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2.もうひとつの部屋

 体を起こすことが億劫で、私はずっと寝てばかりいた。


 中を満たす悪いものは溶けゆく速さに追いつかず、常に私の体の隅々まで波のように寝食していた。


 体がだるい。死にたいと思う気力も湧かない。


 昼の間は侍女のような者たちが、私の世話をしに塔へとやってきた。


 塔へ入れられて以来、私は全身を細長い布で巻かれ、その上から衣をかぶせられていたのだが、彼女たちは一言も言葉を発することなく、慣れた手つきで衣をめくり、時には剥いで、布がきちんと作用しているか確かめた。


 それが終わると、捧げ持ってきた粥を差し出し、視線や手招きで食べろと促した。


 彼女たちは音のない世界に生きている。


 ――この娘の世話は、耳の聞こえぬ者にさせるよう。


 あの黒衣の男があえてそう命じた理由は何だろう……と、私は寝台の上で時折、やや体調の良い時などに考えた。


 粥など要らない、ここから出してという懇願が、決して聞き届けられることのないよう、あらかじめ手を打ったのだろうか。


 そんな心配など無用だった。


 彼女たちと私の間に温かな心の交流など生まれるはずもないのだから。


 彼女たちは私を年老いた猛獣のように扱い、私もそれを受け入れていた。


 その午後、私はいつものように、重い体を寝台に横たえ、小さな空の目も眩むような青さを避けていた。


 そうして、目の前の壁を見るともなく見つめているうちに、ふと気づいた。


 この塔は双子だ。


 今まで碌に考えたこともなかったが、初めてここに連れてこられた時、絡み合い、決して出会わぬ階段が二つあるのを私は確かに見たのだった。


 狭く細い螺旋のもう片方が導く先に、もうひとつの部屋がある。恐らく、私の檻と対になるような。


 もしかしたら、ライルがそこにいるかもしれない……。


 心臓がドクリと鳴った。


 すべてを覆う霧の向こうに音もなく、ゆっくりと消えつつあったそれまでの日常と、一緒に落ちてきた弟のことが、波間を跳ねる魚のように突如として鮮やかに浮き上がり、私はそのきらめきを手ですくいとった。


 どうしてその名を忘れていたのだろう。たった一人の最愛の弟を。


 ライル、そこにいるの? あなたの無事を確かめたい。あなたの存在を感じたい。


 そう思ってしまえばもう、そのことしか考えられなくなった。


 だが、迂闊に動くことは出来ない。昼の間は侍女たちが何の前触れもなく訪れる。


 彼女たちがいつ来てもいいよう、昼は怠惰な生きものを装い、私は夜になるのを待って、壁をコツコツと叩いてみた。


 馬鹿なことを、したかもしれない。


 こんなものは推測でも何でもなく、ただの願望で――そう自分を嗤おうとした時だった。


 コツコツと、力強い返事があったのは。


 ああ、ライル、ライル。


 彼だと分かった。


 私たち以外の誰がこんな所に追いやられ、閉じ込められるというのだろう?


 コツコツ、コツコツと名を呼ぶように叩けば、私よりも少し速いテンポで返事が来る。


 コツコツ、コツコツ。


 ――姉様、姉様。


 まあ、あの子ときたら……。


 こちらから合図を送るまで、コツリともよこさなかったくせに、何と調子の良いことだろう。


 私は安堵で泣きそうになった。


「――ライル」


 呼びかけたところで、壁の向こうには届かない。分かっていても、私は尋ねずにはいられなかった。


「あなたは無事なの? ひどいことはされなかった……?」


 聞きたいことも言いたいことも山程あった。


 だが、私たちが互いに伝えることが出来るのは、コツコツと壁を叩く音だけだった。


「愛してる、どうか無事でいて」


 その声に応えるように、壁の向こうから音か届く。


 伝えられぬ声の代わりに、私たちはその夜も、その次の夜も壁を叩いて音を伝え合った。








 最初のうちは頻繁だった侍女たちのおとないも、時を重ねるごとにいつしか間遠になっていった。


 彼女たちの仕事は、私の体を布で囲み、私に食べものを届けることである。


 布がなければ、私の体は先端から黒い粒子となり、世界に溶けて戻ろうとする。


 その先にあるのは、人の死とは違う、完全なる虚無だった。


 私は布を外すという愚を犯さなかったし、じきに自分でやる方が、彼女たちよりも具合よく巻けるようになった。ついでに、人から遠くなった体はとうにものを食べなくなっている。


