6、異形の子
混乱の余韻は収まらず、マレーテは静かにすすり泣く。
「だったらどうして……」
「すまない……。はっきりとした理由は私にもわからないんだ」
アトランはマレーテの髪を撫でながら静かに語った。
「私の身に変化はない。だから呪いが解けたわけでないことは確かだ」
真実の愛が呪いを解く――ゼト家に伝わるそんな伝承に、アトランは疑いを抱いていた。『魔王』とは極めて強い力を持つというだけの魔獣の一種で、ゼト家に異形の化け物が生まれるのは、単なる先祖の特徴を引き継ぐ生き物の摂理、というのが彼の考えだ。
「変化があったのは、きっと初代大公が掛けた誓約魔術の方だ」
そのせいで、ゼト大公はバルア王家から妻をもらい受けなければ、子を設けることができないとされている。初代大公がバルアへの忠義を証明するために施した決意の誓約魔術だ。
――もしくは初代大公の母であるアルテナ王女にした仕打ちを、血筋の者たちに忘れさせないため。そんな意地もあったのかもしれない。
「魔術は解けたってこと?」
「長い月日のせいで、魔術が朽ちかけている可能性はある。あるいは君に限っただけのことかもしれない」
「私だけ?」
「マレーテの母君は古い貴族の出身だろう。魔術が当たり前だった動乱の時代には、名家の間で魔術の影響を受けにくい体質の者を、婚姻により迎え入れる風潮があったんだ。もしかすると、君はそういう血筋なのかもしれない」
確かにマレーテの母は下級貴族の出身で、曽祖父の時代に没落したが、かつては名家と呼ばれていたと聞いたことがあった。
「先祖のことが気になるのなら調べてみようか?」
その言葉にマレーテは小さく首を振った。知りたくないわけではないが、この異様な、いや奇跡のような出来事の原因以上の興味はわかなかった。
「過去よりも、この子の未来の方がずっと大事だもの」
ようやく不安がぬぐい去られ、マレーテは落ち着きを取り戻していた。
まだ変化のない下腹にそっと手を当てる。子供の存在を初めて知り、先ほどまで混乱していたというのに、今はなぜか不思議と胸に温かなものが染み入るのを感じていた。自分と愛する人の子供が本当にここに存在するのだ。
対して、アトランの表情は優れないままだった。
「アトランはうれしくないの?」
絶対に抱くことができないと覚悟していた、我が子が生まれるというのに。彼は使用人や里の子供たちにも優しい。子供嫌いということはないはずだ。
「私がその子の存在に気づいたのは、魔獣たちと――魔王と同じ存在だからなんだ」
そういえばアトランはある日突然、自分に不思議な視線を向けるようになった。森の中で魔獣を見つけた時のような、警戒に満ちた眼差し。
あっ、とマレーテは小さく声を上げた。
「だから、あの時も……」
マレーテが納屋に閉じ込められたとき、アトランはいち早く駆けつけてくれた。
不思議に思いつつも、直感に優れたアトランならそういうこともあるのだろうと、勝手に納得していた。あれは森の中で、遠くの魔獣の怒りや怖れなどを感じるように、母であるマレーテを通じ、緊張や不安を感じた我が子の危機に気づいたのかもしれない。
「君は異形の子を産み落とすことになる。……私の母と同じように」
アトランの母。異形の子を受け入れられず、最後はその死に様を我が子に見せつけるように自死を選んだ人――。
「アトラン、あなた……」
自分たち夫婦の間に子供は成せない。だからマレーテが母と同じ苦しみを味わうことはない。きっと彼は心のどこかで、そのことに安堵していたはずだ。それなのに……。
決して起こらないと思っていた事態に直面し、混乱していたのはアトランもまた同じだった。そして事実をマレーテに言い出せないまま、今日までを過ごしていたのだ。
「……ごめんなさい」
マレーテは腕を伸ばし、アトランの頭を引き寄せて抱きしめた。マレーテが孤独に寂しさを感じていた瞬間、彼もまた一人ぼっちだったのだ。そのことに今初めて気がついた。
