21、森の向こうへ
マレーテにあざむかれていたこと、自分が彼女の信頼に値しなかったことが、悲しくないと言えば嘘になる。だが、こうしてマレーテの犯した罪が明らかになっても、不思議と彼女への失望は感じなかった。
苛烈な性分は間違いなくマレーテの本性だ。そして呪いを前にしても、物怖じせず受け止めてくれた度胸と寛容さもきっと嘘ではない。
婚姻を結んですぐに、彼女は異形の姿となった自分と対峙している。
恐怖の色を見せたのは一瞬だけだった。マレーテは恐る恐る、自分の獣のような腕や足に触れ形をたどり、そして最後に背伸びして顔を両手で包むと、ほっと息をついた。
『……ああ、瞳は一緒だわ』
異形の姿となった時のアトランの瞳の色は金色で、人間の時は暗緑色だ。瞳孔の形も違うだろうに不思議なことを言う――そう思った瞬間、マレーテはくすりと笑った。
『光がね、一緒なの。瞳の奥にある光。あなた今も人間の姿の時も、とっても優しい光をしてるの。知ってた?』
そう言って、なんてことのないように笑うマレーテこそ、暗闇にさす一条の光のようだった。
ゼト家の呪いを前にした女性たちは、誰もが自分に恐怖し拒絶した。呪われた身でありながら、愛する妻を得て、共に寝起きし、食事を取り、ささいな出来事に笑い合う日が来るなどと思わなかった。
「――私を異形の化け物からごく普通の男にしてくれたのは、王女でも罪なき無垢な女性でもない。復讐心と罪の意識の間であがき続ける、私の目の前にいるマレーテという女性だ」
「やめてっ!!」
悲鳴のような声を上げて、マレーテが後ずさった。
アトランは片手を差し伸べる。
「君のことは一生守り通す」
その言葉はマレーテを繋ぎ止めるため、勢いで口を突いて出たわけではない。
ゼト大公国は小国だが勇猛果敢な戦士たちを抱え、いざとなればユハシュやバルアと交渉する力もある。ゼト家に忠誠を誓う彼らなら、大公妃であるマレーテのため命を賭けることも辞さないだろう。
「君でなければいけない理由はある。私にとって、初めて自分の手で幸せにしたいと思った人なんだ。だからお願いだ、もうどこにも行かず私の隣にいてほしい」
「か、簡単に言わないでよ……私は……」
「君の罪を私も共に背負う。これからどうするべきか一緒に考えよう」
「だから、簡単に言わないで!!」
追い詰められた手負いの獣を前にしたようで、ただひたすら痛々しかった。
マレーテは一挙一動が命取りになる日常の中、母と妹を必死で守り続けてきた。だが自身が守られた経験には乏しい。裏も打算もない、見返りを求めない愛という存在を信じ切れないのだ。
この状況がマレーテにひどく負担を与えていることはわかっていた。だがアトランは、それでも彼女を諦めることができなかった。
たとえマレーテが去って行ったとしても、もうかつてのように、自分に怯えない女性を夢見ることはないだろう。アトランが求めているのは、自分を愛してくれる人ではなく愛したい人で、それは未来永劫ただ一人なのだから。
「……君を愛している。それ以外の女性はいらない」
「なんでそんなに必死なのよ!? あなた、そんなこと臆面もなく言う人じゃないでしょう……」
「私を変えたのは君だよ」
自分とマレーテは実はよく似ているのだろう。アトランもまた、かつて令嬢たちに拒絶されることを恐れ、感情にふたをし続けてきた。他者を信じなければ、傷つくこともないと必死に己に言い聞かせ。
マレーテが泣き出す前兆のように顔を歪めた。荒く呼吸する音が暗闇の中に響く。
「わ、わかった……アトランは勘違いしているのよ。あなたもしかして、私が心変わりして、本気で愛するようになったとでも思ってたの?」
「マレーテ、もういい」
「利用しただけに決まってるじゃないっ! そうじゃなかったら、誰があなたみたいな醜い化け物と一緒にいたいと思うのよ!」
「嘘だよ。君はそんなこと思ってない」
「あーあ、可哀想な大公様! 醜い化け物を愛してくれるお姫様を本気で夢見てたなんて!」