 それならば、侍女たちが訪れる理由もなくなるというものだった。


 動く度、布の隙間からほんの少し黒い粒が漏れてしまうのは、もうどうしようもないことだった。


 私はそこまで人ではないのだから。


 不思議なことに、これほど人から離れても、私の意識は相変わらず私のことを、人間の娘で十四か十五のアイシャだと思っていた。


 ある夜、そうしようと思ったきっかけはもう憶えていないが、私はふと思い立って右手の布をはらはらと解いた。


 とても危険な悪戯だ。


 それは、アイシャの意識が持つちょっとした戯れ心だったか、あるいは、もしかしたら出来るのではないかという淡い期待だったのかもしれない。


 私は剥き出しの手を冷たい壁に当て、ひとつに溶け合い穴を穿った。


 ゆっくりと、酸が侵食し溶かすように。


「――ライル」

「……姉様⁉」


 ああ、出来た……。


 実際には勿論、穴など開いていない。けれど、確かに開いた空洞からライルの声がした。


「ライル――」


 そこにいたのは、やはり私の可愛い弟だった。


 そうだとは思っていたものの、こうして確認出来た喜びはひとしおで、私はしばし言葉を失った。


「ライル……」


 連絡を取り合うことが出来たなら、あれも言おうこれも言おうと思っていたことが全部頭から抜け落ちて、結局私はいつものように彼の名を呼ぶことしか出来なかった。


「姉様、ご無事ですか。ひどいことはされていませんか」


 私に突然話しかけられ、驚いているであろう彼の方が余程冷静だった。


「平気よ。あなたは――」

「姉様、それは嘘でしょう。あなただけがどこかに連れていかれた」

「思ったほどひどくなかったわ。今は侍女が私の世話をしにくる。不自由はない」


 くしゃりと歪んだ顔が目に浮かぶような声で、彼が「姉様」と言った。


 どんなにしっかりしているように見えても、彼は私より年若く、まだ子供なのだと思い出した。


「ライル――」


 もう少しそばにいてやりたかったが、今日はもう限界のようだった。これ以上溶けると本当に元に戻れなくなってしまう。


「もう眠るわ。また明日、お喋りしましょう」

「……はい」


 少し寂しそうではあるが、聞き分けの良い返事だった。


「おやすみ、ライル」

「おやすみなさい、姉様」


 自分が口にした言葉と、当然のように返ってきた言葉に衝撃を受けた。


 誰かに「おやすみ」と言い、また、言われることなどいつ以来だろう。


 止めどなく溶けようとする右手を素早く布に閉じ込め、私はまるで自分が人の体温を取り戻したかのように、おぞましい体を抱きしめた。


 私たちはこれ以降、夜毎密かにお喋りを楽しむようになった。


 彼が今どんな扱いを受けているのか、ひどい目に遭っていないか、しつこく確認しようとする私に彼は苦笑して答えた。


「本当に何も。侍女が毎日世話をしにきますし、僕に不自由はありません」

「まあ」


 私がかつて彼に告げた言葉をほぼそのまま返され、小うるさい姉たる私は言葉を失った。


「……それならいいわ」


 少なくともライルは私がされたようなことはされていない。この状況では、それは喜ぶべきことだった。


「姉様……少しだけ辛抱していてください。僕が必ず、ここから連れ出します」


 満ちて欠ける月の下、壁を挟んで夜毎語り合ううち、ライルはいつしかそんなことを言うようになった。


「嬉しいわ。ありがとう」


 私は努めて明るい声を出した。


 ――ここから出る? この体で?


 姿かたちを変えられ、悪しきものの器となり果てた私には、それは夢見る事すら叶わぬ未来だった。


 だがライルは私とは違う。


 私たちを取り巻く状況など何も分からない。たとえ塔から出たところで、故郷へ帰る術があるかどうかも分からない。けれど、冷静で賢い彼ならば、あるいはこの状況を打破することが出来るかもしれなかった。


「信じていませんね。男が一度そう言ったからには、必ずそうするものなのですよ」

「信じているわ。ライル、信じてる」


 私は心からそう応えた。


 何と立派に育ったのだろう。


 たとえ一緒に行けずとも、その言葉だけで私の胸は十分満たされた。

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