9.甘いなんて一言も言ってない
「わあ……」
私は思わず声を上げていた。
泉の透明な青に光が差し、水底から発光しているように見える。
「綺麗……足を浸してみてもいい?」
「ご随意に」
駄目と言われてもやっていただろう。私は水辺に座って皮紐を解き、素足をそろそろと水に沈めた。
冷たい。心地よい。
濡れないよう裾を引き上げ、水の中で足を遊ばせる。
冷たいという感覚を夢中になって堪能していると、ファーリースの警戒心に満ちた声が飛んできた。
「素っ裸になって水浴びしたければ事前に言ってくれ。君はそういうことにまったく抵抗がないのだろうが、こっちは気を遣うんだ」
「安心して。絶対にやらないわ」
この口さえ閉じられていれば、本当にいい人なのに……。
彼の前でいきなり衣を脱いだことを、未だ根に持っているのだろう。
冷静になった今は勿論、私にも分かる。あれは決して褒められた振る舞いではなかったと。だが、あの時はそれどころではなかったのだ。
途方もない解放感。
内から湧き出る喜び。
衣も布も、邪魔でしかなかった。
ファーリースは少し離れたところで、自然のベンチとも言うべき窪みに腰かけていた。
周囲には大ぶりの白い花弁を開いた花が群生している。
美の化身のようなファーリースが花に囲まれ、物思いにふける様子は、憎たらしいが絵になった。
彼はぼんやりと考え込むような表情のまま、花弁を一枚摘み取り、唇で食んだ。
この人も考えてみれば不思議な人である。
王の息子でありながら、魔物を入れる塔に追いやられ、塔の囚人でありながら、行動は比較的自由。
塔へはライルが差し向けたと言うが、話を聞く限り、魅了の力はそこまで万全ではないように思えた。ファーリースには元々、そうされても不自然ではない下地があったということだ。
彼は何らかの理由で宮廷から疎まれ遠ざけられ、しかも多少好きにさせても問題はないと下の者たちからも侮られている。
だが、そうなった原因とは、一体何だろう……。
彼の扱いは咎人へのそれや、寵の薄い王子への冷遇というより、放置に近いような気がした。母親の序列が低く、恐らくは有力な後ろ盾もいない王子の扱いなど、こんなものなのだろうか。本人を見る限り、今の扱いの方がかえって気楽だと思っていそうではあるが……。
私は無意識に彼をじっと見つめていたらしい。彼が私の視線に気づき、親切に教えてくれた。
「ああ、この花は食べられるんだ。気が触れた訳ではないから安心しろ」
「そうだったの」
そんなことは一切思っていなかったが、私は話を合わせて頷いた。
彼に対する疑問は尽きないが、今日出会ったばかりの私があれこれ尋ねたところで、きっと答えてはくれないだろう。
彼はたまたま、ついでがあるから私を送ってくれているだけで、それすら私が彼の友であるライルの姉だからという理由に過ぎなかった。私自身が彼と親しい訳でも何でもない。
――送るのは霧の手前まで。僕たちはそこで別れる。
そこで別れて、もう二度と会わない人だった。
私はサンダルを指に引っ掛けて立ち上がり、彼のそばに行った。
「……何だ」
「どうして私にはそんな風なのよ」
そんな嫌そうな顔をして……。
ライルと同じようにとは言わない。だが、せめてライルのことを話す時の、あの親しそうな雰囲気の十分の一くらい私に振り分けられないものか。私以外の人間にはいくらでも愛想を振りまけるくせに。
私は近づきすぎないよう彼の斜め前に座り、花びらを摘み取った。
よく見ると先端が薄紅色で、薄く切って乾燥させた果実のようにも見える。
私はファーリースを真似て花びらを食んだ。
「……甘くない」
「甘いなんて一言も言ってない」
まったくもって甘くないどころか、よくて生で食べる葉野菜といったところだった。文句を言う私に、ファーリースは呆れたような眼差しを寄越した。
「甘くないのにどうして食べるの」
「気を紛らわせていた。君が無防備だから」
「どういう意味よ」
「いい。ほら履いて。そろそろ行こう」
ファーリースがさっと立ち上がり、私を待たずに行ってしまう。私は慌ててサンダルを履き、彼の後を追った。
彼は少し行った先で、幹にもたれて腕を組んでいる。私を待ってくれているのだろうが、顔は斜め前方を向いていて、彼の表情は見えない。
「ファーリー……」
彼に呼びかけようとして、私ははっと足を止めた。
――木漏れ日? 目の錯覚?
ファーリースの体の一部が揺らぎ、仄かな光の粒子となって、波の泡のように溶けている。
私は驚き、叫ぶように彼の名を呼んだ。
「ファーリース!」
「どうした?」
「あなたの体が……」
「僕の体?」
ファーリースはすぐに私のところまで戻ってきた。だがその体にはちゃんと輪郭があって、何一つほころびていない。
「見間違い? いいえ、確かに見たわ。あなたの体が溶けて、細かい光の粒になってこぼれて……」
「光の加減でそう見えたんだろう」
頭上から差し込む木漏れ日をきらきらとまとい、ファーリースは嘘のように優しく笑った。
「そう言われたら、そうかしら……?」
「そうだ。さ、急ごう」
「急がなくていいんじゃなかったの」
「君だって早く帰りたいだろ」
ファーリースは私に手を差し伸べた。
「ほら、手を引いてやる」
「あ……ありがとう……」
釈然としなかったが、私は大人しく彼の手を取った。
彼に手を引かれていると、昂った気持ちが徐々に落ち着いてくる。
温かく、触れ方の優しい、包み込むようなファーリースの手。ライルから聞いているのだろう。森を歩く時は常に姉の手を取っていた、と。だから彼もそういうものだと思って、同じようにしてくれている。
彼に気遣われていることを、またしても私の頭が勝手に意識してしまい、私は熱くなる頬を見咎められぬよう顔を背けた。
「ファーリース、私が帰った後はどうなるの」
「どうとは?」
「あなたとか、この国の人たち……」
「そんなもの。君が心配することではない」
「でも、このままだと……」
空気中の毒素が彼らを蝕み、子供や体の弱い者から順に死んでしまうのではないのか。
私は思い切って言ってみた。
「ねえ、ファーリース、あんな風じゃなく、少しずつ負担するのなら、協力出来ると思うのよ……」
「何を言っている! 人が好いにもほどがあるだろう!」
ファーリースの剣幕に呑まれ、私はびくりとした。
「……すまない」
ファーリースは目を伏せ、小さくため息をついた。
「君が心配しているようなことにはならないから安心しろ」
「どういうこと? 私の代わりに誰か別の娘を攫ってくるの?」
「そんなことはしない」
「じゃあどうするの?」
私は彼の前に回り込んで尋ねた。幼いライルにこうして道を塞がれてしまうと、私は彼の要求を聞くしかなくなってしまう。ファーリースに対しても、これは同じく有効だったようで、彼は渋々ながらも口を開いた。
「……ライルが対応する」
「ライルが?」
それはなかなか予想外の答えだった。




