24、断罪
御者の掛け声と共に、馬車がゆっくり動き出す。窓は黒いカーテンに覆われていた。しばらくすると石畳の上を走る、ごつごつとした振動が座席を伝わり響いてきた。宮殿正面の門から、市中へと繋がる大橋を通過しているのだろう。
シトレが去ったあとにやって来た女官らの案内で、マレーテは外へと連れ出された。
そこで待っていたのは、ゼト大公家の家紋が描かれた馬車と、アトランの旗下にある騎士たちの姿だった。もはやマレーテに逆らう理由も気力もなく、誘われるまま馬車に乗り込んだ。
マレーテの向かいの席に乗り込んだアトランは、腕を組んだまま沈黙し続けていた。マレーテはずっと彼をだまし続けてきた。さらに今回の交渉は、下手をすれば大公国の存亡にも関わる一種の賭けだったはずだ。彼が言葉では言い尽くせない、怒りをたぎらせていたとしても当然だ。
言わなければいけないことも、言いたいこともたくさんあった。だが取っ掛かりが見つからず、マレーテも押し黙るほかなかった。
永遠に続くかと思われる静寂は、実のところそれほど時間が経っていなかったのかもしれない。やがて意を決したマレーテが言葉を切り出した。
「ごめんなさい……。アトランには本当にひどいことをしたし、たくさん傷つけて……そのことは後悔しています」
我ながら、なんて軽く安っぽい言葉だろうと思う。こんなことでアトランの気が済むはずはないとわかっている。それでも今のマレーテには、他に差し出せるものがなかった。
覚悟はしていたが、アトランは軽く視線を上げただけで、険しい表情は微塵も変わらなかった。再び沈黙が落ちる――かと思ったが、アトランは重く溜息をついた。
「……私には公人としての立場がある。その立場を利用した以上、私は君に処罰を下さなくてはならない」
厳しい言葉だったが、ようやく彼が言葉を返してくれたことに、マレーテはほっとしていた。
アトランはマレーテを取り戻すため、『大罪人の引き渡し』という形で他国に要請を出したのだ。けじめを付ける必要がある。自分の仕出かした数々の罪はどれ一つとっても、それだけで極刑に値するものだとわかっていた。
「ゼトの名において、終身の幽閉を命じる。――君はこれから死ぬまで《常闇の森》から出ることはできないし、祖国に戻ることも、家族や友人に会うこともない。世間はやがて君の存在を忘れ、誰の記憶にも残らないだろう」
「それは……罰にならないわ」
マレーテは一瞬呆気に取られたあと、かすれた笑い声をこぼした。
一生表舞台に立てないことは最初から承知している。世間から切り離されたとしても、もはや自分に未練などない。
そもそも罰を下したこの張本人は、きっと離れずにマレーテのそばにいてくれるだろう。とても犯した罪と釣り合う処罰とは思えなかった。
「君が想像している通り、閉ざされた世界でも幸せを感じることはあるだろう。そして幸せを感じるたびに、突然それを絶たれるかもしれない恐怖や苦しみ、己の手が届かない無力と向き合うことになる。……それは今の君が思っているほど、軽い罰ではないはずだ」
アトランの鋭い眼差しと毅然とした口調に、マレーテははっと息を飲む。どんなに温厚であろうと、この人は間違いなく民と国を律する君主なのだ。同時に自分の中にある甘さを悟り、思わず羞恥に顔を伏せた。
「……さて、大公としての話はここまでだ」
ふとアトランは視線と口調をゆるめ、穏やかに微笑んだ。
「君の罪は私が共に背負う。君が罪に怯え苦しむときは必ずそばにいる。それ以上のことは何もできないかもしれないけど、この人生が続く限りマレーテの隣にいるよ」
目頭に熱い物が込み上げ、マレーテは震えそうになる唇を強く噛んだ。
アトランがまばゆかった。多くの憎悪に傷つけられながらも、他人に心を預ける勇気を失わない彼の強さは美しく、そして恐ろしかった。きっとこれから幾度となく、彼の気高く勇敢な心に触れるたびに、卑小で醜い己と向き合うことになるのだ。想像するだけで重く苦しかった。
