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3、逃げ出した王女




「どうして大公様は毎回貴族のお姫様たちに振られちゃうの?」


 マレーテはお茶菓子のタルトをフォークでつつきながら、ルネに尋ねてみた。頬張ったタルトは果実と木の実がふんだんに使われている。ハチミツの優しい甘さが口の中に広がった。


 領地のほとんどが森を占めるゼトでは養蜂も盛んで、他国では高級品とされるハチミツよりも小麦粉の方が希少価値が高い。その貴重品を行きずりの食客でしかないマレーテに振るまってくれるのだから、館の人々や主たるアトランの寛大さには頭が下がる。


 ……と、同時にこんな不謹慎な話をしているのだから、ルネが表情を曇らせるのは当然だった。




「あんたねえ、世話になってる身で失礼なこと聞くんじゃないわよ。だいたい、そんなこと私たちが知りたいわ! うちの旦那様みたいな立派な方に何の不満があるんだか……。高貴なお姫様の考えることって、さっぱりわからない」


 不満そうに唇をとがらせるルネは、出窓のベンチに腰かけ、足をぶらぶらと揺らしている。もちろん、こんなところを家政婦長あたりに見つかれば大目玉だ。しかしマレーテにとって、この友人に対するようなルネの気さくな態度は好ましかった。


 膝の上で頬杖をつくルネを見つめながら、彼女が『例の噂』を知らないのかもしれないとマレーテは考える。




(やっぱりデタラメなのかな……?)


《監禁公》――その噂は最近の流行ではない、昔から言い伝わっていることだ。


 ゼト大公家は代々花嫁にした女性を、館に閉じ込めたまま生涯外には出さず、名前も顔も世間に公表しない。


 さらに言うなら(めと)った女性は、跡継ぎを産ませ用済みとなれば密かに処分してしまうとか、地下室で(なぶ)り者にしているなど、ひどい内容の話まである。さすがそのすべてが真実とは思わないが、ゼト大公妃について、世間に情報が出回っていないことは事実だ。




「ねえ、大公様のご家族……母君とかはどこにいるの?」


「さあ? 聞いたことないわね。ご健在なら公都にいらっしゃるんじゃない? ここの使用人は地元の人間ばかりだから、私たちはあちらの事情をよく知らないのよ」


 この館はあくまでアトランの別邸だ。大公家の本邸は公都レガルカにある。ただしゼト大公の名を継ぐ者には、《常闇の森》の番人たる使命が課せられている。隣国同士を繋ぐ街道を管理し、時には大公自ら危険な魔獣を討伐するとも聞いた。


 アトランは森の中にあるこの里で、一年の大半を過ごしているという。ゼト大公妃となる女性も、当然夫に帯同することになるだろう。


 外界と隔てられた森暮らしでは、舞踏会やお茶会へ行く機会などあまりなさそうだ。これでは世間に、大公妃の素性が知られていなくても仕方ない。噂の真相など案外こんなものかもしれないと、マレーテは密かに納得する。




「マレーテも秋になったらバルアに向かうんでしょ? 途中で公都にも寄れるはずよ」


「うん。バルア方面に行く商人にでも頼んで、一緒に連れて行ってもらうつもり」


 ユハシュ王国とバルア王国を行き来する旅人は、魔獣が活発になる今の季節、よほどのことがない限り危険な森を避け海路を使う。しかし秋が深まる頃から冬にかけては、このロトス半島を取り囲む海域は荒れ狂い、船旅が不可能となる。


 そのため旅人は森を安全に抜けるため、護衛を生業とするゼトの民を雇う。よほどの富豪か大商人でなければ、旅人同士で隊を組み、共同で護衛を雇うのが普通だ。




「あ、でも例の婚約者候補だったお姫様はバルアに帰されるのよね? 私も一緒に……なんて無理かな?」


「確かにあの方には、森を抜けるまで大公国の騎士が護衛に付くけど、あんたが行きたいのはバルアの王都なら方角が違うわよ。あのお姫様はバルアでも南の方の出身って聞いたから」


 そういえばバルアの南方には、王家の直轄領があると聞いたことがある。令嬢は黒檀(こくたん)のように艶のある綺麗な髪をしていた。美しい黒髪はバルア王族の特徴だ。あの令嬢はずいぶんと高貴な出自なのかもしれない。




「まあバルアの地方都市でも、小国の公都なんかよりよっぽど栄えてると思うけどね。……あーあ、故郷を捨ててきたあんたに言ったら気を悪くするかもしれないけど、私はちょっとうらやましいわ。死ぬまでに一度くらい、せめて公都でいいから見てみたいもの。都って人がたくさんいて、毎日がお祭りみたいなんでしょ?」


