2、秘密の部屋
図書室から出たマレーテは、帰る方向とは逆側へ視線を向けた。
廊下に敷かれた絨毯の色が、ある場所でクリームからボルドーに切り替わっている。さらにそのずっと先は、重厚な両開きの扉で閉ざされていた。ここから先は西棟と呼ばれる建物になる。
寛大なことに、マレーテは館の中は図書室でも談話室でも好きに利用していいと言われていた。ただし、西棟に繋がる廊下から先だけは立ち入らぬよう、厳しく言い含められている。
この館は建て増しにより、年代の違ういくつかの棟が本館と廊下で繋げられている。西棟は窓から見る限り、館の中では比較的新しそうな外観だ。古い建物なら、倒壊の危険があるから立ち入れないなどの事情も考えられるが、そういったことはなさそうだ。
アトランに同居する家族はいない。彼自身の居室もマレーテが寝泊まりしている客間と同じ本館にある。居間、食堂、応接室、書斎、浴室、厨房、使用人の部屋……貴族の館に必要な設備は、本館かそれ以外の棟にすべてそろっている。考えてみれば、西棟の存在意義は不思議だった。
「――コラッ! そんな所で何してるのよ」
振り向けば、メイドの黒いお仕着せに白いエプロン姿の娘が、はたきを片手に青い目を吊り上げていた。
「ルネ……」
ルネはマレーテの身の回りの世話を焼いてくれるメイドだ。気立ての良い娘だが、マレーテに対して良く言えば気さく、悪く言うなら態度が雑だ。自分がかしずかれるような立場ではないことは、マレーテも自覚しているので別に構わなかったが。
「あんたはそっち側に行ったらダメって言われてるでしょ!」
「見ていただけで、そんなつもりはなかったんだけど……あっちには何があるのかなって、不思議に思って」
「誤解を招くような行動は慎みなさい。高貴な方には庶民には考えも及ばない事情があるのよ」
マレーテと大差ない年頃に見えるメイドは、大人ぶった口調で告げた後、少し表情を緩めた。
「でもまあ、そんなに気になるなら特別に教えてあげてもいいわ」
「知ってるの!?」
マレーテに西棟について注意を促したのは、この館に長年勤めているという家政婦長だ。厳重に立ち入りを禁止している様子から、西棟については、アトランと古参の上級使用人くらいしか知らないものだと思い込んでいた。
ルネはどう見ても使用人の中では若手に入る。失礼ながら、彼女ごときが事情を知っているとは考えもしなかった。
「もちろん私たちメイドだって西棟には入れないわ。でも毎日働いてれば、何となく事情はわかるものよ。……あれは多分、いつかお迎えするはずの奥方様のための建物ね」
「奥方様?」
アトランはお見合いに失敗し続けているようだが、いずれは必ず大公妃を迎えなくてはならない。血筋を存続させることは、王族や貴族にとっては何よりも重大な義務だ。
「そっか……大公様ってほとんど公都には戻られないんだっけ。それなら大公妃様もこっちに住むわよね」
大公家の本宅がある公都レガルカは、森を抜けた西側に位置する。バルアとの国境が近い場所だ。
「何度か家政婦長たちが、綺麗な鏡台とか花瓶を運び入れてるところを見たのよ。あれはどう見たって女性のための物よ。それにほら、こっちに来てみて」
ルネは手招きして、先ほどまでマレーテがいた図書室の中へと入っていくと、窓の向こうを指さした。
「ここから見て見なさいよ。一番上の階の窓が見えるでしょ。装飾が他とはちょっと違うと思わない? 何となく女性的っていうか……」
よくよく眺めてみると、確かに西棟の最上階には等間隔に並んだ窓があり、それぞれを覆うように、つる草や花を模した鉄製の装飾があしらわれていた。
「いつでも奥方様を迎えられるように、少しづつ準備を進めているんじゃないかしら?」
「なんだ、そういうことね……」
ふたを開けてみれば何てことはない。貴婦人の安全を守るため、建物の構造や設備を不特定多数の人間に明かさないのは当然だ。
「納得したなら、さっさと部屋に戻りなさい。あとでお茶を持って行ってあげるから」
「ありがとう」
謎が解けた満足感と、思っていたより面白みのない現実に肩透かしを食らいつつ、マレーテは窓に背を向け――ふと動き止めて、もう一度西棟を見る。
(あれ……?)
「どうかした?」
「……ううん、何でもない」
一瞬芽生えた違和感を振り払うように、マレーテは首を振って笑った。
(ゼトでは、ああいう飾りが一般的なのかもしれない……)
西棟の窓の装飾。その優美な造形にばかり気を取られていたが、窓全体を覆うあのデザインは少し変だ。光を取り入れたり、外の様子を見る程度なら不便はないだろう。だがあれでは窓を開けることができない。はめ殺しのガラス窓と一緒、そう考えれば特に奇妙な物ではないが――。
(鉄格子で囲われた牢屋みたい……なんて考えすぎね)
読書くらいしか暇をつぶすものがなく、物語の世界に入り込んでいたせいだろう。マレーテは自分のおかしな想像に苦笑して、その場を離れた。