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1、ゼト大公の謎




「――やっぱりあの人は噂通りの化け物よ!」


 若い娘の泣き声を聞きつけたマレーテは、「ああ、まただ……」と建物の角で足を止めた。


「姫様、どうぞ気を強くお持ちくださいませ」


「どうしよう、わたくしきっと殺されるのよ……」


 泣いていたのは、長く艶やかな黒髪を持つ娘だった。彼女のことは、館の敷地内で何度か見かけたことがある。木の幹に顔を埋めるように、さめざめと泣き続ける娘の背を侍女らしき女がさすっていた。




 現在マレーテが滞在しているのは、《常闇(とこやみ)の森》と呼ばれる深い森の中にある小さな里だ。《常闇の森》は二つの国を隔てるように、半島の中央部に位置している。その名の通り、天を覆うような高い木々が生い茂り昼間でも暗く、恐ろしい魔獣が出没する危険な森だ。


 マレーテが故郷である東のユハシュ王国から、西のバルア王国に向かう旅の途中、森で遭難したのがおよそ二か月前のこと。


 幸運にも、通りかかったこの地の領主であるゼト大公一行に救助され、旅にふさわしい季節になるまで里で過ごすことを許されていた。今は大公が所有する館で世話になっている。


 いわゆるタダ飯喰らいの身であるが、館の使用人たちが朝早くから働く中、優雅に眠りこけているのはさすがに気が引けた。しかしすることもないので、早朝は館の周辺を散歩するのがマレーテの日課となっている。今朝はその最中に、気まずい光景に出くわしてしまった。




「――おはようございます、お嬢さん(ディーテ)


お嬢さん(ディーテ)』とは、本来なら身分ある娘への呼びかけだ。丁寧な男の声に、マレーテはぎょっとして振り向く。そこには今もっとも顔を合わせるのが気まずい人物が立っていた。


「たっ――」


 マレーテが声を上げる前に、その形のいい口元に手袋で包まれた人差し指が立てられた。向こうで泣いている娘に気遣ってのことだと悟り、マレーテは口元を両手で押さえる。


「……大公殿下」


 小さくささやくマレーテに、青年もまた小声で応じた。


「このひなびた里で、私に大仰な扱いなど不要です」




 里に駐留する騎士たちと共に、日課である森の巡回を済ませてきたのだろう。青年は領主の旗印(バナー)と同色である濃藍のマントをまとい、拍車のついたブーツを着けていた。華美な装飾や鮮やかな色彩を好まないのか、彼は高貴な身でありながら、常に質素な衣服を身に付けている。


 しかし騎士と同じ鍛錬と任務をこなすだけあって、上背のある引き締まった体格には威厳がある。さりげない所作ににじみ出る気品からも、凡人に紛れようがなかった。


 彼こそが、広大な《常闇の森》が領地の大半を占める、ゼト大公国の領主アトランだ。




 アトランは巡回の途中、森で遭難したマレーテを見つけ保護してくれた上、自分の館でしばらく暮らすことを許してくれた。寛大で慈悲深い上に、高貴な身でありながら、どんな時もどんな相手にも柔らかい物腰を崩さない人だ。しかし、今日はその優しい笑みが弱々しく見えた。


(こんな場面見ちゃったら無理もないけど……)


 マレーテはアトランに対し、かすかな同情を覚えていた。面と向かって言われればいいというものではないが、若く美しい女性から陰で化け物呼ばわりもなかなか辛いものがある。




「おはようございます。ええっと……その……」


「どうぞお気遣いなく」


 何か気の利いたことを言わなきゃと、言葉を探すマレーテを制するように、アトランは苦笑しながら小さく首を振った。


「慣れています」


(それもどうなの……?)


