは。
言葉が尽きたのか、アトランはしばらく考え込んでから、最後の質問を投げかけた。
「……何十年も経てば、いつか世間の人々はあなたの存在を忘れてしまうかもしれません。寂しくはないのですか?」
「世間の評判に興味はありません。それに大公様はずっとそばにいてくれるのでしょう? それならきっと寂しくないはずです。だって大公様は良い方だもの。私いつかあなたに恋ができると思います」
その瞬間、いっそう大きく見張られたアトランの暗緑色の瞳が揺らぎ、一筋の涙がこぼれた。マレーテはその光景に「ああ綺麗だな……」と、ただただ魅入られていた。
一般的に男性は、特に王侯貴族は人前で感情を乱し、涙を流すことは良しとされない。それでも声もなく涙を流す、目の前の人に嫌悪は感じなかった。
彼は物心ついた時から、実の母親に、そして多くの女性たちに否定されながら生きてきたのだ。繊細で感情豊かな本性を、大公という仮面の影に押し込めながら。
そう思った瞬間、マレーテは胸が締め付けられるような想いがした。
「ううん……いつか、ではないかも」
マレーテのこれまでの人生は、打算と奸計に塗れていた。ただこの瞬間、唇からこぼれたのは濁りのない本心だった。