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4、無意味な逃走劇




 目覚めるたびにいつも思うのは、「今朝はまだ生きていた」ということと、「またわずらわしい一日が始まるんだ」ということだ。


(……違う。ここはもうあのお城じゃない)




 気怠い体を起こしながら、ズキンと痛む額を押さえる。


 目覚めた場所が、子供の頃から見慣れた城でないことにほっとしつつも、周囲が見覚えのない白い空間であることに気づく。ここは天蓋に覆われたベッドらしく、薄地のカーテンを通し淡く光が差し込んでいた。


 心地よい重みのある羽毛布団から抜け出そうとすると、ジャラリとベッドの中には不似合いな金属音が鳴った。ふと右の足首に違和感を覚え布団を払いのけると、素足に見覚えのないアンクレットがはまっていた。すらりとした優美な葉と小ぶりの鈴のような可憐な花――スズランの装飾が施されていた。


《常闇の森》では春になると、あちこちでスズランの白い花が見られるという。ゼト大公家の紋章にも使われていた。




 銀細工の凹凸を指でなでながら、マレーテはぼんやりと考える。これは愛らしい見た目とは裏腹に毒を秘めた危険な花だったはず――。


(――違うっ! これアンクレットじゃないっ……)


 銀環から伸びる鎖の存在に気づき、ぞっとする。


 長く垂れ下がった鎖は絨毯の上で幾重にも渦を作り、その先端はベッドの足に取り付けられた金具と繋がっていた。




 慌てて周囲を覆うカーテンを払いのける。そこは淡いピンク色を基調とした壁紙の部屋だった。


 繊細な浮き彫り(レリーフ)が施された調度品に囲まれていて、花瓶には季節の花々が飾られていた。いかにも貴婦人のために設えられた寝室といったところだ。


 ひとつ妙な点があるとすれば、窓がほとんど天井の近くにあることだ。採光には問題はないが、当然外の様子は見えない。ガラスにはつる草がはうような影が全面を覆っていた。


(まさか……ここ――)




 早鐘のように打つ鼓動を感じながら、マレーテは懸命に意識を失う前のことを考える。


 館からの脱出を決意したあの日、魔獣が活発に動く夜の森を行動するのはさすがに自殺行為だと思った。決行したのは翌日の早朝で、森に踏み入った後は――……どう頭をひねっても、その後の記憶はない。


 窓から太陽を見ることはできなかったが、明るさからして朝や夕方ではない。恐らく今は昼間だ。マレーテが一日以上気を失っていなければ、あれから半日ほどしか経っていないはずだ。


 気を失ってから何者かの手によって、この部屋に連れて来られたのだろう。森を超えるための旅装だったはずだが、今は白いネグリジェを身に着けている。誰がどうやって着替えさせたかは、あまり考えたくなかった。




 鎖を鳴らしながら、二つあったドアの内の一つへとと歩み寄る。ノブを回してみたが、想像通り鍵が掛けられていた。もう一つのドアも同じだ。


 諦めて鏡台の引き出しを開け、何かこの場所の手掛かりになるものはないかと探ってみてが、くしや化粧品が整然と並べられているだけだった。


 どうやら足首に付けられた鎖の長さは、この部屋を使用する分には不自由がないようになっているらしい。


 マレーテはもう一度ベッドの上に戻る。ベッドサイドにはビスケットジャーが置いてあった。中身は一枚取り出し、匂いをかいでから一口かじる。バターの香りとほのかな甘みが口の中に広がる。なんの変哲もない、どこにでもありそうなビスケットだ。


 ただし、スズランの形に型抜きされたそれには覚えがあった。マレーテが過ごした客間に置かれていた物と同じ、逃走の前に食料として失敬した物だ。


(最悪……)


 覚悟はしていたが、あのわずかな逃走劇に何の意味もなかったことを思い知る。




(落ち着こう……まだバレたとは限らないんだから。とにかく真相を探らなきゃ)


