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4.戻ってきた弟

 ライルが塔を去り、一人ぼっちになってから、どれくらいの月日が流れたのだろう。


 変わり映えのない毎日を送っているからか、あるいは人ではなくなってしまったからか、私には時間の感覚を捉えることがひどく難しくなっていた。


 暑さ寒さも感じないので、季節の移ろいも分からない。


 日差しが眩しくなってきたから、きっと半年くらい経っただろうと思った頃のことだった。


 塔にあるもうひとつの部屋に、再び誰かが入る気配があったのは。


 ライルだろうか。そこまでは分からない。


 だが、もしライルなら――。


 私はそわそわと夜を待った。


 すっかり夜も更けた頃、私は壁の向こうにいる相手が、万一ライルではなかった場合に備え、ぎりぎり空耳だろうと感じるくらいの小声で呼びかけた。


「ライル」


 少ししてからいらえがあった。


「姉様……?」

「――ライル!」


 やはり彼だったのだ。


 ライルが戻ってきたことに対し、嬉しいと思ってしまった反面、この状況はまずいのではないかと警鐘を鳴らす自分がいた。


「ライル、どうしたの? 何かあったの? ここに戻ってきたということは、もしかして彼らに気づかれてしまったの?」


 少し考えるような間があった後、返事があった。


「大丈夫です。万事順調ですから、ご心配なく」

「嘘おっしゃい」


 塔に再び連れ戻されておきながら、この囚人は何をもって万事順調だと言っているのか。それに、彼のこの声は? 風邪でも引いているのだろうか?


「ライル、誤魔化されないわ。何故ここに戻っ……」

「城に何人か協力者を得ました。僕がここに来ることは計画のうちです」

「え……」


 問い質そうとしていた私の声は尻すぼみになった。


 彼の声音は落ち着いていて、嘘を吐いているようでもない。


 壁の向こうで彼が笑う気配があった。


「姉様、大丈夫ですよ。約束したでしょう? きっとあなたを連れ帰ると」

「え、ええ……。でも、ライル……声をどうしたの? まるであなたじゃないみたい」


 私は当惑して尋ねた。喋り方は確かにライルなのだが、声が違っているような気がする。


 別人だろうか。いや、まさか……。


 ややあって、ライルが苦笑交じりに答えた。


「姉様は知らないのでしょうが……男の声はこんな風に、少しずつ低くなっていくものなのです」

「そうなの……?」


 言われてみれば、ライルは丁度、少年から青年になっていく年頃だった。


 背が伸びて大人の体つきになり、それにつれて声も低くなっていく。何もおかしいことではない。だが、私の記憶の中では、ライルの声はもっと溌溂としていて、からりとした朗らかさがあった。


 今の声はどちらかというと艶やかで、蜂蜜のような甘さを感じる。


 そういうものだと言われてしまえばそれまでなのだが、あの頃の声と今の声が私の中でうまくつながらなかった。


 彼の声が変わりゆく過程を、知ることが出来なかったからだろうか。


「ライル、あなたが別人のように感じるわ……」


 大人になるのは喜ばしいけれど、何だか寂しいものね――そう言おうとした時だった。


 ライルがまるで、物慣れた若い男のように、華やかな笑い声を上げたのは。


「おかしなことを。僕は何も変わっていませんからご安心ください。僕はあなたの弟で、これからもずっと、僕があなたの手を引いて差し上げますよ」

「まあ、お優しいこと」


 声の違いに戸惑うが、言っていることはいかにもライルが言いそうなことだった。


「姉様」

「なあに」

「昔話をしてください。僕たちの、あの大きな船の話……」


 うっとりするような優しい声で、彼は私たちしか知らないはずの思い出話をねだった。


「ええ、いいわ……」


 やはり、壁の向こうにいるのはライルで間違いないようだった。


 大きな船とは、私たちがまだ幼かった頃、ひと夏の間だけ並んで眠った大きな寝台のことだ。


 理由は今でも分からないが、あの頃、城にはしっかりとした造りの立派な寝台がひとつ余っていて、私たち二人が使ってよいことになった。幼い子供二人を乗せてもまだ十分に広いそれを船に見立て、私たちは夜毎、星の海をさまよったのだ。


「ヤブイチゴの話も」

「ええ」


 それから勿論、桶いっぱいのヤブイチゴの話もだ。真っ赤に染まった指先を笑い合い、お化けだぞと脅かし合った。血まみれお化けの真っ赤な指で、一粒つまんで口元に運んでやると、小さなライルは大喜びで唇を開いた。


