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10、招かねざる客人




「――終わりました、奥方様」


 鏡の中でマレーテの後ろに立った侍女は、自分の仕事ぶりに満足したように腰に手を当てて言った。


 散歩中にうっかり庭木に髪を引っかけてしまったが、崩れたしまった編み込みは手直しされ、前より華やかな印象になっている。マレーテは手鏡で後ろ側を確認しながら、その仕上がりに微笑む。


「ありがとう。でも別に誰に会うわけでもないから、もっと簡単でもよかったのに」


「旦那様がいらっしゃるじゃないですか。愛しい方とお会いになるのに、どれほど完璧に整えておいても不足はありません」


 侍女のルネは胸を張って不敵に笑った。先日まで彼女の()()()()役職は雑役メイドだった。マレーテがまだ行きずりの旅人として客間を貸し与えられていたとき、よく話し相手になってくれた娘だ。


 言葉遣いこそ、女主人に対するものに改めてはいるが、態度も表情も以前と同じ気さくなもので、たいして変わった気はしない。マレーテとしてもその方が好ましかった。




 マレーテがアトランの正式な妻になると同時に、ルネは奥方専属の侍女に昇格となった。『朗らかな性格で、よく機転が利くから』と、それらしい理由も聞いたが、他にも事情があるのだろうと思っていた。


 ルネは他の使用人と同様、ゼト大公家お抱えの諜報員集団《森隠(もりごもり)》の一員だ。秘匿された大公妃の護衛であり、もしくはマレーテがまた血迷って、逃亡を図るのを防ぐ監視役でもあるのだろう。


 マレーテもゼトの人々から、たやすく信頼を得られるとは思っていない。やましいところはないので、素知らぬ振りでこの監視生活を受け入れていた。


 里の外へ出る自由こそないが、それ以外の面では、この館の中は十分過ぎるくらいに満たされている。マレーテに不満はなかった。




 鏡台の前に座ったマレーテは、目の前に並んだ化粧品の数々を眺める。マレーテはその中から、なんとなしに香水らしき擦りガラスの瓶を手に取った。ラベルの文字は海を隔てた外国の物で、この一帯では希少な物だ。国王の愛妾であった母ですら、簡単に入手できるものではなかった。


 部屋を彩る調度品も、本来はバルア王家に連なる女性のために用意されていたものだ。高貴な姫君をいつ妻に迎えてもいいよう、アトランが手配していたのだろう。


 鏡の中でマレーテは顔にかかった後れ毛をつまむ。お世辞にも、高価な品々を使うにふさわしい貴婦人とは思えない外見に、思わず苦笑が漏れた。


 ルネが上手に結って誤魔化してくれているが、マレーテの髪は逃走中に切ってしまったので、本来は修道女のように短い。色もくすんだ赤茶色がまだらになっている。これも元の髪の色を隠すのに、ずっと染粉で染めていたせいだ。




「……気になりますか?」


「え?」


「もう少し地毛の色に近い染粉を使って、少しずつ本来の色に戻していくこともできますよ」


 マレーテがあまりにも熱心に鏡に見入っていたせいか、ルネが気遣わしげに言う。


「……いいわ。あまり染粉を使うと髪が痛むもの」


 自分を偽ることに、少し疲れていたのも本音だ。


「あら、そしたらそれを口実に、旦那様に香油をおねだりすればいいのです。旦那様なら喜んで、手に入る限りの物をかき集めてくださいますもの」


「そんなにたくさんいらないわよ。先週だってドレスを何着も仕立てたのよ。贅沢過ぎるわ。あんなにあったら、毎日毎日違う物を着ないと追いつかないわ」


「だから毎日違うドレスを着て、毎日旦那様に褒めていただけばいいんです」


 ふと、ドアをノックする音があった。呼びかけられ声に、マレーテはルネと顔を見合わせて笑う。返事を返すと、噂の人物が部屋に現れた。




「マレーテ……ここにいたんだね」


「アトラン、どうかしたの?」


 里の者や館の使用人たちが見守るだけの、つつましい結婚式を挙げてから、一か月ほどが経過していた。夫となったアトランの硬い口調や態度は少しずつ改まってきたが、まだ抜けない癖があった。


