6、救国の聖女
「お聞きになったことがあるかもしれませんが、ゼト大公家では嫁いで来た花嫁を人前に出さず、その素性を世間に一切明かさない習わしがあります。それゆえに世間では、《監禁公》などと呼ばれています」
(あの話、本当だったんだ……)
まさか当人の口からその話が出るとは思わなかった。
「この部屋は未来の花嫁のため、あらかじめ用意されていたものです」
「……ここはやはり西棟なんですね」
豪華だが鎖や鉄格子が備えられた部屋。これではゼト家の花嫁とは牢獄の囚人も同然だ。
「そんな大切なお部屋をお貸しいただけるとは。大公様には厚くお礼を申し上げるべきでしょうか?」
余計なこととわかっていたが、マレーテの中で恐怖よりも生来の負けん気の強さが競り勝つ。あからさまな皮肉をぶつけられても、アトランに気分を害した様子を見せなかった。
「花嫁の自由を奪う、非道な行いと思われるのは当然のことです。ですが、これにはれっきとした理由があります。……ゼト家は呪われているのです」
「呪い?」
不穏な言葉にマレーテは眉をひそめる。
「呪われた一族に嫁ぎ、呪われた子を産む女と世間に謗られないよう、花嫁を守るためなのです。――バルアのアルテナ王女の逸話はご存じですか?」
「アルテナ王女? それはもちろん……ユハシュでも救国の聖女として有名な方ですから」
バルア王女アルテナ。
ここロトス半島では、勇敢で気高き姫君の名として伝わっている。それが自分が置かれる状況や、ゼト家の花嫁とどう関係があるのかと、マレーテは怪訝な表情を浮かべる。
――それは五百年ほど前、まだゼト大公国という国が存在していない時代の話だ。《常闇の森》はかつて、魔獣たちを統べる『魔王』という存在が君臨し、完全に人を拒む魔の土地だった。
当時から存在するバルア王国とユハシュ王国は、すでに友好関係にあった。しかし《常闇の森》により陸路は完全に隔てられていて、両国を行き来するには、限られた期間のみ使える海路しか手段がなかった。
当時のバルア王の娘であったアルテナ王女が、ユハシュへ滞在中にバルアでは疫病が流行った。全身に赤紫色のアザが広がるその病は、発病してから十日ほどで死に至る恐ろしい不治の病だった。
かつて同じ病で国民の三分の一を失うほどの被害を受けたユハシュには、国中で特効薬となる薬草が育てられていたが、バルアにはユハシュほどの備えがなく、病は瞬く間に国土を覆って行った。
ユハシュが救援を向けようにも海の荒れる季節で、海路から薬を届けることは不可能だった。誰もが手をこまねく中、アルテナ王女は自国の窮地に立ち上がった。
ユハシュの人々が止めるのも構わず、薬を携えて単身で《常闇の森》に踏み入り、祖国へ向かうことを決めたのだ。王女は道なき道を進み、茨で傷だらけになりながら、森の支配者たる魔王に呼びかけた。
――どうかわたくしをバルアに向かわせてください。代わりにすべてが終わったあかつきには、贄として魔王様にこの命を捧げることをお約束します、と。
その瞬間、森の木々が意思を持ったように左右に別れ、王女の目の前には一本の真っ直ぐな道が現れたという。開かれた道を進んだアルテナは、魔獣に襲われることなくバルアへとたどり着き、国中に薬を届けて回った。
そして祖国が危機から脱したことを見届けると、泣きすがる家族の反対を押し切り、約束を果たすためアルテナは魔王の元へ戻った。その勇敢さと誠実さに心を打たれた魔王は、多くの人間を喰らってきた自らを恥じ、王女を無傷で国に帰すと、《常闇の森》の奥深くに姿を消した。そして二度と人間の前に現れることはなかったという。
主を失った森はバルアとユハシュの公認のもと、祖国を救った王女に恩賞として与えられた。やがてアルテナの息子が初代ゼト大公となった。
つまり当代のゼト大公であるアトランは、アルテナ王女の子孫に当たる。
「アルテナ王女の話でしたら、三歳の子供でも知っているくらいユハシュでも有名な話です」
「そう、このロトス半島に暮らす者なら誰でも知っている話です。そのように仕組まれたのだから」
「どういう意味でしょうか?」
「皆が知るアルテナ王女の伝承は、バルアとユハシュ両王家によって都合よく作られた話なのです。真実のアルテナ王女は憐れな存在でしかありません。――彼女は婚約者を疎んじたユハシュの王子と、《常闇の森》に道を欲したバルア国王によって、魔王に捧げられたのですから」
想定もしていなかった話に、マレーテは言葉を失う。
「当時アルテナ王女はユハシュの王子と婚約を交わしていました。けれど王子には他に懇意にする姫君がいたのです。国同士の取り決めにより押しつけられた婚約者を、王子は密かに邪魔に思っていました。そしてバルアに疫病が流行ったのをいいことに、アルテナ王女を言いくるめ、用意した護衛と共に薬を持って母国に向かうよう仕向けた。不運にも護衛とはぐれたことにして、森に一人置き去りにするために……」
「その王子のことは、愛する姫と引き裂かれた悲劇の君として、私の国には伝わっていました」
バルアを救ったアルテナ王女は、婚約者の元へは戻らなかった。もはや自分の命は祖国に捧げた物として、恵まれぬ人々のため奉仕の道を歩んだと伝わっている。一方ユハシュの王子は別の姫君と婚姻を結び、やがて王位を継いだ。つまり現ユハシュ王家の先祖ということになる。
「王子にとって計算外だったのは、魔王がアルテナ王女を助けたことでした。魔王が王女のために《常闇の森》に道を通したのは伝承の通り。ただし魔王はその時点で見返りは求めなかった。王女の身を、無理やり魔王に差し出したのはバルア国王です」
「どうして? だってバルア王にとって王女は実の娘でしょう?」
「《常闇の森》に現れた道を今後も使うことができれば、バルアとユハシュの交易はさらに盛んになり、巨万の富が生み出される。ユハシュ王子に疎まれ、政治の『駒』として役割を果たせそうにない王女を、魔王に捧げることなど安いもの――バルア国王はそう判断したのでしょう。そして王の申し出を受けた魔王は道を維持し、人間が《常闇の森》へ踏み入ることを認めました。そしてもらい受けた王女を森の奥深くに連れ去り、二度と人の世界に帰さなかった。……これがアルテナ王女にまつわる真実です」
何百年も前の話だというのに、マレーテは自分でも思いがけず衝撃を受けていた。気高く勇敢で心優しい王女は、すべて王家が都合よく作り出した幻。民衆の情を誘い、納得させるための虚像に過ぎなかったとは……。その一方ですんなりと納得もできた。
(時代が変わっても、結局宮廷のやり方は変わってないってことね……)
伏せた顔の下で、マレーテは小さく唇の片端を上げた。