23、暗き連鎖の果て
「ゼト大公国から要請がありました。自国で大罪を犯した罪人を引き渡すようにと」
開け放たれたままだった扉の向こうへと、シトレが声をかける。
「――わたくしの話は終わりました。どうぞこちらへ」
姿を見せた人物に、マレーテの胸は締め付けられる。
(どうして……)
声にならぬ声でうめく。
覚悟を決めた以上、もう二度と顔を合わせたくなかった。……決意が揺らいでしまうから。
見慣れた質素な衣服とは違う、他国を訪問するのにふさわしい礼装姿のアトランは、感情の読めぬ静かな面持ちでマレーテを見つめていた。
「ゼト大公、ここにいるのがあなたの要請にあった娘です。当然彼女が罪人だという根拠があるのでしょうね?」
「はい。彼女は我が国において最も価値あるものを持ち出し、逃走を図りました」
「でたらめよ! 私は窃盗なんか働いていませんっ!」
マレーテは歯噛みする。アトランは自分のことを諦めていなかったのだ。
罪をでっち上げてまで、マレーテの引き渡しを要請するなど一線を越えている。国家間のやり取りともなれば後には引けない。最悪、『国王暗殺の裏で糸を引いていたのはゼト大公』などと嫌疑を掛けられるだろう。
――自分のせいでアトランが黒幕と疑われるかもしれない。そう思い至った瞬間、全身からさあっと血の気が引いた。
「……と、本人は否定しているけど?」
シトレの冷静な問いに、アトランもまた淡々と応じた。
「いいえ。窃盗ではなくこれは誘拐です」
「誘拐? いったいどなたを?」
「彼女は我が大公家の後継者を連れて逃走を図りました。――その胎の内に」
すぐにはアトランの言葉の意味がわからなかった。少し間をおいて彼の言わんとする意味を理解した瞬間、顔にかっと熱が灯る。
「あ、ありえないっ!」
自分たちの間に子供ができないことは、彼が一番よくわかっているはずだ。そもそも妊娠の兆候など、すぐにはわからないとアトランは知らないのだろうか。……森暮らしのせいか、妙に世間に疎いところがある彼ならありえるかもしれない。
マレーテはいささか呆れながら、冷静に説く。
「あのねえ、どうしてアトランにそんなことがわかるのよ。だいたい、妊娠してるかどうかなんて数日程度で調べようがないの。さすがにその言い分は無理が――」
言いかけてすぐ「しまった……」と思ったが、言葉を飲み込むのが遅かった。シトレを見れば、薄く微笑んでいた。
「そう……。つまり大公と閨を共にしたことは事実なのね。そうなれば、子供を宿している可能性もまったくの皆無ではない……ということになってしまうわ」
「それは……」
――ゼト大公はバルア王家ゆかりの女性との間でなければ、子供を設けることはできない。しかし大公家の重要機密をシトレの前で暴露することは、さすがにためらわれた。第一それこそ、この場で証明しようがない。
「困ったわ……未来のゼト大公を宿しているかもしれない女性を、我が国でこれ以上拘束することは難しいもの」
シトレはわざとらしく、眉尻を下げて溜息をついた。
アトランの切り札は最初からこちらだったのだ。実際に子供がいる証拠など必要ない。その可能性だけで十分なのだから。マレーテは図らずも、自身の口からそのことを公言してしまったことになる。
あの夜の行為は、この口実を作るための布石だった――。そのことに気づいた瞬間、実はアトランにしたたかな一面があったことを思い出す。マレーテは悔しさと気恥ずかしさから、真っ赤な顔で彼をにらんだ。
「いいでしょう。ユハシュ王国はゼト大公国の要請を受諾します」
「待って、お姉様!」
「申し立ては、わたくしではなくゼト大公になさい。どのみちあなたの復讐劇はここで終わり。諦めるのね」
無情に告げると、シトレは眼差しを和らげた。
「……マレシカはね、崖から転落して亡くなったの」
「え?」
唐突な一言に、マレーテは思わずシトレをまじまじと見つめた。
「事故だったのよ。山中で道を踏み外した形跡があったわ。誰のせいでもない、あの子は自分で道を踏み外したの」
「で、でもそれはきっと……たまたま毒の効き目が遅かっただけで……」
「そうかもしれないわね。でもわたくしは考えてしまうの。果たしてマレシカは、本当に毒を飲んでいたのかしらって」
その一言にマレーテは唇を引き結び、瞳を潤ませた。
「……どちらにしろ、それを知る方法はもうないわ。ここに至るまでの真実を知っているのも、それと向き合えるのもあなただけよ」
だからせめて、とシトレはしっかりとマレーテを見据えて言った。
「最後の幕引きだけは、どうかわたくしに譲ってちょうだい」
「お姉様……」
――幕引き。その言葉にシトレの密かな決意を悟ったマレーテは、もう何も言えなかった。
「――マレーテ、私は君のこれまでの人生を奪うためにここに来た」
強い口調と共に、アトランが眼前に立ちはだかる。彼の意図がわかった気がした。
単にマレーテを連れ戻しに来たのではない。マレーテを堂々とゼトで囲う大義名分を手にれるため。何よりマレーテの眼前で復讐の機会を潰し、未練を完全に断ち切らせるために、この状況を作りだしたのだ。
「私を選べ、マレーテ!」
母への思慕も、仇への憎しみも、この国で培ったすべてを捨てて自分と共に生きろ、アトランはそう迫っていた。有無を言わせぬ、残酷でどこまでも傲慢なやり口に、マレーテは気圧される。
……こんな人ではなかったはずだ。少なくとも出会った頃のアトランは、異形の呪いを持つ負い目にさいなまれ、すべてを諦めたように悲しく微笑むだけの人だった。いつから、どうして、こんなに強く激しい眼差しを人に向けるようになっていたのだろう。
マレーテは強く目をつむり天井を見上げた。……悔しさよりも、妙に清々しい諦観がまさった。
「――マレーテ・ダル・ノラン伯爵令嬢」
シトレがユハシュ宮廷におけるマレーテの正式名を呼んだ。
「ユハシュ女王の名において、国外への追放処分を命じます。……わたくしたちは、もう二度と生きて会うことはないでしょう」
シトレはそう言い放ち、ドレスの裾をひるがえして背を向けた。
はっと腕を伸ばしかけ――マレーテはその手を降ろした。代わりに傍らに立つ人に身を寄せ、黒い手袋に包まれた手へ自分の手を重ねる。強い力が握り返してきた。二度と離さない、という意思を伝える力と体温に、こぼれそうになる涙をこらえた。
「お姉様の……女王陛下の末永き治世をお祈り申し上げます」
その言葉にシトレは一瞬だけ足を止めた。振り返ることなく無言のままうなずくと、扉の向こうへと消えて行った。




