番外編・僕も君と(後)
侍女が腰掛を寝台の正面に移し、王妃がたおやかに座る。
「この度はアイシャが世話になりました」
「いえ、何ほどのことも」
僕はアイシャに倣い、恭しく礼をとった。
「――この国には、時折、霧の向こうに落ちる娘がいる」
王妃がぽつりと言った。彼らの理解の範疇では、そうとしか言いようがないのだろう。だが実際のところはそうではなく、おぞましい僕らが引きずり込んでいる。
「皆、貴国へと落ちていたのでしょうか。落ちた後は皆、アイシャのような扱いを受けていたのでしょうか」
アイシャが何と説明したのかは知らないが、彼女はすべてを語った訳ではないようだった。王妃の態度は真相を知らされた者のそれではない。
「はい」
アイシャが言わないと決めたのなら、僕もそれに倣うだけだった。罪悪感から逃れたいなら、真実を告げることの方がよほど楽だろう。そのせいで死を与えられても、それはやむなし。だが真実の代償として、深い傷を負うのは僕よりもよほど彼らの方だろうから。
僕は僕の国が犯した罪と、それを秘匿するという罪を、一生抱えて生きていく。
「僕はライルと宮廷で出会い、無二の知己となりました。最初は、彼が語るアイシャ姫のお人柄に心惹かれ、実際にお会いしてからは」
僕が語るのは僕に語り得る真実だけ。ならばそれは、アイシャへの正直な思い以外に何があるだろう。
「彼女の為なら、命すら惜しくないと――」
「分かった分かった」
王妃は鷹揚に笑った。
「まだ結論を出すのは早計ですが……貴殿のお気持ちはよく分かりました」
呼吸が一瞬乱れた。王妃はたった今、僕がアイシャを任せるに足る男かどうか、見定めにきたと告げたのだ。ひとまずは及第点、だがまだ認めた訳ではないと。長居はしないと言った通り、王妃は美しい所作ですっと立ち上がった。
「また今度、ライルの話をゆっくりと聞かせてください」
しずしずと出ていく王妃を見送り、ほっと息を吐く。アイシャも成長したらきっとあんな風になるだろう。その片鱗を見せつつも、今はまだ可愛いアイシャがこっそりと戸口から顔を覗かせた。
「水を……飲ませてくれないか」
弱々しくねだると、アイシャは急いでやってきてくれた。そうだろうとも。弱っている相手に冷たくすることなど彼女には出来ない。卓上の果実水を杯に注ぎ、手で支えて持たせてくれる。柑橘で風味付けした、爽やかな果実水をゆっくりと一口飲むと、アイシャが内緒話でもするように言った。
「母は怖いでしょ。嘘なんてすぐに見破るし」
「素晴らしい人だ。君に似ている。……君の美しさは母譲りか」
僕がしみじみそう言うと、アイシャは変な顔をした。
「調子が狂うわね……。以前のあなたはどこへ行ったのよ」
「以前の僕?」
はて、何のことやら。
「僕は最初からこうだったが」
「嘘おっしゃい。あなたはまったく友好的ではなかったし、私たちの間にはずっと壁があったわ。明らかにあなたが作った」
まだ言いたいことはありそうだったが、アイシャはそこで一旦、僕の出方を窺うように口をつぐんだ。
「壁……? ああ、そうか」
「何が可笑しいのよ」
そうだった。欲望のまま彼女に無体を働いてしまわぬよう、あの時は随分と自制していたのだった。
アイシャは知らなかっただろうが、僕は彼女に恋い焦がれていて、その上、自分の命がもうすぐ尽きることを知っている一人の男だった。
初めて会ったアイシャは、ライルによく似た美しい子で、最初のうちこそライルが少々ちらついたが、ライルよりも華奢で柔らかそうな体や、毎晩うっとりと聞いた甘い声、驚いたり怒ったりとよく変わる表情が、早々にライルの残像を消し去った。
「君から距離を取る必要がもうない。君を置いてどこかにいかなくていい」
僕はアイシャの頬に指を滑らせ、しっとりとしたその感触を楽しんだ。
「僕たちはもう、相思相愛の恋人だろう……?」
そのままアイシャを引き寄せようとした時、戸口から声がかかった。
「豆粥をお持ちしました」
