番外編・僕も君と(前)
ファーリース視点。あまあまです
霧がかった意識の向こうでアイシャが泣いていた。
それは聞こえたというより感じたという感覚に近かった。
アイシャ……。
どうして泣いている……。
朦朧とする意識の中で答えを探る。
もしや僕は失敗したのだろうか。
否、そんなはずはない。
あの時、確かに霧を越えたという感触があった。
だが、それならば何故彼女は泣いている?
どこか体を痛めたのだろうか。
それもない。
決してそんなことがないように、彼女の体をしっかり抱え込んで飛んだから。
向こうの世界に落ちた後、しばらくはまだ意識があって、僕が下になっていたこと、僕自身、特に痛みもなかったことをはっきりと記憶していた。
――こんなの、あんまりだわ……。
もう泣くな……。
まったく。誰が君を泣かせている……。
そばにいって肩を抱き、慰めてやらなくてはと思うけど、既に死せる身の哀しさ、彼女に伸ばす指どころかそもそもの体がない。
もどかしい思いとは裏腹に、泥のような眠りが意識を覆い始めた。
駄目だ……。僕は……彼女のそばに、いかなくちゃ……。
――いや、待て。
死んだはずなのに何故意識と記憶がある? 何故アイシャが泣いているのを感じる?
ぼんやりとした霧の向こうから、今度は叔父君の声が聞こえてきた。
――何だ。ちっとも目を覚まさないと思ったら。
人の気も知らず、どこか楽しげな声だった。
――彼は自分が消えたと思っている。
彼とは誰だ……まさか。いや、それはない。禁呪を犯した者の行きつく先は、完全なる虚無のはず。
混乱する僕をよそに、叔父君は子供に語って聞かせるような、優しげな口調でアイシャに説明した。
――彼はあなたに引き戻されたことを知らないのです。だから自分が生きていることにも気づいていない。
……え。
――そんな。どうしたらいいの。
アイシャが困ったように言う。
叔父君が明らかに楽しんでいる声音で続けた。
――毎日呼びかけておやりなさい。手を握って、優しく見つめ、「愛するあなた、戻っていらっしゃい」と。
ドクン、と心臓が跳ねる。
つまり、僕は。
「可哀相に、未だ目を覚まさないとは、随分つれない態度を取られているんでしょうねぇ……」
叔父君がアイシャをからかっている。声は今や耳を通して聞こえている。
目を開ける。開いた。首を動かす。動いた。すぐそばに叔父君とアイシャがいる。アイシャの目元には明らかに泣いた跡がある。
「壁越しに思いを募らせていた、愛しの君と出会ったのです。彼の頭からはもう、ライルとの約束なんてどこかに吹き飛んでいたでしょうね」
ええ、まあ……叔父君、それはその通りなんですが……。
勝手に思いを代弁されるのを、為す術もなく聞かされている状況というのは、なかなかに複雑なものがあった。
アイシャはいたたまれない、と言わんばかりに目を伏せた。
「ウターリド、それはないわ……。彼と初めて会った時の私は、それは恐ろしい化け物だったの。だから――」
「――叔父君が合ってる」
叔父君とアイシャが揃って僕の方を向く。アイシャの目の縁にみるみる涙が盛り上がる。
あ、まずい、泣かせ……。
アイシャが駆け寄り、上から抱きついてくる。
「ファ……」
僕の名を呼ぼうとして、アイシャが涙で声を詰まらせた。彼女の背に手を回し、ぽんぽんと撫でる。もう一度繰り返す。
「叔父君が、合ってる」
こんな幸運があっていいのか……。
ぴったりと抱きついてくる彼女を閉じ込める腕があり、彼女の髪を撫でてやれる手があり、泣くなと彼女を慰めてやれる唇があり。
それらすべて、夢でも何でもなく確かな感触があって。
「僕の体が消えずに残っているということは……君が?」
分かっていながら、僕はアイシャの目を見て尋ねた。
潤んで輝くその瞳は、冬の湖のような青灰だ。
「えっ、ええ、まあ」
「ふうん……そうか。君が」
自分の唇を指でなぞり、一人で悦に入る。
アイシャがキッと睨んできた。
「なっ、何よ! そのにやにや笑いを止めなさいよ!」
「無理だな」
すまないが、そんな可愛い顔で睨まれても笑みしか出てこない。
「お二人さん、ここにもう一人いることをお忘れかな? じゃれ合うのは私がお暇した後にしていただきたいのだが」
叔父君にからかわれ、アイシャがぱっと僕から離れた。
「侍医を呼んでくるわ」
そう言って部屋を飛び出していく。
