7.塔の外の世界 (後)
「行くぞ」
食事を終えた私の手を取り、ファーリースは厩や荷置場のある街の広場に連れていった。
「森へ向かう者はいるか」
彼が尋ねると、干し草をたっぷり積んだ農夫の馬車が近くまで行くという。彼は無言の笑みで私を促し、私たち二人もついでに乗せていくようねだらせた。
「勿論、いいですとも」
農夫の隣には、彼の孫と思しき少年が立っている。ファーリースは少年に屈み、「世話になる」と頭を撫でた。綺麗なお兄さんに優しくされ、少年が嬉しそうに笑う。
――気をつけて。そのお兄さん、良いのは外面だけなのよ……。
「アイシャ」
「まあ、ありがとう」
ファーリースはよそ行きの笑みを湛えたまま私に手を差し伸べ、私が荷台に乗るのを手伝ってくれた。続いて彼自身もひょいと乗り込む。
荷馬車が動き出すと、ファーリースは揺れる干し草の上に寝転び、呑気に目を閉じた。彼の呼吸は頗る穏やかで、寝息のようでもある。一人で座っているのも馬鹿馬鹿しくなり、私も同じように寝転んだ。
あ、空――。
格子のない空はどこまでも広く青く、まるで夢のようだった。
しばらくそうして揺られていると、御者台からあどけない歌声が聞こえてくる。さっきの少年が歌っているのだろう。子守唄のようでもあるが、そう言い切るには少し陰のある旋律だった。
塔には恐ろしいものが棲んでいる
森で捕えられた魔物の姉弟
姉は優しいその声で 弟は美しいその容姿で
容易く人を魅了する
だから――塔には決して近づいてはいけないよ
「……君たちのことだ」
声の方に視線を移すと、ファーリースが緩く顔をこちらに向け、意味ありげに微笑んでいた。起きていたらしい。
「そうでしょうとも。無理やり連れてきておいて、随分な言い草だこと」
「そこは否定しないが、君たちが恐るべき魔力を持っていることは事実だ」
「魔力なんて持っていないわ。ああ、でも……そうね、ライルも言っていた。あなたたちにはない、何らかの耐性を私たちが持っているのではないかって」
「耐性ではなく、純粋に魔力だ。君たちにとっては当たり前のことで、意識することもないのだろうが。アイシャ、君は僕たちを声で魅了する。だから皆、君の言いなりだ」
私はすぐ目の前にある、綺麗な翠玉の瞳を見つめた。
「そうなの? あなたも私の言いなりになる?」
「予備知識があって、気をつけていれば魅了されない。その程度のものだ」
「残念。こき使ってやろうと思ったのに」
ファーリースは楽しげに笑った。
「それは残念だったな」
勝ち誇ったような顔が憎らしかった。
「……ライルも?」
「そうだな。彼はとてもうまくやった」
「どういうこと?」
「魅了する前から魅了していた」
「もっと分かるような言い方をしなさいよ」
「うーん……」
ファーリースは物憂げに眉を寄せ、少し考えてから答えた。
「どんなに予備知識があり、気をつけようと思っていても、魅了されるというのは心が溶かされるような快感を伴う。自ら進んで魅了されたいと願ってしまえば、もうどうしようもない」
「そう……」
成程。つまりライルは上手に彼らの警戒心を解き、彼らの心の中に入り込んだということか。
「では、あの子は本当に無事なのね?」
「ああ。元気だ」
「誰からも傷つけられたりしていないわね?」
「そこまでは知らない。彼も一足飛びに今の立場を築いた訳ではないから、まだ警戒されていた頃、手ひどい仕打ちを受けたこともあったかもしれない。だが、これまでにもしそういうことがあったとしても――アイシャ、君ほどではない」
ファーリースは体ごと私に向き直った。随分険しい顔をしている。一体何を言われるのかと私は身構えた。
「遅くなって、悪かった……」
「え……?」
「君があんな状態だと知らなくて」
彼の表情からは、彼が本気でそう思っていることがひしひしと伝わってくる。
だが、私のことなら、今はこうしてファーリースに呪いを解いてもらっているし、その上、元の世界に送ってもらっているところである。これ以上望むこともない。ましてや彼に「遅い」と怒ることなどあるはずもない。
彼には悪いが、私は笑い出してしまった。
――ライル、あなたの友はまこと情に厚い御仁のようね。なかなか分かりづらいけれど。
「何が可笑しい」
「ファーリース、あなたは優しい人ね……」
笑いながらそう言うと、彼が絶句し、心なしか顔を赤らめた。
その時、私たちを乗せた荷馬車が大きく揺れた。
「きゃ……」
「アイシャ」
私はファーリースにしがみつき、ファーリースは私を守るように抱き寄せた。
すぐに御者台からあどけない声がする。
「なんか~、大きな石を踏んだみたい~。大丈夫~?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
ファーリースが答え、私たちはそろそろと体を離した。
互いに何となく黙り込んでしまっていると、御者台から再び少年の歌声が聞こえてくる。
――お鍋の中を、ぐるぐるぐるぐる……。
先程とは打って変わって明るい曲調の歌である。お鍋の中身をぐるぐるぐるぐる、ひたすらかき混ぜる歌だ。合間に少年の手拍子も入った。
まあ、可愛らしい……。
目を細めて健やかな歌声に耳を傾けているうち、ふと疑問が湧いた。
「ねえ、私は今まで、大気中の毒素を全部吸い取っていたのよね」
「ああ」
「でも、今はまったく吸い取っていないわよね」
「そうだな」
「皆、元気よね?」
毒に耐性があるらしい私ですら、あんなに苦しかったのに。
だが、思い返せば、その後城壁の中ですれ違った者たちも、街で出会った人々も、御者台にいる農夫も少年も、何ならファーリースも、皆何事もなくぴんぴんしていた。彼らは大気中の毒素がもう平気な体になっているのだろうか。
ファーリースが首を振った。
「いくら魔力で毒を無効化出来ると言っても、ひとつの体に集約させるから凄まじいことになる。皆で分け合えば十日は持つ」
「十日? それだけ? その後は?」
「その後は……子供や体の弱い者から順に死んでいくだろう」
「そんな。何とかならないの?」
「君は本当にお人好しだな。心配になる」
ファーリースは呆れたように言って、くるりと私に背を向けた。
その背中がはっきりと、「話しかけるな」と言っている。
え? どうして急に……。
何が彼の気分を害してしまったのか分からず、私は戸惑った。
「きゃっ」
「アイシャ!」
荷馬車が再び大きく揺れ、ファーリースが勢いよく振り返る。彼の手が危ういところで私の背を支えた。
「ごめ~ん、この辺りは石ころが多くて~」
「ああ。森がもう近いな」
少年に応える声は優しいが、彼は頑なに私を見ようとしない。
彼は目を逸らしたまま、ため息をついて言った。
「しばらく悪路が続きそうだ。君はライルと違ってどんくさそうだから、不自由だろうがこのまま僕に支えられてくれ」
「どんくさそうは余計だわ」
けなされているのか気遣われているのか、よく分からなかった。
だが、落とすまいというはっきりとした意思が伝わるその手は温かく、私はライルにそうされている時のような安心感を覚えていた。