アトランは大股で歩み寄りマレーテの片手を引くと、言葉を封じるように自分の体に押し付け抱きしめた。
「……大丈夫……大丈夫だ、マレーテ」
その背はずっと小刻みに震えていた。異形の姿すら受け止めたマレーテが怯えている。可哀想だが離してあげることはできなかった。
どうしたら二心などないと伝わるのだろう。アトランにはわからず、ただ震える背を撫で続けることしかなかった。
マレーテが腕の中で顔を上げて、引きつった笑みを浮かべる。
「……だったら証明してみせてよ」
マレーテが震える指で、自らの襟元のリボンに手を掛けた。寝間着の胸元が大きくはだけ、青白い肌が浮かび上がる。
「マレーテ?」
「人殺しの女を抱けるの? 愛してるって証明できる?」
「マレーテ、それは――」
「無理でしょ? 高潔なあなたに汚れた女なんて抱けないわよね!?」
挑発的な台詞でありながら、すがるように弱々しい声音に、アトランは痛ましい思いでマレーテを見つめる。
「本心じゃないんでしょ!? 勢いで血迷っただけって言ってよ! そうしたら私は……」
――未練なく命を使い切れるから。
力の入らぬ両の拳をアトランの胸にぶつけながら、マレーテはすすり泣いていた。アトランはただ、彼女を抱きしめる腕に力を込めることしかできなかった。
たとえ鍵をかけた部屋に閉じ込めようと、鎖でつなごうと、何年かかってもどんなことをしてでも、マレーテはいつかきっとユハシュに行ってしまう。命を賭けて仇を取ると決意した相手を、止められるほどの言葉をアトランは持ち合わせていなかった。
(何が……何があればこの人を……)
――どれくらいの時間が経ったのか。泣き続けるマレーテを抱きしめたまま、自答を続けていたアトランは、やがてその細い肩に両手を添えた。そっとマレーテから距離を取る。泣き濡れ、夜の泉のような瞳がアトランを静かに映していた。
「……わかった。君がどうしてもユハシュへ行くというのなら、もう止めはしない」
ほんの一瞬、マレーテの表情に絶望が宿ったが、すぐに笑顔に挿げ替えられた。
「それでいいわ。正しい判断よ」
ふいにアトランはマレーテを横抱きにすると、ベッドの上へと下ろした。突然のアトランの行動に、マレーテは何が起きたかのか、まったく理解していない様子だった。
「ただし、私は君が思うほど高潔な人間ではないよ」
「アトラン……?」
自分の上に乗り上げる影と、頬から首筋をたどる指に、マレーテもその意図を悟ったらしい。息を飲み、驚きの眼差しを向けたのはほんの一瞬だった。しなやかに腕が伸び、両の手がアトランの頬を包む。
「……これで私を諦められる?」
震える声で問われ、答える代わりにマレーテの片手を取り、その甲に口づけた。
誘われるままに体を沈めれば、花の香りが鼻孔をくすぐった。はむように柔く唇を重ね、シーツの上に落ちた手に指を絡ませる。すがるように自分の手を握り返す、頼りない力が愛おしくてならなかった。
多くの虚偽の奥底にある、マレーテの本心にようやく指先が届いた気がした。
※※※※※※※※※※
アトランは差し出された上着を受け取って羽織る。朝の身支度を行う手を止めぬまま、執事からの報告を聞いていた。部屋の中はまだ薄暗く、窓の向こうに広がる白み始めた空を見つめていた。
「――ルネの話では奥方様は、早朝に里を発った商隊に紛れ込まれていたようです。ご指示通りお止めしませんでしたが、旦那様なら今からでも安々と追い付けるでしょう」
「いや、その必要はない」
「よろしいのですね?」
「ああ、もう決めた」
アトランは森の彼方をまじろぐことなく見据えていた。
「……私は一国の君主としては失格だな」
「あなた様は臣下の目から見ても、大公として生真面目に責務を果たされて来られました。……いっそ堅物が過ぎるほどに。一度くらい羽目を外してみる方が人生も潤いましょう」
アトランは執事の言葉に小さく苦笑すると、表情を正して告げた。
「万が一の時は頼む」
「御意のままに、大公殿下」
羽織ったマントをひるがえし、アトランは部屋を後にした。




