5.「僕と来るか」
翌朝、私は床にしゃがみ込み、剥き出しにした手を壁に当てて、慎重に隣の様子を窺った。
――まだ眠っていらっしゃるようだわ……。
――仕方ないわね。お食事だけ置いていきましょう。
――ねえ、大丈夫かしら。お顔の色が悪いようだけど。
――余計なことは考えなくていいの。さっさと行くわよ。
ライル付きの侍女たちだろうか。当人が眠っているとはいえ、随分ずけずけと言うものだと思った。彼の扱いはせいぜい、軽んじられている高貴な囚人といったところで、彼の言うように万事順調だとはとても思えない。それとも、この扱いもまた、彼の計画の一部なのだろうか。
二人が足早に階段を下りる音が遠ざかっていく。この様子では、彼女たちが侍医を呼ぶことはないだろう。ライルは少なくとも、このまま夕餉の時刻までは放置される。
私にとっては好都合だった。もう片方の手の布も解き、両手を重ねて壁に当てる。今日は本当に開けと念じた。
私の手が壁と溶け合い、いつもの真っ黒な空洞を開く。だが、実際の壁にはまだ染みひとつない。私は空洞を徐々に広げ、世界と溶け合うのをじっと待った。
しばらくそうしていると、感覚でしかなかった空洞が、現実の世界に少しずつ現れ、やがて隣の部屋につながった。
――ああ、本当に出来た……。
恐らく出来るだろうと思っていたが、こうして実際に出来てしまうとやはり驚きを隠せなかった。
幸いなことに、指先はまだどこも欠けていない。失われる前に素早く布に閉じ込め、私は身を屈めて穴を潜った。
――……鏡の中に入り込んだら、こんな気分かしら。
そこは私がいる檻を綺麗に反転させた部屋だった。
格子の入った窓の位置や、粗末な寝台が据えられた場所に至るまで、すべてが鏡に映したように真逆。
寝台で眠っている人影に近寄ろうとして、私ははっと足を止めた。
そこにいたのはライルではなく、見知らぬ若い男だった。
くすんだ蜂蜜色の髪をしていて、美神を象った彫刻のように整った顔立ちをしている。伏せられた睫毛は長く、歳は私と同じくらいか、少し年上のように見えた。
「ライル……?」
ライルはどこだろう。私がきょろきょろと辺りを見回していると、寝台で眠っている人物が身じろぎした。
睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
鮮やかな翠玉を嵌め込んだような、美しい瞳が露わになった。
呆然と彼を見下ろす私に気づき、彼が口を開いた。
「アイシャ……?」
――この声は。
私はその場に崩れ落ちそうになった。
それは私がずっとライルだと思い込んでいた男の声だった。
私は猛然と寝台に飛び乗り、身を起こそうとしていた彼の上に跨った。
「ライルはどこ。彼に何をしたの」
「かたちを保てないのか」
私の全身に巻かれた布と、隙間から溶けゆく黒い粒子。その通り、私は人の形すら碌に保てない化け物だ。だが、保てないのかとはご挨拶だ。私の体をこんな風にしたのはお前たちではなかったか。
私は彼の首に手をかけた。
「答えなさい。ライルはどこ」
「この状態でまだ自我があるのか。驚いたな。何て魔力だ」
「死にたいのか。答えよ!」
普通の人間なら震え上がり、私に触れられるだけで気を失うことだろう。だが、彼は躊躇なく私の手を持って首から退けさせ、気だるげに半身を起こす。はずみで後ろに傾く私の体を彼の手が支えた。
翠玉の瞳と、何かを超越したような美貌がすぐ目の前にあった。
「彼は無事だ。……と言うより、彼が僕をここへ寄越した」
「ライルが……?」
私は半信半疑で彼を見つめた。
彼はうんともすんとも言わず、興味なさげに私を眺めている。かと思うと、私の腰を支えていた彼の手が緩く私を抱き直した。
「――心は天に捧げ、骸は地に捧げる」
「待て、何を――」
突如詠唱が始まり、私はぎょっとした。彼を振りほどこうともがくが、体勢が悪く逃げられない。
「逃げる尻尾。私を見て。愛しい子――アイシャ」
彼が私を引き寄せる。
次の瞬間、布から覗く私の青白い唇に彼の唇が重なった。
熱い。彼は何を――。
体温のある人の体に久しく触れることがなかったからか、私は熱さに飛び上がりそうになった。だが、彼の手が私の後頭部と背をしっかりと押さえて離さない。唇から伝わる熱が溶け、私の中に沁み込んでゆく。
どうして。
何が起きているのか分からなかった。
どうして――熱さが分かる?