やっぱり私はあなたとは釣り合わない――そう口を突いて出かけた言葉を、マレーテは飲み込んだ。代わりにわざと、つっけんどんに言う。
「だったら長生きしてね。私よりもよ」
「私が君の最期を看取ることになるのか。それは……辛いな。でも共に背負うと約束したからには努力するよ」
いつかアトランに見送られ、魂が天に還るその日まで、苦しみあがき続ける。それもまたきっと、受け入れなければいけない罰だ。
マレーテは窓枠に頬杖をつくと、改めてアトランを呆れながら見やった。
「それにしても、まさかこんな方法で私を迎えに来るなんて思わなかったわ。あなたが実は抜け目なくて、図太い人だってことをすっかり忘れてた」
「だから言ったはずだよ。私はそれほど高潔な人間ではないと」
マレーテは頬を赤らめてアトランをにらむ。
「だいたい何が子供よ! 呪いのことも誓約のことも、あなたが一番よくわかっているはずじゃない。ありえないでしょ!」
「そこはまあ……あの場ではたいした問題ではないから」
「大問題だわ!」
「いいんだ。私がもう自分の想いを……君を愛していると確信してるから。それ以外は何も得られなくても、もう十分なんだ」
まっすぐな眼差しと共に堂々と宣言され、どきりとする。やはりアトランは変わった。彼を変えたもの、それはおそらく――と考えるのは、そうおこがましいことではないだろう。
真っ赤になったまま視線をそらしたマレーテは、黒いカーテンの隙間からわずかに見える外の景色に目をやった。流れるような車窓の景色の中で、巨大な尖塔を見た。王都の大聖堂だろう。
『――あらあら、大きなお目々が転げ落ちてしまいそうね』
ふいに脳裏に響く声に息を飲んだマレーテは、揺れる馬車の中も関わらず、思わず立ち上がった。
「マレーテ!?」
よろめく身体をアトランが支える。マレーテはカーテンを払うと窓の開け放った。身を乗り出すと、強い風と巻き上げられた砂粒が頬を打つ。
「奥方様!?」
「危険ですので、窓をお閉めください!」
馬車と並走するゼト家の騎手たちが口々に叫ぶ。それを制したのはアトランだった。
「構わない! 彼女の好きにさせてやってくれ」
――思い出した。
初めて母に連れられ王都に足を踏み入れた時も、馬車の中からこの景色を見ていた。あの時とは逆に流れていく光景の中で、どんどん記憶が蘇る。
それまで見たこともない巨大な建築物に、目と口を大きく開いて圧倒される田舎育ちの娘の姿に、馬車の中で母は笑っていた。
突然田舎の農場に現れた、女神のように美しい貴婦人が自分の母を名乗った時の驚き。その人と家族として一緒に暮らせる喜び。嫉妬されていることにも気づかず、無邪気に懐いてくる妹に困惑しながらも、母のためにこの子を守ろうと決意したこと。
もう恐ろしく遠い昔のことのようなのに、あの頃の感情は鮮やかによみがえる。
先ほどまでいたはずの王城の屋根は、もう遠くにかすんでいる。悲しみ、怒りと、憎しみと、そして幾多の愛と共にマレーテは確かにあそこで半生を歩んできた。
そして自分がいなくなった後も、あの王宮では何事もなかったかのように、また日常が動き出すのだろう。
二度と戻れないとはそういうこと。事実としてはとっくに理解していたはずなのに、ふいにえも言われぬ寂しさが込み上げてくる。
気づけば、再び馬車の座席に座り込んでいた。アトランが腕を伸ばし、そっと窓を閉めると風の音がやんだ。馬車の中に再び静寂が戻って来る。自分の頬が濡れていることに気づくのには、少し時間がかかった。
アトランが言った、『君が思うほど軽い罰じゃない』という言葉の意味がほんの少しわかった気がした。心にぽっかりと開いた喪失感とは裏腹に、体に回された大きな腕と体温は優しく、その落差に目頭が熱くなってくる。
「アトラン……アトラン……」
「……うん」
幼子のように、ただひたすらに自分を抱きしめる人の名を呼ぶ。体を包む腕の力が強くなった。その体にすがり、マレーテは声を上げて泣き続けた。




