6.塔の外の世界 (前)
ファーリースは扉のそばにかかっているフード付きマントを手に取り、ふわりと私に被せた。
「髪を隠せ。その色は目立つ」
私は言われた通りフードの中に髪をたくし込み、先に行く彼を追って狭い階段を下りる。
螺旋がくるくると回り、地上から隔絶されているような塔から、地続きの地面へといざなった。
「堂々としていろ。そうすれば誰も君だと気づかない」
塔から出る直前、ファーリースは私のフードを引き下げ、私の顔を半分以上隠した。
彼に手を取られ、早鐘を打つ心臓を抱えて塔を出る。震える私の手をファーリースが優しく握り込んだ。
「殿下、どちらへ? その女は?」
十歩と歩かぬうちに大柄な衛兵二人が現れ、私たちの前に立ちはだかった。
ファーリースは私の腰を引き寄せ、気だるげに言った。
「昨日連れ込んだ娘だ。気に入ったから、場所を変えてもう少し語り合いたい。そうだな……この先の四阿か、木立の中ででも」
衛兵が呆れたようにため息をついた。
当然だ。彼の言う「語り合い」とやらが何を指すのか、大人の男に分からないはずがない。
ファーリースは更に私の腰を引き寄せ、フードに口づけた。
「いいだろ? 日暮れまでには帰す」
「……ほどほどにしてくださいよ」
「分かっている」
――これが、通るのか……。
ファーリースは私と同じく塔の住人でありながら、私と違ってそれなりに自由のきくご身分のようだった。
殿下、か――。
佇まいの美しさや尊大な態度から、彼が高貴な身であることは察していたが、やはり王族だったらしい。
だが、王族でありながら塔に入れられるとは、一体何をやらかしたのか。
淫蕩が過ぎたのだろうか。
「あなたの普段のお暮らしぶりのおかげで助かったわ」
「連れ込んだのは君が初めてだ」
私たちは衛兵に背を向けた後も、仲睦まじく寄り添って歩いていた。フードに隠された私の視界が悪く、支えが必要だったのと、私たちの姿を目で追っているであろう衛兵たちに先程の嘘を信じ込ませる為である。
ファーリースは何が気に入らなかったのか、しつこく言ってきた。
「夜毎君の相手をしていた僕に、他の女を連れ込む暇があったと思うのか」
「ええ、ええ、すみませんでしたね」
私はライルと話していたのだ。相手がファーリースだと最初から分かっていたら、用もないのに夜毎話しかけるという非礼は犯さなかっただろう。
「どうしてライルのふりをしたの」
「こっちの道から行こう」
「聞きなさいよ」
仲睦まじく寄り添って歩きながら、私たちは意思も情もまったく通じ合っていない会話を交わしていた。
ファーリースに誘導され、木立の中に足を踏み入れる。
「ここまで来れば彼らの目も届かないだろうが、念の為、フードは取るな」
私は変わらず彼に支えられながら、ほっそりと立ち並ぶ木々の群れの中を歩いた。
鼻をくすぐる木や土の匂いに、生き返るような心地がする。
ファーリースがふいに私を引き寄せて囁いた。
「この辺りの地面には鳥が巣を作る。踏むなよ。卵が割れてはいけない」
足元を見ると、地面と色が同化している小さな鳥が難しい顔で前を向いていた。丸みを帯びた姿かたちや、大きさが愛らしい。だが、元々こういう顔つきなのだろうか。
「不機嫌な顔をした鳥ね。あなたに似てる」
ファーリースがぷっと噴き出した。
何が可笑しかったのだろう。面白いことなど何ひとつ言っていないのに。あ、そうだ……。
私は彼に言わなくてはならないことがあるのを思い出した。
ファーリースの袖を引き、こちらを向いた彼と目を合わせる。
「ファーリース、あ……ありがとう」
「何だ、突然」
突然なのは私も分かっている。だが、こういうことは後になればなるほど言う機会を失ってしまう。今しかないと思った。
「さっき、私の呪いを解いてくれたでしょう……」
何の説明もなかったが、先程のあれは私に刻まれた呪いを解くという行為で間違いないだろう。ファーリースにとっては片手間の施しだったのかもしれないが、私にとっては決してそんな軽いものではなかった。