「おやおや、王女様が自ら侍医をお呼びに出向いてくださるとは」
「叔父君があんな言い方をするから逃げた」
「ハッハッ。そうか」
叔父君は笑って寝台の縁に腰掛けた。
「おかえりなさ……」
いつもの癖でそう言いかけ、僕ははたと口をつぐんだ。今の僕は長い旅から帰ってきた叔父君を、王宮で出迎えている訳ではない。さりとて尻すぼみになった言葉の代わりにかける言葉もすぐには思いつかない。
叔父君はくすりと笑い、「ただいま」と僕の額に口づけた。
悪戯っぽく僕の顔を覗き込む。
「――おかえり、ファーリース」
「はい……」
まあ、それはその通りだった。僕はどうやら黄泉路から帰ってきたようだし。
「積もる話はまた今度。お前の周囲が騒がしくなる前に、私は退散するとしよう」
叔父君はさっと立ち上がって部屋を横切り、扉口で一度振り返った。
「私はお前の叔父ではなく、吟遊詩人のウターリド、ここではただのウターリドだ。いいね?」
僕は噴き出し、了承の印に頷いた。事情は何ひとつ知らないが、いかにも自由な叔父君らしい生き方だ。
入れ替わりにアイシャが侍医を伴って戻ってきた。彼女は侍医を僕の前まで案内すると、さっさと部屋を出てしまう。態度が妙によそよそしかった。人の目を気にしているのだろうか。
「ご気分はいかがです」
「とてもいい」
僕は愛想よく答えた。嘘ではなく、本当にぐっすり眠った後のように頭がすっきりしていた。
「どこか痛みは」
「特には」
「起き上がれますか」
「うん……あ……」
「そのままで結構です」
起き上がろうとして上手くいかなかった。ゆっくりやれば出来ると思うのだが、侍医は無理強いせず、僕もそれに甘えた。寝そべったまま顔色や舌を観察され、脈を取られる。僕の知る侍医はまじないや呪いの兆候をまず探るが、こちらの侍医は体に表れる症状から判断するようだ。
「見たところ、異常はございません」
侍医は僕を安心させるように微笑んだ。
「ただ、ずっとお眠りになっておりましたゆえ、お食事などは胃の腑を驚かせぬよう、少しずつ、ゆっくりと、柔らかいものからお召し上がりください。粥を用意させておりますので、じきに届くでしょう」
「ありがとう。……後で周囲を少し散策してみても?」
「ご無理のない範囲でなら」
焦らず、徐々にですよ、と穏やかに釘を刺され、僕は素直に頷いた。
少しずつでもいい。アイシャが生まれ育った城や国の景色をこの目で見てみたかった。
侍医が辞し、「入ってもいい?」と外からアイシャの声がする。「いつでもどうぞ」と招くと、おずおずと中に入ってきた。
さて、この気まずそうな様子は一体何だろう。
「あっ……あなたに、説明しておかなくてはならないことがあるわ」
アイシャが身悶えせんばかりに恥じらいながら語ってくれたところによると、僕は彼女の相思相愛の恋人で、彼女を命懸けでこの国に連れ戻した一途な男、ということになっているらしい。
「……それで合っているだろう?」
「わ、私はそんな……」
「僕が嫌いか」
「嫌いじゃないわ!」
アイシャが怒ったように叫んだ瞬間、外から侍女の声がした。
「王妃様がお見えです」
「お入りください」
急いでそう応え、身を起こそうとすると、眩暈に襲われた。
「よい、そのままで。長居はしません」
アイシャと同じ、静かな威厳のある美しい女性が侍女を従えてしずしずと入ってくる。よいと言われてもそんな訳にはいくまい。気をつけながらそろそろと身を起こすと、アイシャが体を支えてくれた。何とか座位を保ち、王妃に向き直る。
「アイシャ、目覚めたばかりの方に対し、そのように声を荒げるものではありません」
「失礼いたしました」
アイシャもこの人には頭が上がらないのか、しおらしく頭を垂れた。
「出ていなさい。ファーリース殿と話がある」
アイシャは恭しく一礼して出ていった。食事の作法も、僕に手を取らせる時の所作も美しいと思ったが、彼女の物腰はやはり、恐らくは王宮であろう、このような場所に映える。厳しく躾けられて育ったのだろう。自堕落な我が一族とは大違いである。
「普段はこんなに騒がしい娘ではないのですが」
何故か詫びるような口調で言われたが、大人しいアイシャの方が心配である。僕は緩く首を振った。
「僕の前では、どんな感情も抑えず見せてほしいと心から願います」
王妃は思わずといった様子で目を瞬き、ほっと上品に笑った。