 私は乞われるがまま、彼に何度も語ったはずの昔語りを繰り返した。


 壁の向こうで、ライルが嬉しそうに聞いているのが分かる。


 知らぬ間に大人の声になり、そして恐らく背も伸びて、きっと見違えるほど逞しくなっているだろうに、彼の中身は何ひとつ変わっていないようだった。


「姉様の声が好きです。本当に、ほっとする」


 ライルがしみじみと言った。


「明日もして」

「いいわ。何度でも」


 この頃には、本当にライルだろうかと一瞬でも疑ったことが馬鹿馬鹿しくなっていた。


「おやすみ、ライル」

「おやすみ……なさい、姉様」


 私たちの夜毎のお喋りは、こうして再び始まった。


 以前と違うのは、彼の声や雰囲気が、まるで蛹が蝶になるように、艶やかな変貌を遂げていたことと、彼が時折私を待たず、眠りに落ちていることだった。


 そういう時、彼は決まってうなされていた。


 壁に穴を穿ち、彼のいる部屋につながった途端、苦しげな声が聞こえてくる。私は驚き、何度も彼の名を呼ぶのだが、彼が目を覚ますことはなかった。


 翌日問い質すと、決まって「そうでしたか? 別に体調は悪くありませんが」ととぼけてみせる。


 何度かこんな夜を経るうち、私はライルもまた、彼らに何かされたのではないかと疑うようになった。


 それが何かまでは分からないが、私がされたような非情なことを。


 だが、私が脅したりすかしたりして、何とか聞き出そうとしても、彼は頑なに「何でもない」と言い張った。


「う……うう……」


 その夜もライルはうなされていた。


「ライル、ライル……!」


 私は何とか彼を起こそうと、もう片方の手で壁を叩いて彼の名を呼んだ。


「う……ああ……止めろ…………母様!」

「――ライル!」


 これ以上はもう駄目だ。


「ライル、ライル、ねえ、起きて」


 私は壁に手を押し当てたまま、必死で呼びかけた。


 しばらくそうしているうち、壁の向こうから呆けたようなライルの声がした。


「あ……ねえ、さま…………」

「ライル、気がついたの? そうよ、姉様よ」


 私は胸を撫で下ろした。良かった。今日は目を覚ましたようだ。


「姉様……ああ、そうか…………」

「そうよ。私はここにいるわ。ライル――」


 涙などもう流せないと思っていたが、私の目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。


「ライル、あなたのそばに行きたい……!」

「姉様……手を触れて……」


 壁の向こうでライルが壁に手を触れ、額を当てているのが分かった。


 私は彼の手がある位置に手を当て、壁越しに額と額をこつんと合わせた。


「こう……?」

「そう。泣かないで……心配させて、悪かった」

「何があったかお言い!」

「何も……。ずっと気を張っていたから……そのせいで悪夢を見てしまったのかもしれません。でも、もう大丈夫。あなたがいるから」

「そうよ、ライル」

「はい」


 しばらくそうしていると、ライルがぽつりと言った。


「姉様、今日はそばにいて」

「今日だけじゃなく、ずっとそばにいるわ」


 彼はほっとしたように笑った。


 私は彼の為に子守唄を歌ってやった。




 おやすみ おやすみ 愛しい子

 月のわたしがそばにいる


 おやすみ おやすみ 愛しい子

 雲のわたしがそばにいる




 やがて壁の向こうから穏やかな寝息が聞こえてきた。どうやら落ち着いたらしい。


 私は右手を再び布の中に閉じ込めた。


 今夜はもう、ライルがうなされることはないだろう。


 だが、明日は? 明後日は?


 彼が壁の向こうでうなされる度、私はこれからも壁のこちら側で、彼の名を呼ぶことしか出来ないのだろうか――。


 私は布に覆われた手を見下ろした。


 この手を一つずつと言わず、両方一遍に使ってみたらどうなるだろう?


 壁に穿たれる空洞は、現実のものとなりはしないだろうか……?


 壁と手を見比べ、私はさして悩むこともなくそうすると決めた。


 その代償に、先端を少し失ったところで構わない。朝になったら彼の部屋に行き、彼と直に話をしよう。


 私は月に背を向け、横になった。


 不思議と心は落ち着いていた。


 私は恐らく、ずっとそうしたかったのだろう。


 私は布のあわいにある目を閉じ、人のものではない浅いまどろみに身を任せた。


 ――ライル、待っていて。夜が明けたらそばにいくわ。


 この時の私は、ライルのそばに行き、彼を抱きしめてやることしか考えていなかった。


 自分の恐ろしい見た目のことなど、頭からすっかり抜け落ちていた。

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