 指先に淡い白金の髪を絡ませながら、ルネは溜息をつく。


 彼女みたいな透き通るように色素の薄い髪や肌は、《森隠もりごもり》と呼ばれる森の民の末裔である証だ。


 彼らは大公国が建国される何百年も前から、《常闇の森》と共に暮らしてきた民だ。ゼト大公がこの地を治めるようになると、《森隠》も大公の支配下に置かれるようになった。


 やがて里に騎士団の駐屯地が置かれ、街道を旅人が行き来するようになると、《森隠》たちは先祖代々受け継いできた、森からの恩恵を受ける知識や魔獣と戦う技を生かし、旅人相手の宿屋や護衛業を営むようになっていった。




 こうしてできた森の里は他の土地とは隔絶されているが、街道がある今の時代は行商人からよその土地の物を買い付けることもできる。また、森から狩猟や採取による恵みも得られるので、住人たちはそれなりに豊かな暮らしを送っていた。


 あえて森を出て、出稼ぎや移住を考える者は少ないのだろう。ルネように、本人も両親もそのまた両親も、生まれてから一度も里を出たことがないという者は少なくない。




「……私は退屈でもいいから、早く安心して住める土地や家を見つけたいわ」


「だからって無謀よ。私たち里の人間だって、単独で《常闇の森》を超えようなんて考えないわ。あんたよっぽど国元を出たくて必死だったのね」


「だって船賃もなかったから。あのまま家にいたら、愛人が何人もいるような外国人に嫁がされるところだったのよ」


「それはさすがに悲惨ね……。実家と折り合いが悪かったんだっけ?」


「うん。実の両親は死んじゃったしね」


「森越えは無謀だったけど、結果的に旦那様に拾ってもらえたんだから、あんたは運がよかったわね。バルアに行くのもきっといい判断よ。あっちは景気がいいから、選り好みしなければ仕事には困らないと思うわ」


「できたら私も大公様みたいに、お優しい雇い主を見つけたいわ」


「それは高望みし過ぎね。旦那様みたいに美丈夫で、お心が広いご主人はそうそういないわよ」




 しばらくの間とりとめのないおしゃべりを楽しんだ後、ルネは「そろそろ仕事に戻るわね」と告げた。


「ユハシュの使者が来る話は聞いてるわよね。しばらく自分の部屋からあんまり出て来ないでね」


 ルネはそう告げてから、マレーテのそばに寄りコソッと耳打ちする。


「……ここだけの話よ。ユハシュの王女様が宮殿から逃げ出して、《常闇の森》に入り込んだかもしれないんですって」


 マレーテは目を丸くし、ルネを見つめ返した。




「何でもその王女様、既婚者の男を誘惑して一緒に逃げたらしいのよ。ユハシュじゃ不貞は重罪なんでしょ? よくやるわよねえ」


「そんなバカな……どこでそんな話を聞いたの?」


「旦那様とうちの執事が話してるところをたまたま聞いちゃった」


 あまりに滑稽無糖な話に、マレーテは引きつった笑みを浮かべ首を振った。


「ありえない……」


「とにかく、ユハシュの人たちが探しに来るのは若い娘ってこと。だから変に目を付けられることがないようにね。あんたが厄介事に巻き込まれたら、うちの旦那様をわずらわせることになるんだから」


「……わかってる。しばらくは部屋で読書でもして、静かに過ごすから安心して」


 そう告げると、「それがいいわ」と小さく微笑んでルネは部屋を出て行った。






 一人になった部屋の中でマレーテはまぶたを閉ざし、一つ大きく呼吸をする。


「冗談じゃない!」


 座っていた椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がると、ベッドの下から一抱えほどの大きな革袋を取り出す。旅に出る時にわずかに持ち出せた荷物だ。


 私物をかき集め、乱雑に袋の中に放り込む。さらにサイドテーブルに置かれたビスケットジャーから、中身をすべて取り出してハンカチに包み、それも革袋の中へとしまう。さすがに金目の物を持ち出すような不義理はできないが、この程度なら目こぼしされるだろう。


 マレーテは服の上から、胸元の辺りにある固い感覚を確かめる。首から下げた細い鎖には、母の形見である指輪を通してある。


 もし森の中で魔物にでも遭遇すれば、荷物を捨ててでも逃げることになるだろう。しかしようやく取り戻したこの指輪だけは、死んでも手放すつもりはなかった。




 革袋から折りたたまれていた地図を取り出し広げる。この里からバルア方面に抜けるには、最短距離でも一日がかりになるだろう。里に来てから、娘一人の森越えがどんなに無謀なことだったか、たくさんの人から耳が痛くなるほど叱られた。


(逃げなきゃ……逃げなきゃ……)


 明日にはユハシュの使者が来るという。おそらくその護衛という建前で、王女捜索のための兵士もやって来るはずだ。残された時間はわずかだった。








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