「庭に出ていると聞いていたのに、君の姿が見えなかったから……」


 安堵と、ばつの悪さが混じったような表情でアトランは言った。


 あちこち探しながら、ここまでやって来たのだろう。アトランはマレーテの所在が知れぬことをひどく不安がる。


 彼のこれまでの半生や境遇を考えれば仕方がない。母親を始め多くの女性たちに存在を否定され、拒絶されてきたのだ。マレーテが何かをきっかけに心変わりして、自分の元からいなくなってしまうのでは、という恐怖が今でもぬぐえないのだろう。




「ルネに崩れた髪を直してもらっていたの」


 マレーテは素知らぬ振りでさらりと答えると、アトランの元へと歩み寄る。


「仕事はもう終わった?」


「そうだね、書類仕事は片付けたし急ぎの仕事はないよ。どこか行きたい場所があるのかい?」


 アトランはマレーテが退屈しないよう気遣ってくれているのか、思いのほか外へ連れ出してくれる。もちろんゼト大公妃は秘密の存在。里の中であったり、周囲の森を散歩する程度のことだが。


 それでも窮屈な宮廷暮らしをしてきた身としては、何も義務を課せられることなく、ときおり気ままな散歩まで楽しめる暮らしは、悠々自適で不自由とはいっそほど遠かった。




「そうねえ……お弁当を持ってお散歩とか?」


「だったら、ついでに釣りはどうだろう?」


「川なんてあるの?」


「森を少し歩くけど、それでもよければ」


「行ってみたい!」


 祖国から逃げる時も、一度はこの里から脱出しようとした時も、マレーテにとって《常闇(とこやみ)の森》は、ただひたすら恐ろしい存在だった。しかし魔王の血を継ぐアトランと一緒であれば、魔獣は近くに寄ってこない。余裕をもって森の中を観察することができる。


 暗い森の中は、意外にも生命があふれる場所であることに気づかされた。リスやウサギなどの小動物を見かけることもあったし、わずかに陽がさす場所には花が群生し、蝶が飛び交っている。食べられる木の実やキノコも教えてもらった。


 かつて呪術師の末裔として迫害を受け、《常闇の森》に逃げ落ちた《森隠》の先祖たちが、ここを最後の砦とした理由もわかる気がした。恐ろしく過酷な一面と共に、時に豊かな恵みと庇護を与える森は、ゼト大公であるアトランの存在と通じるところがある。


 どこまでも深く、そしてどこか温かみのある、アトランの暗緑色の瞳を見つめながらそんなことを思っていると、再びドアを叩く音があった。




 入室の許可を与えると、現れたのは夫婦の時間を邪魔しないようにと気遣ったのか、いつの間にか部屋から消えていたルネだった。


「申し訳ありません……旦那様にお客様が……」


 いつものハキハキとしたルネにしては、ずいぶんと歯切れの悪い口調だった。


(お客様……?)


 少し前までこの里には、定期的にバルアから花嫁候補の令嬢たちがやって来ていたが、マレーテが花嫁になったことでその必要もなくなった。


 旅人の行き来がないこの季節でも、公都やバルアから物資を運んでくる者たちはいるし、有事や火急の知らせがある際は伝令も来るだろう。ただし彼らはアトランの配下だ。『お客様』という呼び方はしないはずだ。




「――ラトヴァス侯爵令嬢レイダ様がお出でになっております、旦那様」


 ルネの後ろから、ひょっこりと一人の老人が現れた。小柄で白く長い眉が特徴的な人だ。毛足の長い小型犬の思い起こさせるが、身なりはよく背筋はしゃんとしていて威厳があった。彼はこの館を統括する執事だ。


 執事の言葉に、アトランの表情が目に見えて曇っていく。客人の名が女性であることに、マレーテもかすかに嫌な予感を覚えた。


「まさか……あの方がどうやってここに?」


「公都から物資を運ぶ者たちが、案内してきたようです。あちらの者たちもレイダ様のかつてのお立場を考えれば、邪険にはできないでしょう」


「そういうことなら仕方ない……」


 アトランは重く嘆息すると、申し訳なさそうにマレーテを見た。


「すまない、マレーテ」


「気にしないで。楽しみはとっておきましょう」


 アトランに気を遣わせないようあえて明るい口調で言うと、彼はほっとしたように小さく笑んだ。







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