25、十二年後、夏
あと1話で完結予定としていましたが、長くなったので分割します。もう1話今日中に更新します。
「――こうして王様とお姫様は二人で幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
緋色のドレスをまとう女は読んでいた絵本を静かに閉じる。女の傍らには二人の幼子がいた。そのうちの男の子は草原に寝転び、気持ちよさそうな寝息を立てている。絵本を読み聞かせていた途中で、すっかり寝入ってしまっていたようだ。
女は今年で即位十二年目を迎える、ユハシュ王国の女王だ。数年前から夏の盛りの時期に、友好国の名家の子供同士で交流を深めるのが恒例となっていた。今年はユハシュが招待国であり、バルア王家の王女たちを始めとした小さな客人を宮殿で預かっていた。
どこからか、かすかに聞こえてくる子供たちの楽し気な声に、女は思わず笑んだ。
「ねえ、お母さま!」
幼い少女が青い目を丸くして見上げていた。寝入っている男の子より少し年上の、女王にとっては末の娘になる今年四歳の王女だ。
「どうしたの?」
女王は頬を紅潮させた幼い娘に微笑みかける。
「このご本おかしいわ! 悪い魔女をやっつけたのに、王さまは人間に戻っていないのよ」
「そうねえ……確かに不思議だわ」
子供たちに読み聞かせていたのは、ロトス半島で広く知られるおとぎ話、呪いにより異形の姿になった王と心清らかな娘の物語だ。
古い言い伝えのため、話によって王は獣ではなくドラゴンに変えられていたり、姫君が貧しい農家の娘であったりと、話の細部が違っている。しかし、心優しい娘が異形の青年の外見に惑わされず、試練を乗り越えて真実の愛を捧げるという大筋は同じだ。
たいていの絵本では、最後のページは人間の姿に戻った青年と娘の結婚式で大団円となる。しかし我が子が指摘するように、この絵本では婚礼衣装に身を包んだ姫君と手を取り合っているのは、灰色熊の頭を持つ王だった。
幼子の疑問について真剣に考え込んでいると、王女が「あっ!」と声を上げた。その視線の方を見やれば、一人の背の高い男がこちらに近づいてくるのがわかった。
「起きて、公子! お迎えが来たわよ!」
「あら、いいのよ」
男の子を容赦なく揺さぶる娘を制止し、「あなたはあっちで、お姉様たちと遊んでらっしゃい」と促す。元気よく返事して駆け出していく娘とすれ違いに、藍色の長衣をまとった黒髪の男が女王の前にやって来て、優雅に礼を取る。
「シトレ女王陛下、ご機嫌麗しく存じます」
「ご機嫌よう、ゼト大公」
ゼト大公アトラン――隣国ゼトの大公である彼は、確か自分と同じ年頃のはずだ。しかし立ち振る舞いは若々しく、外見も昔からさほど変わらないように見える。鏡に向かうたび、増える小じわにため息をつく身としては少々妬ましいほどだ。
アトランは苦笑しながら、深く寝入り続ける幼子を抱き上げた。小さな公子は父親の肩に頭を預け、むにゃむにゃと口元を動かし、また寝息を立て始める。
まだあどけない顔立ちの中には、確かに覚えのある面影があった。懐かしさと、かすかな切なさにシトレは目を細める。
ゼト大公の長男である公子は今年二歳になる。あまり人見知りはしない、手のかからない子供ではあるが、本来ならまだ母親の元を長く離れる年頃ではない。
「父君やお付きの者が一緒とはいえ、こんなに小さな子を国外に送り出すなんて、大公妃はたいそう心配していたでしょう」
「……はい」
アトランの表情が曇る。
「でもそれもまた、彼女に課せられた贖罪ですから」
言葉は厳しかったが、その瞳は遠くで帰りを待つ妻への愛情と憐憫に満ちていた。
「……あの子の人生に救いがあって、私はほっとしているの」
シトレは少し離れた場所にある噴水へと視線を移す。その周囲には追いかけっこをしている子供たちがいた。いずれも王家やそれに連なる名家の子供たちであり、皆美しい衣服をまとっていた。
その中に青いドレスとそろいの帽子をかぶった少女がいた。大公家の長子である公女だ。
艶やかな栗色の髪をなびかせながら、伸びやかな四肢をめいっぱいに使い駆け回っている。この公女と公子の存在が、実は奇跡の賜物であることを知る人間は少ない。
シトレがゼト大公家の秘密を知ったのは、ユハシュ宮廷における惨劇が幕引きされたあとのことだ。
十二年前、侍医団の意見を受け入れる形で、シトレは身体と精神の自由を失った王太后が安らかに逝けるよう、薬を投与することを命じた。
ユハシュ王家にまつわる憎しみの連鎖を、女王としての責務と慈悲の心でもって断ち切る――。あの惨劇の真犯人と対峙し、それが傍観者であり続けた自分ができる、せめてもの償いと考えた結果だった。
アトランが単身でユハシュ宮殿を訪ねてきたのは、それから半年ほど経ったあとのことだ。彼は近況と共に、己やゼト家に隠された秘密について語った。
代々のゼト大公は『魔王』と呼ばれた異形の王の末裔であり、アトランもまた人と異形の両方の姿を持つこと。さらに彼は、初代ゼト大公の魔術による誓約のせいで、バルア王家の血を引く女性との間でなければ、子供は設けられないこと――そのはずだった。