「君が謝ることじゃない。私は君が……自分が傷つくのが怖くて、言わなければいけないことを言わなかったんだ……」
マレーテは首を振った。だとしても、すべてはマレーテの行く末を案じてのことだ。自分のせいで妻に、母と同じ轍を踏ませてしまうのではという絶望を、ずっと一人で抱え込んでいた彼を責められるはずはない。
「……ねえ、アトラン」
少し迷ったが、マレーテはアトランを見据えて言った。
「私はこの子がどんな姿で生まれてきても怖くない、とは言ってあげられない。だってお産自体が初めてだし、その時になってみないとどうなるかなんてわからないもの」
「当然だよ、それは」
視線を落とすアトランにマレーテは笑う。
「でも、ぜーんぜん心配はしてないの」
最初にアトランの母親の顛末を聞いたとき、子供の心に傷を植え付け勝手にいなくなるなど、なんて身勝手な人なんだろうと憤りを感じた。でも今は、彼女について冷静な気持ちで思いを馳せられる。
アトランを疎んでいたのは事実なのだろう。だが彼女が本当に苦しんでいた本質は、自分が『子供を愛する母親』になれなかったことではないだろうか。その怨嗟の行き先が、当てつけのような自死だったのではとマレーテは考えていた。
「だって私がほっといたって、きっとあなたがこの子のことをめいっぱい愛してくれるでしょう? あなたが愛情を注いで育てた子なら、必ず優しい子に育つはずよ。そんな子、私が好きにならないはずがないじゃない。だから私は絶対に、あなたの母君と同じことにはならないの」
軽く目を見張ったまま呆けているアトランに、話にまとまりがなさ過ぎて伝わらなかったのだろうかと心配になる。だがすぐに、彼はおかしそうに吹き出し笑った。
「マレーテはすごいな。そんな考え方があるなんて想像もしなかった」
「あいにく自分がロクデナシなことは自覚しているの。だから難しそうなことは、遠慮なくアトランに押し付けることにするわ」
「困ったな……私の方こそ、マレーテをこの上なく頼りにしてるのに」
言って、アトランは慈愛のこもった瞳でマレーテを見つめた。穏やかな、深い深い森の色。マレーテがもっとも安心する色だ。思わず魅入られていると、そっと触れるような口づけを落された。
「……あなたのそういうところ、結構ズルいと思うの」
「そうかな?」
マレーテは照れ隠しに、ふいと顔を背けて言う。
「それと可愛い妻を放置して、寝室に寄り付きもしなかったことは結構ひどいと思うのよね」
「それは……近寄るわけにはいかなかったから」
妊娠中の妻に閨で手を出すわけにはいかない、という意味なのだろうか。それとも、その理由を問いただされるのを恐れていたのか。……おそらく両方だろう。気まずそうな表情をしているアトランを見ながら思った。
「じゃあ、償いはして。ひとまず寝室にはちゃんと来て。……あなたの部屋にはベッドはないはずよね。まさかずっとソファーで寝てたの?」
「さすがにそれはないよ。……こっそり抜け出して、異形の姿で野宿をしていた」
「なお悪いわよ!」
「別に慣れているから――」と、言い訳を続けようとするアトランをにらんで黙らせる。
「それから寝る時は……そうね、寂しい思いをさせた罰として、大人しく私の抱き枕になってね」
「……わかったよ」
『大人しく』という言葉に、アトランは気まずさと悲痛が混じったような表情になったが、そこは致し方ないと理解しているのだろう。素直にうなずいた。
「あとは――」
「まだあるのか……」とばかりに、暗い顔でうなだれているアトランへ、マレーテは言う。
「子供を可愛がるのは結構だけど、私のことも忘れないでね」
あっさりと告げたつもりだったが、アトランは一瞬の間の後、どうしようもなくうれしそうに笑った。
「それは喜んで約束するよ」と。