 泣きじゃくる娘を見つめるアトランを、マレーテはそっと盗み見る。その態度は落ち着いてはいるが、どこか憂いを帯びている。立派な大人の男がまるで迷子の幼子のような表情をしていることに、少しどきっとした。




 泣いている娘の素性は、おしゃべり好きなメイドから聞いていた。彼女はバルア王国からやって来た大貴族の令嬢で、アトランの花嫁候補として顔合わせのため、この館に滞在しているらしい。


 しかしそれも今日までのことだろう。近々彼女は国に帰されるはずだ。……先にこの地を去って行った、他の令嬢たちのように。


 ゼト大公の花嫁候補だという高貴な令嬢が次々にやって来ては、そう間をおかない内に、恐怖におののきながら去って行く――。そんな異様な光景を見るのは、この短い期間だけで四度目だ。


 しかもその怯えようは異様で、泣き叫ぶ者もいれば、恐怖のあまり息も絶え絶えに去って行く者も見た。『もう帰れない』だの『殺される』だの物騒な言葉も聞いた。




 アトランはまだ二十代半ばだったはずだ。身分や財力だけが取り柄の、脂ぎった年かさの男ならともかく、若く見目のよい大公との縁談なら令嬢たちにとっても悪い話ではないはずだ。


 ……多少、性格や趣味に難点があったとしても。裏を返せば、アトランに()()ではない欠点がある可能性が高いということだ。


《常闇の森》を統べるゼト大公。実のところ、彼には近隣諸国に知られたあだ名があった。何の見返りもなく、平民の娘を保護してくれたアトランの人の好さに、マレーテはしょせん無責任な噂話と深く考えていなかったが、ふいに背筋が寒くなってくる。


 彼の異名――《監禁公》と、それにまつわる話が脳裏から離れてくれなかった。




「ああ、そうだ」


 ふいにアトランから視線を合わせられ、マレーテはギクリとする。


「今日の午後から、しばらく館の中が騒がしくなるかと思います」


「何かあるのですか?」


「実はユハシュから書簡が届きまして。宮廷から使者がやってくるらしいのです」


 他の人里から隔絶されたこの里では、空を飛ぶ小さな魔獣を飼い慣らし伝令手段に使っている。鳥の影とは違う、不思議な生き物が館の上を飛ぶ姿をマレーテも何度か見ていた。




 ひさびさに聞く故郷の名に、マレーテはかすかに緊張する。


「どうも緊急の用件らしい。あなたはあまりユハシュの人間と関わりたくないのでしょう?」


「はい……実は実家の者と少し揉めてしまいまして」


 アトランから追及されたことはなかったが、若い娘が一人で故郷を出て森の中でさ迷い歩いていた理由を、仲の良いメイドに聞かせたことがあった。それをどこからか漏れ聞いたのだろう。




「もし顔見知りなどがいたらやっかいだ。あなたはあまり表に出ない方がいいでしょう」


「心配していただき、ありがとうございます。でもこんな貧相な娘に、宮廷の方々とご縁などあるはずありません」


 マレーテはあごの辺りで切りそろえられた赤毛に指にからめる。


 この地域一帯では、よく手入れされた美しく長い髪は美人の絶対条件とされている。しかし平民の中には労働の邪魔になるという理由や、売って家計の足しにするため髪を短く切ってしまう者も多い。長い髪は身分の高さや裕福であることの証明でもあった。




 アトランが整った顔をくもらせた。年頃の娘が髪を短くしている理由を想像し、憐れに思ったのだろう。


「……あなたは十分にお綺麗だ」


「ありがとうございます。お世辞でもうれしいです」


(やっぱり悪い人には見えないなぁ……)


 美しい笑みの裏に醜い思惑をひそめた人間など、これまでの人生で嫌になるほど見てきた。ただ目の前の青年には、そういったケダモノ特有の『臭い』が感じられないのだ。




「では、私はそろそろ……。御令嬢をお送りする準備が必要そうなので」


 遠くを見つめるアトランの視線の先には、すでに黒髪の娘とお付きの者の姿はなかった。


「良い一日を、ディーテ・マレーテ」


「ありがとうございます。大公様も良い一日を」


 あいさつを交わし、朝霧の中に溶けるように消えていく後ろ姿を、マレーテはじっと見つめ続けていた。






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 こちらは完結まで書き上げた作品を手直ししながら更新しています。できるだけ毎日更新を目指していきたいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。











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