3.塔から出る計画
「……姉様にお聞かせするには、憚られる類の話ではありますが……」
その夜、ライルは自分から話を振ったにもかかわらず、随分と歯切れが悪かった。
「恐らくですが……」
誰が聞いている訳でもないのに、彼は何故こんなに声を落とすのだろう。
「彼らは……僕の血を、彼らの中に取り込みたがっていると思います」
「そうなの?」
それはつまり、ライルと彼らの一族の娘が、子をなすのを望んでいるということだ。
確かに、大声で言うには憚られる内容だった。
「ええ……。侍女がやたらと仄めかしてくるのです。僕が従順でありさえすれば、王の娘たちのお相手も夢ではないのにと」
「どういうこと?」
異郷から来たどこの誰とも知れぬ人間を、この国で最も高貴な娘の寝所へ招き入れるなど、普通ならあり得ないことだった。ライルが訝しみ、何かあると思ったのも無理はない。
「僕は当然、突っぱねましたが、ずっと不思議ではあったんです。彼らの狙いははっきりと姉様で、僕は予期せぬおまけだったはず。彼らは何故、いつまでも僕を生かしているんだろうと」
ライルはひやりとするようなことを淡々と言った。そう思っていたのなら、この子はどうして表面だけでも従順を装わないのか。
「思うに、彼らは見た目こそ僕たちとよく似ていますが、ある部分において、僕たちより脆弱なのではないでしょうか。僕たちの体には普通に備わっている、何らかの耐性を彼らは持っていない。そこで……」
「そこで、まずは王家がその耐性を取り込む為に、娘の一人を……?」
「いえ、その、一人と言いますか」
「待って。まさか、王の娘たちというのは、王の娘のうちの一人という意味ではなく……」
「まあ、そういうことですね。僕を種う――」
「お黙りなさい。それ以上言うのは許さないわ」
壁越しに私の気迫が伝わったのか、ライルは大人しく口を噤んだ。
まったく、何ということだろう。
女の私と違い、部屋で侍女たちの明け透けなお喋りを耳にする機会もないだろうに、一体いつどこでそんな知識を仕入れてくるのか。
「ね、姉様……大丈夫ですか?」
「勿論大丈夫だわ」
その話はいい。それよりも今は、彼の推測がどこまで的を射ているのか、確かめる方が先だった。
私はライルに断り、右手を離して布に閉じ込めると、今度は左手の布を解いて穴を穿った。今夜はもう少し話さなければならない。
私も多少は匙加減を覚え、しばらくの間は溶けずに会話出来るようになっていたが、あまり長くなると指の一本や二本、心許なくなるのだった。
「侍女たちがそこまであなたに話したというの?」
「いえ。そうじゃないかと思ったのは、王の末娘とやらがお忍びでここに来た時でした。彼女は僕をいたく気に入って、機嫌よくこんなことを言ったのです。『あなたと私の子供なら、たとえ穢れの姫がいなくなっても――』その直後、彼女は慌てて手で口を覆いました」
――穢れの姫。
「姉様、あなたは」
「その通りよ」
ライルは敏い子だ。もう隠せないと思った。
「彼らが恐れる穢れとやらを、私が一人で引き取っているの」
ライルに心配をかけぬよう、私はごく軽い調子を装って答えた。
壁に当てた手からはどす黒い火花のような粒子が飛び散り、心の中では行き場のない怒りと恥辱が渦を巻いていた。
何とおぞましく、利己的な者たちだろう。
彼らは別の世界から耐性を持つ者を攫い、その身に入口を刻むことによって、彼らにとっては致死となる大気の毒素を流入させている。
毒素を受け入れる器は男性ではなく、女の体を持つ者の方が、恐らく適しているのだろう。長い間、彼らはそうやって異界から娘を攫ってきた。それは私を連れ去った時の手際の良さから明らかだ。
そして今度はライルという男の性を持つ者も来たから、別の方法で利用するというのか。
「姉様……出来るだけ急ぐと約束します。あと少し、堪えてくださいますか」
「何をする気?」
彼の口調に不穏なものを感じ、私はそう尋ねずにはいられなかった。
「お分かりでしょう。彼らの懐に入り込み、あなたをこの馬鹿げた役目から解放する方法と、僕らが元の世界に戻る方法を探るんです」
「どうやって……」
「僕は彼らの望み通り――従順になってやろうかと」
「危険だわ!」
ライルは身一つで彼らの中に入り込み、欺いて情報を得ると言っているのだった。