 サイドテーブルに畳んで置いてあったガウンをまとうと、その隣にあったベルを手に取り、揺らす。思いのほか大きな音が鳴り響いた。しばらく息を殺して待ってみたが、ドアの向こうからは沈黙しか帰って来ない。


 拍子抜けしベッドの上に身を投げ出していると、にわかに低い足音が響いてきた。ノックの音に、マレーテが緊張に上ずる声で返事すると、ゆっくりとドアが開いた。




 暗がりの中から一人の男が現れた。背の高い、相変らず配下の騎士と変らぬ質素な衣装をまとった青年――ゼト大公アトランだ。


 ゼト大公には《常闇の森》を監視し、街道を行く旅人を守る責務がある。魔物を討伐するため、大公自ら陣頭に立つこともあるという。高貴な身分にありながら、アトランは戦士のように四六時中腰に剣を帯びていた。


 だが今この時、彼が剣を携えてきた理由をマレーテは考えないようにした。




「――気分はいかがですか、姫君(プレンセ)


お嬢さん(ディーテ)』ではなく、『姫君(プレンセ)』という敬称に背筋がひやりとした。


 マレーテが知る彼は、高貴な身でありながら誰に対しても誠実で、公正にして寛大な青年だったはず。そして今もまた穏やかな微笑を浮かべている。だからこそ、この不気味な状況との落差に寒気がした。


「あ、あの……大丈夫、です」


 どこか危険な匂いのする空気に鼓動が早くなるが、とっさに平静を装った。頭のどこかで、これが異様な状況だと認めたくなかった。




 ベッドの端に座るマレーテの下へ、アトランはすっとひざまずいた。素足に少しかさついた指先が触れ、ぎくりとする。まるで壊れ物を扱うように片足を両手で包まれると、足環から伸びる鎖が音を立てた。


 主人にかしずく(しもべ)のような行動に、マレーテは呆気に取られていた。同時に恥ずかしさも込み上げる。あらゆることが異常とはいえ、身内でもない異性の眼前に素足をさらすなど、本来ならひどくはしたない行為だ。


「ああ……よかった」


 足の甲に吐息が触れる距離でささやかれ、裸足を指先がたどる感覚に背筋がぞっとする。




「傷や肌荒れにはなっていないようですね」


「え?」


 次の瞬間には、アトランは以前と同じ平静な表情へと戻っていた。あの一瞬の妖しい空気は幻だったのでは、とすら思えてくる。


「もうしばらく我慢してください。これはあなたを守るために必要な処置だから……」


 やはりアトランの意志により、マレーテが鎖に繋がれていることは間違いないようだ。ずいぶん身勝手な言い草、とは思ったが、それを口に出す度胸はなかった。


 アトランはもう片方の足も丁寧に確認すると、そっと絨毯の上に下ろした。


「もうお気づきでしょうが、ここは私の館です。森で気を失ったあなたを運ばせてもらいました」


「運んだって、大公様がですか?」





 その時マレーテの脳裏にふいに記憶が蘇る。


 ――伸ばした指先すら見えぬ暗がりの中、ぼんやりと浮かび上がる金色の小さな二つの光。土と枯葉を踏みしめる音と共に、徐々に露わになっていくその黒い影。マレーテの知るどんな生き物にも当てはまらない異形の姿。


(魔獣……そうだ……! 私、森の中で魔獣に会ったんだ!)


 まだほの暗い早朝に、森の中に足を踏み入れたマレーテは、里を出てからそう経たないうちに、運悪く巨大な魔獣に遭遇した。


 二本足で立ちはだかるのは、漆黒の巨大な魔獣だった。大きな口から鋭く伸びた犬歯、羊のような巻き角にかぎ針のような爪。


 立ちすくみ硬直するマレーテへ、その異形の存在は手を伸ばした。覚えがあるのは、鋭利な爪の背ですっと頬を撫でられた瞬間までだった。そこでマレーテの記憶はぷつりと途絶えていた。








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