最初はもどかしいほどゆっくりとした変化だった。
体の中の悪いものが、自然の摂理に従って流れ出てゆくのが分かる。世界と私は再び分かたれ、私の体が境界を徐々に取り戻す。唇がいつ離れたのか知らない。
私は私で満たされた。かつての私のように。私以外の誰もがそうであるように。
「――ああ」
私は衝動的に衣を脱ぎ捨て、布をむしり取るように外し始めた。今の私には不要のものである。
彼は素早い動きで私の体を持ち上げ、私の体の下から出た。そのままふいと寝台から降り、私が開けた穴に目を留める。へぇ……と呟いて身を屈め、彼は穴を潜っていった。
私の体を覆っていた布ははらはらと寝台の上に積もり、小さな山となった。
ややあって、穴の向こうから声がした。
「服は着たか」
「今着てる――着た」
着るのに何の面倒もない衣を頭から被り、袖から手を出して答えると、彼が穴から這い出してきた。手に私のサンダルを持っている。
彼は私の足を取り、サンダルを履かせた。何故かは分からない。これはお礼を言うところなのだろうか。
彼は寝台の縁に腰掛け、自身もサンダルを履いた。おもむろに私に向き直って言う。
「もし良ければ送っていこう。森の霧の手前まで」
「結構よ。弟のところへ連れていって」
「送るのは霧の手前まで。僕たちはそこで別れる。どうする?」
「聞きなさいよ。ライルはどこなの」
「彼が僕をここに寄越したと言っただろう。彼は君のことを送るよう僕に――」
「嫌よ! ライルと一緒でなければ帰らないわ!」
私は反射的に叫んでいた。
彼の言う霧とは、私とライルの体を包み、私たちをこの世界に運んだあの霧のことだろう。要するに彼は、私を元の世界の入口まで送ると言っている。
私だけを。
「アイシャ……いいか、よく聞け。彼一人ならいつでも好きな時に出ていける。問題は君なんだ」
「何ですって」
ライル一人なら、いつでも好きな時に――。
いつからそんな状況になっていたのか。
「何てこと、ライル。それなら私のことなど置いていけばよかったのに!」
「君がそう仕向けようとしたことはライルも知っている。言っておくが、彼はかなり怒っていた。彼に許してもらいたければ、君が取るべき道はひとつだと思うが」
私はぐっと言葉に詰まった。
今更疑う訳でもないが、ライルが彼を寄越したという話は本当だろう。名乗ってもいない私の名を呼んだばかりか、私とライルしか知らないはずの昔話もよく知っている。何より言葉の端々から、ライルとは気安い間柄であることが窺えた。
「霧の手前までなら送ってやれる。どうする? 今決めろ。ぐずぐずしている時間はない」
悔しいが彼の言う通りで、意地を張っている場合ではなかった。
私はこの世界のことを何も知らず、どこへ行けばライルに会え、どこへ向かえば帰れるのか、一人では何も分からないのだ。
「霧の手前までなら、丁度ついでがある」
そう言って、彼は寝台から立ち上がった。
私がついていこうがいくまいが、今すぐにでも出ていきそうな雰囲気だった。
「僕と来るか、アイシャ」
だが、彼はそうせず、私に手を差し出した。
今日初めて出会ったけれど、少なくとも彼の首に指を絡ませ、この手で息の根を止めてやりたいくらいのことは思った相手だった。
彼は私が彼にしたことも、彼が私にしたことも、まるでなかったような顔をして、私の決断を待っている。
凪いだ翠玉の瞳は謎めいて、私をまっすく見つめているようにも、興味なさげに私を通り越し、どこか遠くを見つめているようにも見えた。
彼にとってはどちらでもよい、ついでがあるから送っていこう、ここに残りたければどうぞご随意に――彼にとってはその程度のことだった。
だが、私にとってはそうではない。
一人ここに残されてしまえば、体に再び呪いを刻まれ、一人ぼっちで閉じ込められる日々に逆戻りだった。
私は立ち上がり、差し伸べられた手を取った。
彼が一瞬、安堵の表情を浮かべたような気がしたが、多分私の気のせいだろう。
「あなた、名前は何というの」
「ファーリース」
そう答えた時、彼の足はもう出口へ向かっていた。