「でも、姉様。僕が彼らの言いなりになれば、彼らも油断すると思いませんか」
「駄目よ、ライル。あなたはしっかり者で賢いけれど、大人と対等に渡り合えると自惚れてはいけない」
「そうですね。調子に乗りそうになったら、今のあなたのお言葉を心の中で唱えることにします」
「なっ……」
冷静に切り返され、私は言葉を失った。
ライルはもう決めているのだ。
「彼らは何故か僕を恐れ、とても警戒している。でも僕が欲しくて堪らない。そこを突くのはそう難しいことではないと思うんです」
「――そうね」
私はようやくのことで声を絞り出した。
確かに彼の言う通り、自由になりたいと望むなら、この状況を利用しないという手はなかった。
こんな姿になり果てた私と違い、ライルにはまだ未来がある。私と一緒にここで朽ち果てていいはずがない。
「……調子に乗りそうになったら、今の私の言葉を心の中で唱えるのね?」
「ええ、姉様。勿論です」
「必ず唱えるわね?」
「ええ、必ず唱えます」
「そう――では、思うようにおやり」
「姉様」
「でも、もうひとつ約束なさい」
「何でしょう」
「もし万が一、あなたの企みが気取られて、危害を加えられそうになったらこう言うの。――穢れの姫と私は深くつながっている、私に傷ひとつでもついたが最後、穢れの姫は即座に気づいて自ら命を絶つだろう、と」
彼らにとって、私の命の価値などたかが知れている。だが、それでも、彼らの予期せぬ形で急に死なれては困るはずだった。
「……脅し、ですよね?」
「当たり前でしょう。あなたがどこで傷を負っても、私は知りようがない。だからこんなに心配しているの!」
「承知しました。その呪文は僕のお守りとします」
ライルが神妙な口調で答えた。
「姉様……一緒に、帰りましょう」
「ええ、そうね」
「約束ですよ」
「勿論だわ。ああ、でも先に逃げられるなら逃げるのよ。私のことは後から助けにきてくれればいい。私はあなたと違って、そこまで困っていないから」
「姉様、何を」
私はあえて突き放すように言った。
「穢れを引き受ける代わりに、まあまあ贅沢をさせてもらっているの。言ったでしょう? 不自由はないと」
「――分かりました」
ライルは気分を害したようだった。私に失望したのかもしれない。
こんな姉など助ける価値もないと――そう思ってくれたのなら上出来だった。
互いにおやすみを言い合って別れた後、ぐったりと疲れ果てていた私は、半ば意識を失いながら左手を布に閉じ込めた。
この夜以降、ライルも私も、二度とこの話を持ち出すことはなかった。
私たちは変わらず、夜になる度、壁越しに言葉を交わし、同じ巣穴に住む雛鳥のように身を寄せ合った。
私たちのお喋りは幼かった頃の思い出か、互いの体への気遣いに終始した。
ライルがそう望んだからだ。
彼が繰り返しねだるせいで、私は何度も、幼い頃に大きな寝台で二人並んで眠った話や、ヤブイチゴを摘んでいるうちに指先が赤く染まって二人で笑った話をする羽目になった。
本当に、ただそれだけの他愛もない話である。聞かされている方は一体何が楽しいのだろう。
「姉様の声が好きなんです。心が落ち着く」
そう言って、ライルは嬉しそうにしていた。
そんな日々がしばらく続いた後のことだった。
とある夜、ライルが穏やかに切り出した。
「姉様、僕はしばらくの間、あなたの呼びかけに応えられないかもしれません」
私は平静を装って答えた。
「そう……分かったわ」
彼の計画が実を結び、いよいよ塔を出ていく日が来たのだった。
「ですが、どうか心配しないでください」
「ええ、ええ――あなたの無事を祈ることしか出来ないけれど、毎日祈っているわ」
壁越しに手を重ね合い、私たちは別れを惜しんだ。
きっとこれが最後だろう。
一人でここにいたくない。
あなただけでもどうか無事に帰ってほしい。
相反する二つの思いを抱えながら、私は「愛してる」と囁いた。
あくる朝、塔はいつものように静かだった。
気だるく億劫な昼をまどろんで過ごし、夜になると、私は分かっていながら冷たい壁の向こうに呼びかけた。
「ライル、もう行った……?」
壁の向こうはしんとして、誰かが笑う気配もない。
残された私はそれから毎日、彼の無事を祈り続けた。