「ああ……あれ?」
ファーリースが謎めいた微笑を浮かべ、私に顔を寄せてくる。
唇と唇の距離がやけに近くなり、私は彼からすっと身を引いた。
「この木立は森に続いているの?」
「いや、森は城の外にある。ここは城の中に造られた木立で、城壁に沿って続いているから、この中を通れば目立たず城門まで行ける。時にアイシャ、今日の門兵がもし堅物だったら、僕は外に出られない」
「何ですって?」
私は驚いて尋ねた。少なくとも、森までは送ってくれるものとばかり思っていたのだ。
ファーリースは当然のように続けた。
「その時は、僕を外へ出すよう君が門兵にねだれ」
「そんなこと出来る訳ないでしょう!」
「出来る。と言うより、君にしか出来ない」
「無理よ。失敗したらどうするの? 私は塔へ逆戻りよ」
「出来る。アイシャ、本当に、呆気ないくらい簡単に出来るから」
塔に連れ戻される未来しか見えず、涙目になっている私を、ファーリースは自信たっぷりに励ました。
「大丈夫。僕を信じろ」
「分かったわ……」
とても信じられなかったが、やるしかなさそうだった。
重い足取りで進むうち、木立が途切れ、堅牢な城門が姿を現す。
私たちが近づいていくと、門兵がファーリースに気づいて彼の前に立ちふさがった。
「殿下、どちらへ? その女は?」
ファーリースは私の腰に手を回し、先程と同じく涼しい顔で適当なことを言った。
「昨日連れ込んだ娘だ。気に入ったから、家まで送ってやることにした」
「殿下、ご存知でしょう。あなたは外にお出になることが出来ないのです」
「すぐ戻る。それでもか」
「それでもでございます」
君の出番だ、とファーリースが耳元で囁く。
――腕によりをかけてねだれ。
私は覚悟を決めて口を開いた。
「おっ……お願い。もう少しだけ、一緒にいたいの……」
「はい……」
信じ難いことが起こった。
門兵が恭しく私たちに道を譲り、そればかりか深々と腰を折ったのである。
ファーリースと仲良く寄り添って門を出ながら、私の頭の中は疑問符が渦巻いていた。
「今のは良かった」と、ファーリースは満足げだった。
彼はその後、城下で彼の為のマントを私にねだらせ、私と同じく暗色のマントに身を包んで目立たない恰好になった。
「そう言えば、僕たちは朝食がまだだったな」
豆粥を売る屋台の前で、彼がまるで私を気遣っているかのように尋ねる。
「腹は減っていないか」
「あ……私、お腹が空いた……」
それは久々の感覚だった。
最後に空腹を感じたのは、一体いつのことだっただろう。
私たちの会話を聞いた屋台の主人が、「さあ、どうぞどうぞ」と即座に豆粥の椀を二つ差し出す。
礼を言って受け取ったファーリースがすたすたと行ってしまうので、私は慌てて彼の後を追った。
「お代は?」
「大丈夫。彼の好意だ」
そんな訳がないだろう。問い詰めたいことだらけだったが、如何せんここは人が多過ぎる。
屋外の粗末な木の卓で、向かい合って座ったファーリースが優しく言った。
「ゆっくりお食べ」
食べる……?
どうやって? と私はしばし途方に暮れた。
ものを食べるのはあまりにも久しぶりで、私はすっかりやり方を忘れてしまっていた。
こっそりとファーリースを盗み見ると、彼は粥を軽くかき混ぜ、匙ですくって口に入れている。
私はファーリースを真似て粥を軽くかき混ぜ、匙ですくって口に入れた。
温もった匙と、舌に乗る滋味に、は……と思わず声が漏れる。
その瞬間、思い出した。
味わって、噛んで、飲み込む。
それが食べるということだ。
ひたすらに、ただ繰り返すそれの、何と楽しいことだろう。
私には確かに味覚があって、柔らかく煮込んだ豆の甘さも、口の中でほろりと豆が潰れるのも分かるのだった。
「おいしい……」
「そうか、泣くほど美味いか」
何とでも言え。
私はゆっくりと粥を味わい、早々に食べ終えたファーリースは、頬杖をついて何やら物思いに耽っていた。