アイシャはこれ幸いとばかりに僕の腕からすり抜け、粥の椀を受け取りにいった。
王女様自ら、再びだ。
「ほら、温かいうちに……」
「食べさせてくれ」
アイシャに粥を手渡される前に、弱々しく、だが素早くねだる。アイシャは一瞬渋い顔をしたが、根負けしたように匙を口に運んでくれた。
「あなたの国の豆粥とは、ちょっと味付けが違うと思うけど……」
「美味い」
香辛料をあまり使わない、シンプルで素朴な粥だった。美味いと言ったのは本心である。もっとも、彼女に食べさせてもらえるなら、きっと毒でも甘いだろう。ふ、ふ、と冷ましてくれる唇が無防備だった。差し出してほしいのは匙ではなくそっちだと言ったら、やっぱり怒るだろうか。
「これを食べ終えたら、君はもう行く?」
「行かないわ」
僕は安心して粥を食べ終え、アイシャは約束通りそばにいてくれた。
――姉様、今日はそばにいて。
――今日だけじゃなく、ずっとそばにいるわ。
かつてそれは僕ではなく、ライルに与えられた約束だったが、今の僕は僕のまま、アイシャにそばにいてもらえるのだ。
しみじみと感慨に耽っていると、アイシャがふぅ……とため息をついた。
「ファーリース、真面目な話をするわ」
「何だ」
「あなたはもう、ここで生きていかなくてはならないと思うのよ」
「うん」
そうだろうなと思う。だが彼女は何故、こんなに思い詰めた顔をしているのだろう。確かにこの状況は、彼女にとっても想定外だっただろうが。
「そのうちライルが何とかするかもしれないけど、それがいつのことになるか分からないし……」
何だ……。そんなことか……。
思わず笑みがこぼれた。
僕の帰郷の目途が立たないことを、彼女は純粋に気の毒がってくれているのだった。
僕にはあの国に未練などなく、君のそばにいられさえすればいいのに。
「君と一緒ならどこででも」
「本当に調子が狂うわね」
アイシャが実にむず痒そうな顔で目を逸らした。あまりよくなかったという僕の最初の印象が、今も尾を引いているのだろう。別にそれで構わない。今の僕には最初からやり直す時間がたっぷりとあるのだから。
「君も僕を好きだろう?」
「す、す……何を……」
僕はアイシャを引き寄せ、わざと声を落として囁いた。
「君は知らないだろうが……あれは相手への思いがなければ効力を発揮しないんだ」
「……!」
アイシャが声を失った。
あれとは勿論、解呪のこと。
赤く染まった耳のそばで、僕は笑みを噛み殺す。
ごめん、アイシャ……。
実は真っ赤な嘘だった。普通に考えてそんな訳がない。
だが、僕は彼女の反応から、知りたかったことを知り、アイシャは観念したようだった。
大人しくなったアイシャの体をゆっくりと囲い込む。真面目な話はもう終わり。相思相愛の恋人ならば、二人きりの時間はもっと甘くてしかるべきだ。
指に絡めた蜂蜜のように。
壁越しに語り合う夜のように。
アイシャ、いつか君に伝える日が来るだろうか。
あの日々が僕をどれほど甘く癒したか。
――姉様、今日はそばにいて。
――今日だけじゃなく、ずっとそばにいるわ。
思わずさらけ出した弱さ。ライルにはそれを当たり前のように受け止めてくれる人がいた。そして、その人は今、僕の恋人となって僕の腕の中にいる。
「ライルに張り合うつもりはないが……君がライルとした楽しいことを、僕も君としたい」
「え? ええ、そうね……例えば、何を……」
「一緒にヤブイチゴを採りにいったり」
アイシャがくすりと笑う。
「ええ、いいわ。丁度、今の季節……」
「それから――大きな寝台で、二人並んで眠ったり」
ライルから聞かされていたことといえば、まずはこの二つである。
アイシャがぴたりと動きを止める。
聞こえていなかったかもしれないから、僕は繰り返した。
「大きな寝台で、君と二人、並んで眠りたい」
赤みがかった美しい褐色の髪に指を挿し入れる。
僕の望みが正しく伝わるよう、親密な触れ方で。
「そういうことを、君としたい」
至近距離で囁いて、僕はアイシャの頬に頬をすり寄せた。




